定理3:最強のラスボスを倒したい!(3)
●シュピーゲルについて
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一条の白銀の流星が成層圏を目指して垂直に駆け上がっていく。
スラスターから噴き出す青白いプラズマの炎。
鼓膜を根底から粉砕するほどの凄まじい爆音。
暴力的な重力加速度。
常人であれば意識を刈り取られ、ただの肉塊へと変貌しているであろう、極限の物理的負荷。
だが、今のアスナの胸の奥底で渦巻く、煮えたぎるマグマのような、魂を焦がす正義の業火に比べれば、その程度の重力など、まるで、そよ風に等しかった。
アスナの黄金の瞳は、ただ一直線に、遥か上空に居座る巨大な鏡面の立方体ウェザー・リポートだけを睨み据えている。
なぜ彼女は、自らの命を臨界点の触媒にしてまで、あの中に潜む男、シュピーゲル博士を絶対に許さないのか。
ヴェリタス探偵事務所の面々は、これまで、王都の暗部に潜む様々な悪と真っ向から対峙し、そのすべてを自らの手で粉砕してきた。
自らの歪んだ欲望を満たすためだけに他者への凄惨な拷問を極上の娯楽とする狂信者。
血の匂いに酔いしれ、無差別に罪なき人々の肉体を切り刻む殺人鬼。
他者の尊厳を薬物と暴力で街の住人たちを踏みにじる卑劣な魂の強姦魔。
同族の生肉を貪り喰らい、その骨で塔を築き上げる悪魔の食人鬼。
彼らは皆、果てしなく邪悪であり、一片の同情の余地も、理解の余地もない正真正銘の極悪人であった。
だが、それらの悍ましい怪物の群れすらも、これからアスナがその手で屠ろうとしている男、シュピーゲルが内包する底無しの「闇」に比べれば、実は、ひどく矮小で、ある意味では理解可能な「普通の悪党」に過ぎないのだ。
シュピーゲルは拡声魔法を通じて、地上で怯える市民たちに向けてこう嘯く。
「いかなる時も対象を見守ること、それこそが至高の愛である」と。
「いかなる絶望的な逆境にも決して諦めずに立ち向かう姿こそが、人間の持つ最も美しく尊い人間性である」と。
その言葉の「表面だけ」を切り取って聞けば、彼は高潔な人格者であり、真っ当な「教育者」であるかのように誰もが錯覚するだろう。
現に、地上の多くの善良な市民たちは、彼の甘言に酔いしれ、彼の思想を正しいものだと信じ込もうとしている。
……しかし。
それは致命的で、取り返しのつかない最悪の誤謬だ。
ところで。
シュピーゲルという男は、あらかじめ用意された知識や単語を丸暗記し、テストの点数を取るような、レールに沿った動きしかしない「点取り虫」としては、確かに、歴史上類を見ないほどの「天才」であった。
王立ソフィア魔導大学の書庫にある全ての蔵書を暗唱できるほどの異常な記憶力と情報処理能力を持ち合わせている。
だが。
複数の事象を組み合わせて文脈を読み解き、他者の複雑な感情を推し量り、刻一刻と変化する状況に合った最適な解答を自らの頭で考え出すという、人間として最も根源的な「思考能力」が完全に、そして壊滅的に欠如している。知恵という、クリエイティブな想像力や創造力の「質」を欠いた、救いようのない……「馬鹿」であったのだ。
莫大な知識量という無敵の装甲で全身を武装しているため、言葉を交わした凡夫は彼を「知識人」だと思い込んでしまう。確かに知識の「量」はあるから知識人かもしれないが。
だが、その実態は。
物知り博士でありながら、「頭が悪すぎる」がゆえに、致命的な状況判断が全くできず、凄惨な悲劇を次々に起こし、しかも、全て自分に都合の良いように脳内で変換し、正当化してしまうという、究極の自己愛の化け物であった。
彼は、間違いなく、鬼畜だ。
しかし、最も恐ろしく、最もおぞましいのは、彼自身の魂の中に「自分は鬼畜である」「自分は悪を為している」という自覚が、自分への疑いが、細胞の一つに至るまで……一切、存在しないことなのだ。
例え話をしよう。
テストで赤点を取ったら、解答という「自分の過去を直視して」、復習をするだろう。
あるいは、赤点という「自分の過去を直視して」、赤点の原因を教師や教科書のせいにして、逃げるだろう。
実は、それらは、どちらも同じなのだ。
失敗という痛みから学んで選んだ行動だ。
シュピーゲルが恐ろしいのは、いかなる場合も満点しか「取れない」から、世界で自分だけが一番正しいと確信している点にある。
世の中の悪人は、「悪の自覚がある」から隠れて犯行に及ぶ。
シュピーゲルは「善の自覚がある」から、人前で「当然のように」犯行に及ぶ。
アスナの脳裏に、あの男の悍ましい過去の所業の数々が、吐き気を催すほどの鮮明さで蘇ってくる。
ある日のことだ。
シュピーゲルは、懐に一生かかっても使い切れないほどの札束を抱えながら、街の小さな八百屋を訪れ、店先のザルに乗っていた一本のニンジンを、一切の悪びれる様子もなく無造作に懐に入れて、窃盗した。
その不自然極まりない行動を店主に見咎められ、腕を強く掴まれた時、彼は顔色一つ変えることなく、自らの持つ「知識」と歪んだ論理を総動員してこう言い放ったのだ。
「私の財布には、この八百屋を、土地の権利ごと即座に買い取れるだけの莫大な現金が入っている。そんな圧倒的な購買力と社会的地位を持つ私が、たかがニンジン一本を意図的に盗む合理的な理由など存在しないことは明白である。これは、私の手が偶然ニンジンと接触し、たまたま懐に入り込んだという、何らかの手違いに過ぎない」
その、圧倒的な自信と、知識と、地位と、名誉に裏打ちされた完璧な詭弁に完全に気圧され、人の良い店主は納得するどころか、こんな高貴で教養のある人物を泥棒扱いして疑ってしまった己の無知と非礼を恥じ、お詫びとしてそのニンジンを、シュピーゲルに無料で差し出したのだ。
そして、シュピーゲルは帰宅するなり、そのニンジンをゴミ箱へと投げ捨てた。
これは、仕事ではない。
これは、趣味ではない。
ただ、生理的に、自然に、きちんと、毎日、他者に対して無駄な破滅を与えつづける。
ただ、それだけの男。
彼は、自らの手で殺さない。
あらゆる邪悪な行為、常軌を逸した異常行動を、その卓越した詭弁と知識の奔流によって、あらゆる暴力の火種を、破滅のきっかけを、相手に完全に「納得」させてしまうのだ。
悪人は、欲望のために、人を襲う。
罪の意識があるから弱いものをいたぶる。
魔獣は、生存のために、人を襲う。
罪の意識はないが、無駄な殺しは行わない。
だからこそ。
欲望を持たず使命感を持って、完全に無駄に、何の意味もなく他者に破滅を与え続ける彼は、最大の極悪人なのだ。
彼の歪みきった愛の形は、常に無関係な他者の人生を根底から破壊する。
「見守ることこそが真実の愛だ」と公言して憚らない彼は、ある日、街で見かけた、ただひたすらに平凡で無垢な少年に対し、異常な性的な執着を抱いた。
彼は、昼夜を問わず執拗極まりないストーカー行為に及んだ。
少年の私生活、見えない視線に怯えて泣き叫ぶ顔、恐怖に駆られて逃げ惑う姿、その全てを、ビデオカメラに収め、それを「愛と成長の記録」などと称して、嬉々として自らの信奉者たちと共に巨大なスクリーンで鑑賞したのだ。
少年の精神が完全に崩壊し、暗い部屋から一歩も出られなくなっても、彼は「これが愛の到達点だ」と本気で感動の涙を流していた。
さらに、「絶望的な逆境に立ち向かうことこそが最も美しい人間性だ」と熱弁する彼は、経済の仕組みを一切理解していない無知で貧しい市民たちに対し、親身で慈愛に満ちた助言者の顔をして近づいた。
そして、彼らに極めてハイリスクな株式投機や先物投機の甘い罠を教え込み、彼らが全財産を失い、家族に見放され、莫大な借金まみれになって首を括る寸前まで破滅していく様を、特等席のバルコニーから極上のワインを傾けながら観察した。
あるいは、未来ある輝かしい才能を持った若きアスリートの人生に巧妙な嘘で介入し、彼らを、魔導車の衝突事故へ至るように誘導して、意図的に四肢を切断させた。
そして、選手生命を絶たれるどころか日常生活すらままならなくなった絶望の淵から、それでも明日を生きようと必死に足掻き、這いつくばる彼らの姿を、最も安全な場所から見下ろし、シュピーゲルは本気で心からの涙を流し、「これが、人間の力強さと美しさだ!これこそが芸術だ!」と惜しみない賞賛の拍手を送ったのだ。
彼は、『他者の不幸を喜んでいるのではない』。
これが、最も恐ろしい点である。
他者が地獄の苦しみを味わうプロセスそのものを、自らの、うすっぺらい、くだらない、きもちのわるい「哲学とやら」を証明するための「感動的な舞台装置」として完全に消費しているのだ。
しかも、その『哲学』にすら、興味はほとんどない。
何度も言う。
シュピーゲルは、頭が悪いのだ。
その頭の悪さは、知能の低さから来ているのではない。
他者の痛みを理解する回路が完全に欠落しているという、致命的で絶望的な「性格の悪さ」、「精神の醜さ」から来ているのだ。
アスナはブースターの出力をさらに一段階引き上げ、眼球に涙を滲ませながら咆哮する。
「シュピーゲル!空虚なお前を、私が物理的に叩き潰してやります!」
平行世界において、幼いアスナは他でもないシュピーゲルの血を分けた実の娘であった。
あの男は「人間の可能性と、逆境の美学を体現する」という大義名分を掲げ、幼く抵抗すらできない実の娘に対し、想像を絶する肉体的かつ精神的な凄惨な拷問を、来る日も来る日も繰り返した。
尊厳を徹底的に蹂躙する拷問の最中、シュピーゲルの手には常に最新型の魔導ビデオカメラが握られていた。
激しい苦痛に顔を歪め、血と涙を流しながら許しを乞い、絶叫し続ける実の娘の姿を、レンズ越しに冷徹に記録し続けたのだ。
シュピーゲルはそれを「苦痛に耐え抜こうとする生命の輝き」などと、一片の疑いもなく本気で信じ切っていた。
魂を削り取られ、痛覚の限界を超え、感情の回路すらも完全に焼き切れ、絶望という名の終わらない暗闇に完全に飲み込まれた幼いアスナは、最終的に……自ら、冷たい石造りの窓枠に立ち、吹き荒れる風の中にその小さな身を投げ出し、短い命をコンクリートの地面へと散らした。
彼は、集まってきた群衆に、こう語った。
「彼女が自ら望んで、死という破滅を受け入れたのだ」
果たしてアスナは、自らの意志で、喜んで死を望んだのか。
断じて、違う。
あの狂った父親の果てしない悪意なき愛から逃れるための、唯一残された物理的な脱出経路が、自らの命を絶つことしかなかったのだ。
そして、その悲劇の平行世界において、たまたまシュピーゲルという底無しの怪物と出会ってしまったヴェリタス探偵事務所の仲間たちも、悲惨で残酷な運命を強制的に辿らされていた。
最高の知性と論理の頂点に君臨していたはずのエラーラ・ヴェリタスでさえ、シュピーゲルの詭弁によって、その強固な思考の防壁を完全に切り崩された。
シュピーゲルは、熱弁した。
「知識と真理を統合するためには、脳髄というハードウェアを、最高の愛を持つ私と融合することが最も合理的である」
……エラーラは異常な洗脳の果てに完全に信じ込まされ、手懐けられてしまったのだ。
エラーラは、最終的に自らの意志でその頭部を無防備に差し出し、自らの脳を啜り食われた。
「彼女が自ら望んで、私と知識を完全に共有したのだ」
誇り高き武の人であり、誰よりも気高く美しく、常に弱きを助けていたナラティブ・ヴェリタスも、例外ではなかった。
ナラティブは、彼女の強靭な精神の根幹を、執拗な言葉の暴力で徹底的に破壊され、戦う意志を完全に剥奪して手懐けられ、自ら進んでその美しい身体を悪魔に差し出すよう彼女を誘導された。
そして、愛という名目を被った極めて激しく無残な拷問の果てに、ナラティブの肉体は完全に蹂躙され、永遠に自らの子供を産むことのできない冷たい体へと作り変えられてしまったのだ。
「彼女が自ら望んで、私の愛を全身で受け入れたのだ」
そして極めつけは、全ての人々を等しく愛する完璧な善性の体現者であったアリシア・ヴェリタスの存在の悪用である。
彼女が紡ぐ純粋で美しい「博愛」という言葉を、シュピーゲルは、自らの持つ悪意のフィルターを通して最悪の形で解釈し直し、その狂った思想を世界中の大衆に向けて大々的に吹聴した。
彼は、疫病に感染し全身の毛細血管から夥しい血を吐いて苦しみ悶える感染者や、口からおびただしい泡を吹きながら本能のままに暴れ狂う犬たちを指差し、拡声魔法で人々にこう呼びかけたのだ。
「彼らを遠ざけることは差別であり、愛の放棄である。真の愛とは、感染の恐怖を乗り越え、彼らを深く抱きしめるべきだ」
莫大な知識という名の絶対的な武装を持ち、権威として君臨していた彼の澱みない詭弁は、恐ろしいほどの伝染力と説得力を持っていた。
人々は、シュピーゲルの語る「愛」という甘く破滅的な言葉に完全に酔わされ、理性と防疫の概念を捨て去り、自ら致死の病と獣の牙を笑顔で迎え入れた。
結果として、あの平行世界は、シュピーゲルという「悪意の善意」により、瞬く間に制御不能なパンデミックに陥り、病魔と狂気によって一人残らず、一人残らず死に絶えて……完全に滅亡したのだ。
この世界の人々は、平行世界で自分たちが辿ったその凄惨極まりない究極の地獄の出来事など、一切知る由もない。
探偵事務所のメンバーも例外ではなく、彼らの記憶は完全にリセットされており、今はただ、騒がしく平和な日々を送っている。
だが、アスナだけは、違う。
一度完全に死を迎え、エラーラの手によって竜人としてこの世界に奇跡的に蘇った彼女の魂の最も深い奥底には、あの男がもたらした世界の滅亡と、仲間たちの死に様が、決して消えることのない激しい痛みと血の刻印のように鮮明に刻み込まれているのだ。
いま、アスナは、高度一万メートルの成層圏へと猛烈な勢いで昇っていく。
彼女の胸で燃え盛っているのは、単なる過去への復讐心や個人的な恨みではない。
正義を執行して王都を救うという、高慢で借り物の使命感でもない。
世界の悪を滅ぼすという、陳腐で空虚なヒロイズムでも決してない。
単純なのだ。
ただ、極めて単純に、アスナの魂そのものが、彼女の全存在の細胞一つ一つに向けて絶対の命令を下しているのだ。
私の世界を、私「が」絶対に守らなければならない、と。
温かく、愛おしいヴェリタス探偵事務所の仲間たちを。
無遠慮に私のドーナツを頬張る天才エラーラを。
嬉々として鉄扇を振るうナラティブを。
冷徹に計算機を弾くアリシアを。
無邪気な狂気で端末を叩くグリッチを。
そして彼らが生きる王都の明日を。
……明日を!
ブースターの出力が限界を突破し、背後のスラスターから噴出されるプラズマが、圧倒的な輝きを放つ。
過去の呪縛を完全に断ち切り、愛するこの世界を守り抜くために。
白銀の流星は、真っ直ぐに、決して揺らぐことのない怒りと決意の牙を剥き出しにして、音速を超えて大空へと突撃していった。




