エミール=オーギュスト・シャルティエに憧れて
文体模写ができておらず,プロポの形式にすらなっていませんが,以前アラン著・神谷訳『四季をめぐる51のプロポ』に感化され書いたものです。
「旅の秘訣は たどり着く町を持たないこと」。こう断言したのは覚和歌子。
目的の定まらない放蕩の旅が魅力的であるように,あるいは,偶然性が引き起こした巡り合いがのちのちまで鮮明に記憶されうるような得がたい経験となるように,または,所謂ノープランやグダグダがなんともいわれえぬ喜びをもたらすように,「たどり着く町をもたない」旅は,至福のひとときを,われわれにもたらす。
学問の世界についても,きっと,そうだ。
いま,時計の針をギリシャ時代まで戻すことにしたい。
プラトン,アリストテレスなどのギリシャ哲学の流れ,それは,もともと自然科学を探求するものだった。宇宙とは,人間とは,美とは,世を構成する元素とは,いかにあり,いかにあるべきかを説く。それは,Unknownへの畏怖から防衛本能のうちに正体を見破りたいがためかもしれぬし,畏敬の対象を解剖して,手綱を握り,支配したいという欲望か,はたまたそれより遥かに高尚なものへの探求心かもしれない。いずれにせよ,飽くなき探究心(あるいは欲望)は,未知への物事があるからこそ存在しえたはずである。
たどり着く町をもたないからこそ,旅は続き,楽しいものとなる。だが「たどり着く町をもたない」ということは,帰るべき町もない,と同義であることに気づく。覚の言葉を借りるならば「死んだ人からの手紙を携えて」いることが旅の秘訣,さらに換言すれば,その旅を極める秘訣は,「喪失」ともいえる。
ところで「喪失」は,芸術においてとみに美しさをひきたたせる要素である。フランソワ・ヴィヨン,石川啄木,宮沢賢治。ベートーヴェン。科学でもそうだ。ジョン・ナッシュ,“レインマン”,ホーキング。ある種の喪失が,高みへと導くこともある。しかし,ロバート・レスラーが経験談として書くように,逆もまた然り。悪しき道への扉を叩くこととも成る。
たどり着く町をもたない結果は,必ずしもよい方向へ転ばない。それでももし神の手のお導きがあるというのなら,それこそ唯一神の存在を否定するか,あるいは導かれたという者の存在を否定せざるをえない。
にもかかわらず,旅の秘訣が「たどり着く町をもたない」ということは,たしかにわれわれの直観においてその正しいらしさを認識されている。これはどういうことだろう。
はっきりいって,私はまだこれに対する明確な解答とよべるものをもちえていない。
しかしわれわれは,善いことを,あるいは人類として価値あるものを守ろうとするインセンティヴが予め定められているようなのである。
不可能性定理を美しい数式で描いたかのノーベル経済学者ケネス・J・アロー曰く,われわれの歴史経路依存性にもとづく,あるいは遺伝レベルにもとづく権利と義務の感情から湧き出ることを自己拘束的にまもれば全体として善い方向へとむかうであろう,という。
もしこれがただしい考察ならば,初期時点の所与の感情がすべてを決定しうることとなるが,しかしこれだけでは不充分のはずである。なぜならば,この論調からすれば初期時点に与えられたもので結論が予め与えられてしまうからである。
しかもこれについてアローは,その美しい数式で世界を描写することを怠ってしまった。――もはやかの栄光は過去のものとなっているにもかかわらず氏はそれに満足してしまった。そうした講演が先日の内容だった。すなわち,外の環境――われわれを包むすべての事象――を取捨することになりうるからである。
われわれはこの世に生を受けてから今に至るまで,影響を受けてきている。これは否定しようもないことであり,それこそスーパーエゴ,エゴ,イドなどの外生要因にパーソナリティが左右されるという歴史・脳科学などの心理学的考察の蓄積を無価値として切り捨てるようなものだ。すなわち,イデア的な世界でなければロールズ的な無知のヴェールは存在し得ないのである。たとえばベイズ学習的な自己組織化アプローチを用いようとも初期パラメータを与えねばならないのである。
かくのごとく人間の心理,あるいは心裡を真にさぐる「旅」はそれこそギリシャ哲学からの,あるいはもっとふるいときからのながいながい悠久の旅であることとおもう。そしてこれらの旅路を今日においてゆくには,科学の発展を待たねばならないが,それは社会科学にあらず。自然科学から抜け落ちた近代哲学や社会科学は,手垢にまみれた言葉で語ることを試みたか,あるいはそれを回避するために難解な言い回しの自己陶酔か,そのいずれかに成り下がる傾向が強かった。
むろん,すべてがそうであった,とはいわない。しかしミシェルがサールに指摘するように,現代思想などは(とくにフランスあたりで)難解な表現がなければ読まれるに値しないものとなってしまった。 それは「芸術」の衣を身にまとっただけの木偶でしかない。
「神を地に落とした」のはほんとうに自然科学だけであっただろうか。概念においても知識においても存在においても偶像を作り出し,それをまつりあげたのは人間ではなかったか。 神の存在を地に「貶めた」のは,人間それ自身の浅薄さではなかったか。
しかしながら,社会科学を,人間,あるいは世界を理解するための共通言語とするなどおこがましいといえるから,心裡,あるいは真理を知る旅には,いまや記号化された世界,あるいは数学の世界にかかわりをもたせなければならないのである。
近代における社会科学にこそ,この言葉はふさわしい。
―――されど去年の雪,いまいづこ。
いまここにかいているものも,おそらく枝葉を削ぎ落とすと限りなくゼロに収束するとおもわれるように,修飾され無駄に伸びた社会科学,ないし哲学が,その厳密性に欠けることは言わずもがなである。その点,記号化された世界は,われわれを遥か遠くまで導く。
時折それ(記号化された世界)は,枝葉の成長点より下の部分で刈り込みをいれてしまい生物の胚の欠損のそれのように,成長したあかつきには不完全な形で表出することもありえるだろう。
だがそれは,旅立つ「足」を手に入れた利便性により相殺されうる筈である。「牛の背中に揺れながら 歌うように運ばれていく」ように,われわれは「牛」に乗ることができたのである。そしてその「牛」をえらぶのは,われわれである。
不完全な形をいかに完全に近いものとして写実主義的に描写するか,あるいは本質をとらえた抽象画として仕上げるか,それはわれわれが旅立つ前の初期時点において路を往来するどの牛に乗るかに委ねられている。ただし,それらにはきっと,たどり着くべき町は用意されていない。
(注:自然科学に接近を試みない近代社会科学書がひどく中途半端で退屈なものであるのは,このためであろう。すなわち「帰るべき場所」(自然科学)をなくしたが,社会科学の道をゆこうとするも,そのための足をまだみつけておらず,「歌うように」運ばれていないのである。)
だが同時に,それに傾倒しすぎてはいけないとも忠告されている。アルフレッド・マーシャル曰く,――数学を使い,その後で焼き捨てよ,と。
われわれは,「曇り空の色をした石門」をくぐろうとしている。そしてそれは狭き門であり,通過点にすぎず,続く道の先も不明瞭で,来た道すらとうの昔に忘れ去られている。 牛自身も,ただ歌うように歩いているばかりである。退路も帰路もなく,あるのは岐路ばかりである。
けれど「見えない鳥を数え」ながら,歌うように旅をすればきっと,たといそれがどんな旅であろうと,素敵なものになるにちがいない。
そういう旅ができれば,幸いである。
2009.05.06作
引用文献リスト:
François Villon著・鈴木信太郎訳『ヴィヨン全詩集』岩波文庫,1965年
Paul Ormerod著・塩沢由典監修・北沢格訳『バタフライ・エコノミクス―複雑系で読み解く社会と経済の動き』早川書房,2001年
覚和歌子「宇宙連詩第3期」JAXA,http://www7.jsforum.or.jp/space2009/main_poem.html,2009年