定理7:最強のラスボスを倒したい!(6)
そして現在。
かつての博愛主義者の成れの果て、シュピーゲル博士が「究極の愛」を掲げてウェザー・リポートを駆り、王都を蹂躙しようとした未曾有の騒乱。
それが竜人アスナ・クライフォルトの鉄槌によって粉砕されたという衝撃は、街中に希望と、それ以上の不気味な予感を振りまいた。
王立ソフィア魔導大学。書類と回路図が雪崩を起こし、フラスコからは得体の知れない虹色の蒸気が立ち上る一室で、一人の男がモニターに食らいついていた。
リオン・ゴルドファング。
エラーラ・ヴェリタスの同期にして、自他共に認める紛れもない「賢者」である。
「やっぱり!ぼくの理論通りだ!いや、でも……これ、まだ事件は終わってないよ!むしろ、ここからが本当の『バグ』の発生源なんだからね!」
リオンはフラスコに入った珈琲を一気に煽った。彼の瞳には、地脈通信網に残留する微かな「悪意の波形」が映っている。
「ぼくは知ってるんだぞ!シュピーゲルが墜ちたってことは、悪の均衡が崩れたってことだ!悪意を制御する『愛の狂気』が消えれば、残ったのは制御不能な『純粋な衝動』だけ。……来るよ!レクタ・ファルサス。あいつは思考を奪われた代わりに、暴力という名の回避不能なバグになったんだ!」
リオンは白衣を翻し、自作の超高速演算デバイスを起動させた。デバイスからは地脈のエネルギーを吸収する高周波の唸りが上がり、王都全域の「悪意の指数」がリアルタイムでマッピングされていく。
「あはは!やっぱりだ!莫大な資金が、特定の『不快指数の高い場所』へ向かって流出してる。これは投資じゃない。これは『破壊のための前払い金』だ!」
リオンの指先が、鍵盤の上で光の束となって踊る。彼の推測通り、王都の経済を牛耳るファルサス公爵家では、一つの「異変」が起きていた。
王都の貴族街。一般市民の立ち入りが禁じられたファルサス公爵邸の広大なダイニングでは、漆黒の喪服に身を包んだレクタ・ファルサスが、不気味な沈黙の中でドーナツを凝視していた。
かつての英知は消え失せ、今やその顔には下卑た笑いと、理由なき苛立ちだけが張り付いている。彼は目の前に並べられた最高級のドーナツを一つ掴み、まじまじと見つめた。
「……あ?おい、これを見ろよォ、父ちゃあんよォ」
レクタのダミ声が、静かな食卓を不快な振動で震わせた。公爵夫妻は、我が子の不機嫌を察知し、顔色を変えて身を乗り出す。
「どうしたの、レクタちゃん!何か気に入らないことがあったのかしら!?」
「見ろよ、母ちゃん!このドーナツの穴をよォ!俺様の小指を入れるには、あと一ミリだけ狭いんだよォ!これ、俺様を馬鹿にしてんだろォ!?俺様を閉じ込めようとしてんのかォ!?」
レクタは突然、立ち上がってテーブルを蹴り飛ばした。高価な磁器が砕け、紅茶が絨毯に染みを作る。
彼の「悪意」は、ただ、目の前の事象が自分の思い通りにならないという、それだけの理由で世界を破壊するエネルギーへと変換される。
「マジでムカつくぜェ!ドーナツの穴が小さいってことは、この世界も全部狭いってことじゃねぇかォ!だったらよォ、俺様が全部広げてやるぜ!建物も、道も、人間の頭もよォ、俺様の小指が入るくらいに、グチャグチャに広げてやるぜェ!」
レクタは、傍らに控えていた執事の顔面に、食べかけのドーナツを叩きつけた。
「おい、魔導端末を持ってこい!王都中の看板に俺様のツラを映せ!宣戦布告だ宣戦布告!理由はよォ、ドーナツが俺様を舐めたからだ!」
数分後、王都中の魔導掲示板がジャックされた。映し出されたのは、下卑た笑みを浮かべるレクタの姿だった。
「おい、王都のノロマども!よく聞け!俺様はよォ、今、猛烈に機嫌が悪いんだ!理由は、ドーナツの穴が俺様の指より一ミリだけ小さかったからだ!」
街の人々は困惑し、そして絶望した。相手は王都の経済を握るファルサス家の後継者。彼が本気で「機嫌が悪い」と言えば、明日のマナの供給が止まり、全ての銀行口座が凍結されることすらあり得るのだ。
「だからよォ、俺様は今からこの王都のすべてに宣戦布告してやるぜェ!今から俺様が歩く道に立ってる奴は、全員ぶち殺して、血筋を丸ごとフォーマットしてやるからなァ!」
レクタは公爵家の親衛隊を引き連れ、高級魔導車に乗り込んだ。
王立ソフィア魔導大学の研究室。リオンはレクタの宣戦布告をモニターで見ながら、爆笑と共に椅子から転げ落ちた。
「あはははは!最高だよレクタ!最低で最高にくだらないね!でも、これが君の本質なんだ。論理も倫理も飛び越えた、純粋な『悪意』のエネルギー。……でもね、その短絡さこそが、ぼくの計算式には一番当てはめやすいんだよ!」
リオンは立ち上がり、白衣を力強く翻した。彼の瞳には、真理を射抜く賢者の鋭さが宿っていた。
「捜査完了。レクタの進行ルート、その終着点は予測できたよ。あいつは一番キラキラしてて、一番『隙間がない』場所を壊しに行くはずだ!」
リオンは研究室から飛び出した。
彼の向かう先は、最初から決まっていた。
レクタ・ファルサスという、思考を失い「悪意」という名の慣性だけで動くバグの衝突地点。
十年前、博愛という名の狂気によって脳を焼かれたレクタにとって、この世界の「美しさ」や「完成された秩序」は、欠落した自らの魂を抉る刃に等しい。レクタが宣戦布告で喚き散らした「ドーナツの穴」という意味不明な言葉。それは、完璧に閉じられた円環の輪のような人生に対する、本能的な嫌悪と恐怖の裏返しであった。
だからこそ、あいつは壊しに行く。
王都で最も隙がなく、最も傲慢な輝きを放ち、一点の曇りもなく「完成」された場所。
侵略の富が結晶となり、ショーウィンドウの向こう側で人々の虚栄心を冷たく見下ろしている――黄金宝飾街へ。
リオンは黄金宝飾街の最深部、最高級宝飾店『エターナル・ブリリアンス』の正面に到着した。
彼は濡れた白衣を翻し、店の正面にある古風なカフェのテラス席へと、滑り込むように腰を下ろした。
「マスター! ぼくが世界を救うための点火剤、即ち、王都で最も苦くて、最高に熱い珈琲を、一杯!」
店主を急かし、リオンはテーブルの上にデバイスの仮想コンソールを展開した。
リオンが施した策は、冷徹なまでの「システムの簒奪」であった。
まず彼は、接近する私兵たちが装備する魔導装甲の全認可プロトコルをバックドアから掌握した。彼らが一斉に引き金を引いた瞬間、魔導回路がエラーを引き起こし、銃身は無害な鉄屑と化すよう、そのソースコードを書き換えた。
さらに、カフェの周囲十メートルには、レクタが撒き散らす「不快な悪意」の波形をリアルタイムで解析し、それを完全に相殺する魔導壁を展開した。
リオンはフラスコ型のカップを置き、静かに背筋を伸ばした。
リオンはもう、キーボードを叩かない。彼に必要な準備は全て完了していた。
破壊の嵐が訪れる前の、不気味な静寂。
「マスター。いいから今のうちに奥へ隠れてなって。ここからは、このぼくですら、被害をゼロにするのは難しいからね!」
遠くで、最初の爆発音が響いた。
それは、レクタがその場の気分だけで放った、理由なき破壊の合図だった。
美しく磨き上げられた石畳が跳ね上がり、街灯が折れ、宝飾街の静寂は無残な悲鳴と金属音によって粉々に砕け散っていく。
私兵たちが逃げ惑う人々を家畜のように追い立て、ショーウィンドウの奥で震える職人たちの指が、その精巧な技術ごと粉砕されていく。
そして、その時は来た。
レクタの放った最後の一撃が、黄金宝飾街の象徴である大時計の針を止め、辺りに死のような静寂が落ちた。破壊し尽くされた路上。砕けたガラス片が、返り血を浴びて鈍く光っている。
雨は次第に激しさを増し、王都の闇を深く、冷たく染め上げていく。
その中心に、一人の男が座っている。
漆黒の喪服に身を包んだ男、レクタ・ファルサス。
その姿は、まさに「賢者」。あるいは「祭司」。
周囲を取り囲む野次馬たちは、その圧倒的な静謐さと威圧感に息を呑んだ。
静寂が場を支配した、その時。
レクタが口を開いた。
「あ〜〜〜〜〜〜〜、たりいなッ!マジで腹減ったなぁオイ!!」
静寂は、品のないダミ声によって粉々に粉砕された。
レクタは足元に転がっていた店主の頭を、革靴で何度も踏みつけた。
店主は屈強な豹の獣人だった。本来なら、レクタなど爪の一撃で肉塊に変えられる。だが、店主は震えながら丸まり、無抵抗のまま蹴られ続けている。
レクタは店主の顔面に唾を吐きかけると、ふと、通りの向こうにある「カフェ」に目を止めた。
レンガ造りの古風なカフェのテラス席。雨避けの魔法結界が張られたその席に、一人の人物が座っているのが見えた。
「あ?なんじゃあいつ……ムカつくな」
レクタの単純な脳細胞が、即座に「不快」の信号を発した。
自分が雨の中で遊んでいるのに、優雅にコーヒーを飲んでいる奴がいる。ただ、それだけの理由だった。
「おい、そこ退けよ! 俺が座るんだよ!」
レクタは公爵家の親衛隊を引き連れ、大股で道路を横断した。
テラス席に座っていたのは、奇妙な白衣を着た男性だった。
色白の肌に、短い金髪。片手にはフラスコのような形状をした奇抜なコーヒーカップを持ち、もう片方の手で何やら空中に数式のようなものを描いている。
「おいコラ!テメテメテメコラ!コ!ラ!耳付いてんのかテメェ!?」
白衣の男性は、まるで珍しい昆虫を見るような視線でレクタを凝視した。そして、芝居がかった動作で両手を広げ、天を仰いだ。
「……君が噂の、レクタ・ファルサス君だね!ぼくの名前はリオン・ゴルドファング!いま、個人的に『君の観察』をしているだけだよ!」
リオン・ゴルドファング。
その名を聞いた瞬間、周囲の野次馬や、遠巻きに見ていたカレル警部たちに電流が走った。
エラーラ・ヴェリタスに並ぶ学者にして、史上最年少で「賢者」の称号を得た天才。
その「最強」が、そこにいた。
「あぁ〜〜〜!誰だテメエは!全部、全部、グチャグチャにぶっ壊れちまえェ!」
レクタの放った殺意の弾丸が、テラス席に到達するまで残り零点二秒。
ぼくは目の前にあった分厚いマホガニー材の重厚なカフェテーブルの下に滑り込み、爪先でそれを天高く跳ね上げた。同時に、デバイスの出力をテーブルの底面に直接叩き込む。
その場にあるものを百パーセント活用する。それが、最高学府たる王立ソフィア魔導大学で『最速の賢者』と呼ばれるぼくの、最適化されたデバッグ作業だ。
ドゴォォォン!!
蒼い魔力でコーティングされたテーブルは即席の魔導防盾となり、レクタの理不尽な衝撃波を真正面から受け止めた。
「なっ!?俺様の攻撃がァ!?」
「よそ見してる暇なんてないよ!」
ぼくは宙に浮いたテーブルの最大の破片を足場にして、重力という物理定数を無視した跳躍をキメた。雨に煙る王都の空を、地平線をなぞる一筋の稲妻となって滑り出す。
「消えろォォ!ハエがァ!」
レクタが頭上を見上げ、両手から乱デタラメな弾丸を乱射してくる。
だが、その軌道は既に予測済みだ。右へ、左へ、下へ。空中で姿勢を捻り、白衣の裾を焦がしながら、弾幕の隙間を最速で縫って進む。
「あはは!止まってる、全部止まって見えるよ!」
空中で身を翻し、驚愕に目を見開くレクタの頭上を飛び越える。獅子のしなやかさをもって、音さえも置き去りにした完璧な着地を、奴の真後ろで果たした。
「これでチェックメイト!確保だっ!」
ぼくは振り返ろうとしたレクタの腕を、関節の可動域のギリギリの限界まで捻り上げ、そのまま冷たい石畳にマウントポジションで押さえ込んだ。
「痛ぇえええ!離せェェ!俺様を誰だと思ってんだォォ!」
泥水の中で藻掻き、喚き散らすレクタ。
どれほど莫大な資産を持っていようと、どれほど純粋な悪意を煮詰めていようと、システムに物理的なロックをかけてしまえばただの無力なノイズだ。知性を失った悪意の暴走は、ぼくの圧倒的な速度と機転の前に、完全に沈黙したのである。
「はい、おしまい!君の癇癪も、ぼくの前じゃすっかりガス欠だもんねー!これにて、バグ修正完了だよ!」
ぼくは暴れるレクタの背中に膝を押し当てたまま、満面の笑みで宣言した。
遠くから、王都警察のけたたましいサイレンの音が近づいてくるのが聞こえる。
空を見上げると、あれほど重苦しかった雨雲が割れ、雲の隙間から一条の光が黄金宝飾街の惨状を照らし出していた。
シュピーゲルの狂信的な空中要塞は落ち、そして今、レクタという最後の厄災もぼくの手で完全に封じ込めた。王都を十年間も内側から腐敗させていた巨大な『最後のヴィラン』は、これで完全に盤上から取り除かれたのだ。
「ふふっ。ぼくの勝ちだね!……そうだろう、エラーラ・ヴェリタス!」
ぼくは冷たい雨上がりの空気を深く吸い込み、心地よい疲労感と共に呟いた。
これで、この街の平和を脅かす存在はもうどこにもいない。
すべてが、終わった。
完全な、ハッピーエンド。
そう、『確信できてしまう』ほどに、この瞬間の街の空気は静かで、澄み切っていた。




