制度論にまつわるあれやこれや
ウェブレンをはじめとする制度経済学派は、制度を均衡としてとらえる傾向にある。すなわち、経済学の意味するところの制度は、当該地域における慣習や規範を集約した形の、いわゆる「知識の集積」であるということだ。都市にたとえていうならば、知識集約的都市といったところであろう。
一方、イェーリングをはじめとする政治学者は、制度を異なる見解によりとらえる。たとえば、もし国家がリヴァイアサンであれば、われわれは、この怪物のもつ暴力を抑制するための手綱がなければならないであろう。この手綱が、制度であるといえるだろう。すなわち、政治学的な制度は、国民の信託に基づく権利を行使する国家機関を抑制するものとして存在する。これにのっとれば、制度は、知識集約的な均衡というよりも、むしろ動的な手綱として、自ら統制しうるよう、自らの手で勝ち得ねばならないものとして存在しはじめる。
制度は、経済学者にとって、悠久の歴史の遺物たる知識の蓄積・集積である一方、政治学者にとって、自ら勝ち得ねばならない手綱である。経済学者は、上記につき、制度に依拠し、依存すべきと主張する。政治学者は、上記につき、制度を勝ち取り、これを超えるべきという。
なるほど、衝突するはずである。……とするのは早計である。
よく考えてみると、この二者、そもそも「制度」概念の定義……というか、暗に指しているものがちがうことに気づく。
政治において、制度は、ガヴァナンスとしてのもの、つまり、法律、憲法などを暗に指し示している。
一方、経済において、制度は、経済円滑化を図るもの、つまり、市場、都市形態、金融スキームなどを暗に指し示している。
もともとの性格がちがうのだから、求める役割が異なって当然であろう。言葉の定義に気をつけよ、とは我がお師匠様のよくおっしゃるところである。
逆に、共通する部分もある。それは、国家体制である。これは、国家ガヴァナンスも、経済体系も、いずれをも含むからである。
青木昌彦やP.ミルグロムの議論が、政治学者にとって受け入れがたいものであるのは、当該議論が、国家ガヴァナンスの在り方にまで言及しているからである。
政治学者にいわせれば、最適な国家体制「制度」は、われわれ自身の手で掴み取るものであって、けっして過去の歴史の積み重ねから模索するものではないのであろう。
だが、国家の手綱たる制度をみずから勝ち得るにしても、新しい手綱を思いつくとき過去知識蓄積から引用せざるをえないから、意識的にせよ無意識的にせよ、過去の制度と比較しているはずであり、この点からすれば、経済学的制度も暗黙のうちに認めているはずなのである。
けっきょく、思想からの冒険も、思索からの探検も、どちらの視点も重要であるということがいいたかっただけ。役割分担とかでなく。
しいて論点をあげるなら、経済学者が暫定的「均衡」としたせいで、政治学者が「超越対象」としての制度を否定されたと感じているところではないだろうか。一応、青木もダーウィニズム的メカニズムとして、制度の進化を想定しているのだけれど、政治的には生物的進化ってより闘争の成果なんだろうなあ。
もし世界が「保守的マクロ経済政策」を行っているとすれば、Krugmanの指摘するようなただ1国が自由貿易に則るのは戦略的でない、すなわち合理的選択になりえないだろう。それは、環境対策も同様で、1国がやったところで、割を食わされるだけである。したがって、国際的ルールを規定して、これを現在のものとしなければならない。だが、これを共通の「価値」として守るインセンティヴ付けを行うため、違反しないように委細におよぶまで明文化するのは、きわめて難しいとおもわれる(なぜなら、アロー教授が指摘したとおり、各国には文明の多様性が存在するのだから)。
サミュエル・ハンチントン的な文明・文化に基づく(愛国心?)イデオロギー対立が明確化した場合、「それぞれの国に備わっている天然資源や賦与要素の単純素朴な物々交換」に帰す場合も考えられよう。国内自給率が低い我が国の場合、これについては、喫緊の問題のようにおもわれるのである。
では、これをどうやって克服するか。今後の課題である。
【補論 イエーリング『権利のための闘争』について】
「権利=法にとって闘争が不要になることはない」(P29)
おっしゃるとおりだと思う。デモクラシーの歴史を辿れば、瞭然、自明だろう。最近のデモクラシーの質が変わってきたといえ、政治にとって「制度」は闘争の歴史そのものなのだろう。
曰く、ひとは権利意識が侵害されたときにその義憤で闘争をする、という。自身権利の帰属する国家への義憤だ。
なるほど、この論理からすると、己の闘争の歴史こそが、自身の権利が帰属する国家への「帰属意識」(俗に言っちゃえば「愛国心」)を生じさせる、ということか。
「国民とその法との最も固い絆をつくり出すのは
単なる慣習ではなくて払った犠牲である」(P42)
ふだん自身が国家の法によって守られているので「お返し」的にそれを守ろうとするが、自身権利(人間は利己的とされているので、自身のプライドや尊厳とよみかえてもいいのかも)が侵害されたときは、ただじゃおきませんよ、と。
なにやらアクセルロッドの主張みたいだ。しっぺ返し戦略、みたいな。
つまり、国家にたいして、個人は「社会契約」に基づく信託により、帰属することをよしとしているから、「対立と協調」をおこなうゲームとみれるわけだ。
もっとも、これがゲームとして成立するのは、国家と個人の役割が「対立と協調」として緊張関係に
あるときだけだ(近代欧米とか)。
だから、「機会費用」がものすごく高くなり、また個別「デモクラシー」自体の性質が変わってしまった現代社会においては、これを明確にゲームとして規定できない。しかもわが国では国家との間に情報の非対称性があるうえ、圧倒的大多数が権利のための闘争を放棄している(選挙に行かず投票しない、など)ため、実質的に、国家への過剰な「信託」が行われていて、もはや対等なゲームですらない。
これをゲームとして成立させうる政治家、あるいはマスメディアが昨今のていたらくじゃよくなるものもよくならない、と。
などと愚にもつかない考察を及ばせていった結果、『権利のための闘争』1冊で、わが国の社会問題がなぜ問題視されているのかが1発で明瞭になった。イェーリングすごいなあ。どんだけ洞察力鋭いの!
初出:2009年03月17日,2009年05月01日