定理2:カタストロフを生き延びたい!(2)
太陽が完全に沈み、凍てつくような夜の闇が降りてきた。
猛毒をその身に受けてから四日目の夜。
アスナ・クライフォルトの命のタイムリミットは、すでに折り返し地点を過ぎていた。日中の灼熱から一転して氷点下へと落ち込む荒野の寒暖差は、内臓を腐死させる毒と相まって、彼女の肉体を容赦なく破壊し続けていた。
それでも彼女は、冷たい岩肌を背にして座り、細縁の黒眼鏡の奥の瞳で闇を睨み続けていた。
彼女の足元では、過酷な行軍を自らの足で歩き抜いた子供たちが、疲れ果てて眠っている。アスナは彼らの寝顔を見下ろし、浅く濁った呼吸を繰り返しながら、決して眠りに落ちることはなかった。彼女が目を閉じれば、それは子供たちの死を直結するからだ。
真夜中、乾いた風の音が不自然に途切れた。
アスナは即座に立ち上がり、残された五感を極限まで研ぎ澄ませた。
暗闇の奥から、ズルリ、ズルリと砂を擦るような足音が無数に近づいてくる。思想ウイルスに脳髄を完全に破壊され、生きた人間の新鮮な肉だけを求める狂徒たちの群れだった。昼間の熱を避け、夜の闇に紛れて狩りを行う彼らの数は、ざっと二十を下らない。
「……起きなさい」
アスナは低く、しかし鋭い声で子供たちを叩き起こした。
飛び起きた子供たちは、暗闇から迫り来る無数の狂気と殺意の気配に顔を青ざめさせた。
「岩の隙間の、一番奥へ下がりなさい。何があっても、声を上げてはいけません」
アスナはコートを脱ぎ捨て、身一つで闇の群れの前へと進み出た。
魔法も地脈のエネルギーも失われたこの死の世界で、満身創痍の彼女に残されているのは、子供たちの明日を守り抜くという絶対的な執着と、純粋な物理的戦闘力だけだった。
狂徒たちが獣のような咆哮を上げ、錆びた刃物や鉄パイプを振り翳して一斉に襲いかかってきた。
アスナは霞む視界を強靭な精神力で補い、先頭の男の顔面を正確な掌底で粉砕した。そのまま男の身体を盾にして後続の攻撃を防ぎ、感覚の鈍った竜の尻尾を無理やり旋回させて三人の足を同時に薙ぎ払う。
暗闇の中で、骨の砕ける音と血飛沫が舞い散る。
だが、多勢に無勢、そして何よりアスナの肉体はすでに限界を超えていた。
背後から忍び寄った狂徒の一撃が、彼女の肩を深く切り裂く。
「くっ……!」
アスナは短く呻き、そのまま肘打ちで敵の胸骨を陥没させるが、毒の影響で足元が大きくふらついた。そのわずかな隙を突かれ、別の男が振り下ろした鉄の棒が、彼女の背中を強打する。
「ガハッ!」
アスナは口から大量の黒い血を吐き出し、片膝を砂に突いた。
アスナが再び立ち上がろうと歯を食いしばった、その時だった。
「やめろォォォォッ!」
暗闇を切り裂いて、幼い少年の絶叫が響き渡った。
岩陰に隠れていたはずの少年が、両手で抱えるほどの大きな石を握りしめ、アスナに止めを刺そうとしていた狂徒の頭部に向かって全力でそれを投げつけたのだ。
石は狂徒の顔面に命中し、男は悲鳴を上げてよろけた。
「あなたたち……! 出てきてはいけないと……!」
アスナが血まみれの顔を上げた先の光景に、彼女は息を呑んだ。
震える足で立っていたのは、少年だけではなかった。
あの口のきけない少女が、アスナの元へと走ってきたのだ。彼女の目は恐怖に涙ぐんでいたが、その足取りに迷いは一切なかった。
他の子供たちも、拾い集めた木の枝や石を握りしめ、震えながらもアスナと狂徒たちの間に立ち塞がるように陣形を組んだのだ。
彼らはもはや、ただ守られるだけの存在ではなかった。
誰かに依存して生き延びるのではなく、大切なものを自らの手で守り抜くために、彼らは生きるための闘志を剥き出しにして立ち上がったのだ。
(私たちは一緒に戦う。一緒に生きるんだ)
その無言の愛と闘志の伝達が、アスナの凍りつきかけていた竜の血を再び熱く沸騰させた。
「……最高に誇り高い、私の子供たち!」
アスナは、少女の頭をそっと撫でると、静かに、しかし先程よりも遥かに巨大な威圧感を纏って立ち上がった。
彼女の青い瞳に、決して消えることのない絶対的な命の輝きが戻っていた。
「私の背中に隠れていなさい。……終わらせます」
アスナは深く息を吸い込み、限界を超えた生命力を一気に爆発させた。
狂徒たちが再び襲い来るよりも早く、彼女は音を置き去りにする速度で敵陣の中央へと飛び込んだ。
そこから先は、圧倒的な蹂躙だった。
子供たちの愛と闘志を受け取り、自らの命の炎を最大まで燃え上がらせたアスナの拳と尻尾は、狂徒たちの凶器を紙切れのように粉砕し、彼らの肉体を次々と荒野の彼方へと吹き飛ばしていった。
わずか数瞬の後、立っている狂徒はただの一人もいなくなっていた。
静寂が戻った荒野で、アスナは荒い息を吐きながら、血塗られた拳を下ろした。
「……よくやりました。あなたたちの強さが、私を救ってくれました」
アスナのその言葉に、子供たちは誇らしげに、そして嬉しそうに涙を拭った。
そして、猛毒の弾丸をその身に受けてから六日目の朝。
ついに、赤茶けた荒野の果てに、奇跡のような光景が広がった。
切り立った巨大な岩山の裂け目。その奥に、思想ウイルスの狂気が一切届いていない、瑞々しい緑の息吹と澄み切った水の匂いが揺れていたのだ。
過去の因習も、世界の悪意も存在しない「最後の地」が、ついにその姿を現したのである。
「あ……緑だ……!」
少年が歓喜の声を上げる。少女も顔をほころばせ、アスナを見上げた。
だが、アスナの青い瞳は、希望の地ではなく、その入り口を黒く埋め尽くす絶望の壁を冷徹に見据えていた。
「……やはり、容易くは通してくれませんか」
岩山の入り口を塞ぐように群がっていたのは、数百という桁外れの数に膨れ上がった思想ウイルスの感染者たちだった。彼らは、新しい命の輝きと純粋な希望の匂いを嗅ぎつけ、それを食い破ろうと本能のままに集結していたのだ。
武器を持ち、涎を垂らし、狂った瞳でこちらを一斉に振り向く暴徒の群れ。
アスナは、静かに足を止めた。
そして、自らを支えていた子供たちの手を、優しく、けれど断固たる力で振りほどいた。
「アスナ……?」
子供たちが不安げにアスナを見上げる。アスナは膝をつき、子供たちと同じ目線になると、泥と血にまみれた顔で、この旅で最も穏やかな微笑みを浮かべた。
「あの岩山の隙間を抜け、何があっても振り返らず、緑の中へ走りなさい。……あなたたちなら、もう一人で生きられます」
少女は激しく首を振った。アスナの服を力いっぱい掴み、音のない声で泣き叫ぶ。置いていかないで、一緒に来て、と。
だが、アスナは少女の手をゆっくりと外し、その小さな背中を力強く前へと押し出した。
「さあ、行きなさい!」
その声には、母としての慈愛と、戦士としての絶対的な覚悟が込められていた。
子供たちは涙を拭い、アスナの言葉に従って走り出した。彼らは理解していたのだ。ここで立ち止まり共に死ぬことは、アスナが命を削って教えてくれた「自立」への裏切りになるということを。
子供たちの小さな背中が遠ざかるのを見届けたアスナは、ゆっくりと立ち上がった。
そして、迫り来る数百の狂徒の群れと、愛する子供たちの間に、たった一人で立ち塞がった。
「さあ、来なさい。腐りきった過去の亡霊ども」
アスナは分厚い防砂コートを脱ぎ捨て、極太の竜の尻尾を大きく旋回させた。
魔法も、奇跡もない。あるのは、一人の大人の女性が、次世代の未来を守るために己の命を全焼させる、純粋で圧倒的な暴力だけだった。
群れが雪崩を打って襲いかかってくる。
アスナは血を吐きながら、敵陣のど真ん中へと跳躍した。
轟音と共に、彼女の尻尾が十数人の狂徒をまとめて岩壁へと叩きつける。間髪入れずに放たれた拳が、迫る男の頭蓋を粉砕する。
だが、敵の数はあまりにも多すぎた。
錆びた剣がアスナの太腿を貫き、鉄パイプが肩を砕く。腹部の毒の傷口が開き、内臓が焼け焦げるような激痛が彼女の脳を支配する。血の海に足を取られ、何度も膝を折りそうになる。
それでも、アスナは決して倒れなかった。
「私の子供たちに……指一本、触れさせるものかァァァッ!」
アスナの咆哮が、荒野を揺るがした。
それは、肉親を持たずに育った彼女が、自らの意志で選び取った「親」としての、最初で最後の絶叫だった。
限界を超えた肉体が、彼女の強烈な魂の炎によって強制的に駆動する。
斬られ、殴られ、血肉を削られながらも、彼女は一歩たりとも後ろへは退かなかった。
どれだけの時間が過ぎたのか、誰にも分からない。
ただ、岩山の入り口を埋め尽くしていた狂徒の波は、最後の一人がアスナの拳によって沈められた時、完全に静まり返っていた。
死体の山の中に、満身創痍のアスナが立っていた。
竜の尻尾はボロボロに裂け、全身から凄まじい量の血を流している。立っていることすら物理的に不可能な状態でありながら、彼女は岩のように微動だにせず、緑の谷へと続く入り口を死守し抜いたのだ。
霞む視界の先、緑の谷の奥深くへと消えていく子供たちの小さな足跡が見えた。
誰も振り返っていない。教えられた通り、彼らは自らの足で、新しい世界へと確かに踏み出していったのだ。
「……ええ。それでいいのです」
アスナは、満足げに、囁いた。
ついに、彼女の肉体を強制的に駆動させていた魂の炎が、静かに限界を迎えた。
アスナの膝から唐突に力が抜け、彼女は荒野の乾いた土の上へと、糸の切れた操り人形のように静かに崩れ落ちた。
緑の谷の境界線へは、あと数歩。
痛む腕を伸ばせば、その青々とした草に指先が届く距離だった。だが、彼女は決してその境界線を越えようとはしなかった。
血と暴力に塗れ、猛毒に侵された自分の穢れた体は、あの純粋で真新しい緑の中にはふさわしくない。新しい歴史の始まりを、過去の殺戮の血で汚すわけにはいかないのだ。
彼女の歩みは、この荒野を切り開き、防波堤としての役割を全うしたこの地点で、完全に終わりを迎えたのである。




