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東京都の漫画規制について厚生経済学でかんがえる

本日のネタ本:鈴村興太郎『厚生経済学の基礎―合理的選択と社会的評価 』岩波書店,2009年

 マイケル何デルのおかげで政治哲学の地位がずいぶん上がった。かたや、何デルは、規範や正義について考えるとき、経済学が役立たずであるという印象を植えてしまったきらいがある。

 とんでもない誤解。きわめて心外だ。

 そこで、さいきんの厚生経済学を用いて経済学の名誉を回復しようということが、本稿の意図するところである。

 珍しく携帯での更新なので、委細には目をつむってもらいたい。あと、鈴村先生の日本語(「」で引用)が難解すぎるので、平易な言葉に直してる。彼の議論の厳密性が失われているとしたら私のせいだ。

 さて、件の東京都の規制は、セン=鈴村の解法を基準とすると、結論は望ましくない、といえる。

 まず前提。セン=鈴村の解法は、個々人に私的領域での決定権(選択の自由)がある自由な民主主義社会を想定する。しかもその社会は、できるかぎり個人の幸せを願う社会だ。いまこの想定は、いまの日本とそれなりに無理なく重ねることができるとしよう。

 さて前提を呑んでもらったうえで、議論の格子はこうだ。個人の選好と社会の選好は異なりうると考える。なぜか。「パレート原理は、社会を構成する人々の間で全員一致した選好が支配する場合にのみ社会的選択にたいする制約条件として役割を果たす」からだ。したがって、(他人の権利を侵害しない場合において)他人が他人の選好にとやかく言う権利はないというに制度設計であってはじめて、自由で民主的で皆の厚生を可能な限りおもんばかる社会といえるのだ、と。

 わかりにくいので当該解法の主旨の例「あるひとのネクタイを私は俗悪な趣味の極まりだと思うが、彼がそのネクタイを締めることを禁止する社会的キャンペーンで弾劾発言をする行為は、リベラルな個人を自認する私には、到底容認できることではない」だそうだ。

 誤解をおそれずにいうと、セン=鈴村の解法は、論理記号を用いた数学的な知的遊戯だ。しかし、論理学から無理なく上述の含意を引き出して正当化できるところに意味がある。

 制度の規範的是非を問うとき、直感に訴えるサンデルの美学的正義も大切だが、このように、制度が主張と矛盾していないか客観的に検討できる厚生経済学も有用といえるだろう。

 そんなわけで、これからは厚生経済学の話もしよう。

初出:2011年01月22日


※ 参考までにマニア向け。学術的な貢献は、この解法が、かの有名なアローの不可能性定理もセンの不可能性定理も、ギバートのリベラルパラドックスも回避していること。興味ある諸氏は調べてみてください

※ なお私自身は、漫画規制あってもなくてもどっちでもいいとおもってます。

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