「城壁」にまつわる都市地理学のあれやこれや
【第1講 「なぜ我が国に「城壁」文化が存在しなかったのか?」――我が国近代都市の成立過程から】
我が国都市は、近代都市への発展において、「城壁」の成立という過程を伴わなかった。
欧州諸国の主要都市、たとえばロンドンやベルリンには、「城壁」が存在した。ここで、我が国においても戦国時代から江戸にかけて城を囲う城壁がある、との批判があろう。しかし、我が国において「城壁」と呼ばれるものは、諸外国の「城壁」と以下の点において異なる。即ち、我が国城壁が「城」のみを囲うのに対し、諸外国都市は、「市民が住む町」までを包括しているということである。これに対し我が国都市は、市民を守る城壁がないばかりか、入り組んだ城下町を築くという防衛策を採用し、ある意味で「市民を盾」にしている。
さて、我が国都市は、古来より、京都、奈良及び札幌の「碁盤目状」都市設計にみえるように、主として、中国の都市をモデルにしてきた(なお、韓国も同様に、中国の都市をモデルとした)。しかしながら、中国の都市も、北京や西安にみえるように、城壁に囲われていた。いっぽう、我が国都市は、平安京をはじめ、「城壁で囲う」ことが行われなかった。以下では、なぜ我が国で「城壁」が発展しなかったか、ということについて検討する。
まず、「我が国の技術力が乏しかったため城壁製作が不可能であった」という仮説について検討する。我が国には、北九州防衛の「石塁」及び「石垣」がある。このため、技術力が乏しいことの結果が城壁文化成立を妨げた、とする仮説は、妥当性を有しない。
以下では、J.S.ミルの「差異法」を援用し、我が国都市と我が国がモデルとした中国の都市を比較検討する。地理的側面から見たとき、我が国は島国であり、中国は地続きの大陸であった。ここから想定されうる仮定は、我が国が、「元寇」という例外を除き、外部から侵略を受けるという脅威に晒されておらず、その経験が乏しかったため、「城壁を築く必要がなかった」ということである。外敵の脅威から防衛する必要がない以上、侵略される恐れもなく、内側の敵――国内の内乱――に対してのみ防衛措置を取ればよい。事実、「元寇」という外部の脅威に対しては、「石塁」という石垣を築いている。したがって、この仮定は、ある程度妥当性を有するものである。
続いて、アテネのポリスの流れを汲んだロンドン及びベルリン等のいわゆる都市国家と、我が国都市を比較検討する。アテネには、ポリスと呼ばれるある種の共同体が成立しており、夜警国家としての大きな政府が存在した。「大きな政府」にまで言及せずとも、アテネには、その街への所属感――つまり市民権――があり、他の市民とアテネ市民とを明確に区別するシステムが確立されていた。これは、ローマ帝国の侵略支配、大航海時代後の植民地支配、ないし欧州列強の植民地支配にみえるように、欧州の基本目的が、侵略支配であることに起因する。とくにローマ帝国成立過程に鑑みれば、彼らが移動民族であり、侵略支配による領土奪取が目的であることが理解できよう。その過程において彼らは、役に立つ人間――たとえば技術者など――以外を皆殺しにする傾向があった。結果、欧州諸国では、安全安心が都市国家市民の第一義的願望となり、国家安定及び支持獲得に際して「市民を守る」ことも視野に入れた「城壁」が成立したと考えられる。そのため、このシステム及び考え方は、中世欧州に引き継がれてゆき、その後の欧州都市に「城壁文化」を根付かせたものと推察される。
いっぽう我が国において、城下町に住む町民たちは、士農工商という階級に見えるように、職人及び商人が蔑まれるべき職業とされており、保護されるべき対象でなかった。ここから、「入り組んだ城下町」のような、いわゆる「城下町自体を防衛のひとつ」という構想が生まれたと思料する。さらにこれは、先記の夜警国家の思想と、相反するものである。
このとき、欧州都市において、「城壁」建設という、大規模都市計画が可能であったのは、一部の有力貴族がまとめて土地を所有しており、その管理が容易であったからだということに留意しなければならない。他方、我が国において、土地は、武士――すなわち農民の成り上がり――が徴税権とともに所有していた。このため、土地は細分化され、統制が困難であった。したがって、イギリス――とくにロンドンにみえるような、貴族が多数の土地を所有している状況に成りえず、それゆえ、中央集権的な大規模都市計画を成立させる圧力は、存在し得なかったのである。かりに大規模都市計画構想が存在したにせよ、細分化された土地においては、画一化・管理及び統制もままならず、現実において実現不可能であると思料する。
この、大規模都市計画に際しては、「民主主義革命」も重要なファクターである。なぜならば、ドイツにせよ、イタリアにせよ、フランスにせよ、民主主義革命が発生した場所では、大土地所有者から農民へ土地の移譲が行われ、大規模な細分化が起こったからである。すなわち、我が国と同様の理由につき、上記国都市では、それ以降、城壁文化が衰退した。その点、イギリスは階級社会のままであったため、土地の細分化が発生しなかった。この事実に鑑みるに、民主主義は、城壁文化の阻害要因になりうると言える(ところで、近代都市の発展過程において「城壁」を伴わなかった国は、我が国のほかに、アメリカがある。アメリカの場合、「城壁文化」が根付く前に民主化してしまったので、城壁が不要であった)。
以上から、我が国において、城壁が不要で、かつ夜警国家思想も根付かず、さらに製作実現に実質的困難性が伴っていたことがわかる。これにつき、我が国には、城壁文化が成立しなかった。
では、我が国には、夜警国家的思想が全く存在していなかったのであろうか。少々蛇足になるが、付け足しておく。じつは、我が国にも、城壁という構想は存在したのだとする説がある。堺や坂田、函館といった、職人等による自治の街は、各々のコミュニティを持ち、何らかの防衛機構をもっていたという。また、豊臣秀吉が、諸外国に学び、「夜警国家的思想」を導入しようとしたという説がある。これは、橋でなければ渡れないような距離の堀、あるいは堀の長さをより長くした痕跡が認められることに、その論拠を持つようである。だが、豊臣秀吉は、その後の歴史の敗退者であり、また、その主張及び検証を行った論者が数少ないため、実証されていないのが現状である。しかし、豊臣秀吉の時代に、欧州の、いわゆる夜警国家の考え方が流入したことは、歴史的背景ないし現実実現可能性から考えても妥当であり、確かな事実らしい。
昨今、イギリスのロンドンの大規模都市開発には、目を見張るものがある。ロンドンの過去を振り返ってみても、都市開発は、計画的に行われてきた。これはひとえに、大土地所有者の存在により、大規模都市計画が容易に可能であったお陰と言うべきである。我が国では、民主主義革命の発生も伴っていないため、現在に至っても武士社会の名残の土地保有形態が残る。これが、明治時代以降、戦略的大都市計画の実行を阻害し、大都市形成を阻むことになる。これが、我が国における都市形成が促進されなかったゆえんである。
【第2講 「我が国『城下町』は都市の近代化にいかに関与したのか?」――我が国都市計画をふまえて】
「都市」は定義より、政治・経済の中心地で、かつ第一次産業以外の中心地でなければならない。また、定義から、都市は、ライフライン及びインフラの整備がなされていなければならない。すなわち、ライフライン及びインフラは、どの都市にも共通している機能である。
ところで、都市成立の可能性は、都市経済学からみると、当該地域に「比較優位」、あるいは「規模の経済」の外部効果の源泉が「取引」「輸送」「情報の交換」各種費用削減にある「集積の経済」が存在するときである。ただし、バージェス(1921)、あるいはアロンゾ型古典住宅立地もデル(1972)の同心円的な「住み分け」は、「集積の不経済」が存在したときである。
今日、我が国における「都市」は、元・城下町、あるいは港町であったところが多い。すなわち、城下町及び港町は、近代的「都市」へと発展した。
城下町は、各藩の中心町であった。また、城下町の規模は、当該藩のサイズに比例する。城下町は、各藩の中心町であるので、必然的にインフラ及びライフラインが整備される。また、商人・職人の存在により市が存在し、経済活動が活発である筈である。そのため、当該藩に産業があれば、発達しやすい。ただし当該城下町が発達するか否かは、当該藩に比較優位産業が存在したか、また産業発達に適う立地条件であるかが重要である。すなわち、それらを満たしたものが、現在の都市となっている。
高度経済成長までの城下町は、インフラ及びライフライン整備につき、近代産業育成の場としての役割を果たした。しかし、現代においては前回文章に掲げた「土地の細分化」につき、統一的かつ画一的な都市計画推進を阻害する要因となっている可能性がある。また、前回文章に掲げた細分化、並びに「城壁」の不存在及び我が国「民族性」から、「市民」と「支配者」間のある種の協力関係がないため、大規模都市計画に協力するインセンティブがない。これも同様に、大規模都市計画推進の阻害要因になっている可能性がある。
高度経済成長以降、城下町は、都市の近代化には貢献しないうえ、都市発達の阻害要因になっていた可能性がある、と上に記したところである。たとえば大阪では、商業機能が発達したが、典型的なスプロール現象が発生しているとみることができる。大阪において大規模な都市計画が進行していないことにかんがみても、それは明らかである。
だが、身分制による「住み分け」が、今日の大規模都市計画に貢献することもある。たとえば江戸近辺の旗本領は、広大であった。それゆえに、大規模都市計画を推進しやすいであろう。また、金沢などでは、城下町に「観光都市」としての役割を付随させたりしている。
このように、城下町は、時代によって用途が変わってきている。すなわち、我が国城下町は、大規模都市計画の阻害要因になる可能性はあるが、必ずしも都市の近代化を阻むものではないのである。むしろ、歴史的建造物として今日にまで残したことについて、評価すべき側面が大きい。また、いかにそれを生かすかが重要になるであろう。
初出:【第1講】2008.5.21.,【第2講】2008.7.15.
参考文献:
金本良嗣『都市経済学(プログレッシブ経済学シリーズ)』東洋経済新報社、2007
浮田典良『新訂版 地理学入門 マルティ・スケール・ジオグラフティ』原書房、2007