定理2:最強のラスボスを倒したい!(2)
王都の空が、物理的な意味で不気味な鏡張りの天井へと変貌を遂げていた。
濁った大気と、無数の排煙を不気味に反射し、周囲の光を歪める巨大な立方体。
旧時代気象管理魔導演算機ウェザー・リポート。
それが突如として上空一万メートルの極寒の成層圏に居座り、王都中の魔導通信網と地脈のトラフィックを根こそぎ吸い上げている。
ヴェリタス探偵事務所の窓際で、私は冷めた珈琲を喉に流し込み、分厚い白衣のポケットから取り出したハニーグレイズドーナツを無造作にかじった。
「フム。地脈の魔力トラフィックが完全にブロックされているねぇ。これでは私の愛する名作映画のストリーミング再生が永遠にバッファリング状態だ。実に由々しき事態だよ」
「おかあさま、映画などどうでもよろしいですわ。あの巨大な四角いゴミのおかげで、我が家の魔導冷蔵庫まで完全に沈黙しておりますのよ。中に入っている特売の豚肉が腐ったら、明日の夕食は再び雑草のフリットになりますわ」
アリシアが、一切の感情を排した冷徹な声で宣告する。その隣では、黒のドレススーツに身を包んだナラティブが、苛立たしげに愛用の鉄扇でテーブルを規則正しく、かつ脅迫的なリズムで叩いていた。
「ねえお母様、あたしがあの空の四角い箱をこの鉄扇で叩き割ってきていいかしら。通信が繋がらないせいで、ルルとのゲームが強制ログアウト扱いにされたのよ。あたしの勝率が下がるなんて、世界が終わるよりも許しがたい大罪だわ」
「物理演算の限界を超えないでくれたまえ、ナラ君。あの高度に生身のジャンプ力だけで届くわけが……」
バンッ、と事務所のドアが蝶番ごと無残に吹き飛んだ。
我が家の優秀なネコたちを蹴散らして転がり込んできたのは、魔導規制局のキャリア官僚、アスナ・クライフォルトだ。立派な極太の尻尾が、床板を叩き割らんばかりにバタンバタンと波打っていた。
「エラーラ・ヴェリタス!呑気にドーナツを食べている場合ですか!」
「やあ、アスナ君。君も食べるかい?新作のハニーグレイズだよ」
「あ。……ありがとう、エラーラ……大好き……いただきます!……って、そうではありません!」
アスナは反射的にドーナツを受け取り、一口かじってから鋭く吠えた。彼女の背後、開け放たれたドアの外から、王都の空に響き渡る拡声魔法の不快なノイズが流れ込んでくる。
『聞け、愚かなる王都の民よ!愛を定量化できぬ脆弱なシステムなど、私の手で初期化してやる!対象を見守ることこそが愛であり、逆境に抗う姿こそが至高の人間性なのだ!』
それは、かつて私を学会から「非人道的である」と罵倒して……いや、正確には……学会への賠償金を滞納しているという私の不都合な真実を明るみにして、私を正式に学会から追放しようとした偏屈な、いや……「正しい」哲学者、ファントム・シュピーゲル博士の声だった。
だが、アスナの様子が明らかにおかしい。彼女は食べかけのドーナツを握りしめたまま、全身を小刻みに、しかし激しく震わせている。
「……アスナさん?尻尾の鱗が極限まで逆立っているわよ。落ち着くまで、あたしが撫でてあげようかしら」
ナラティブが心配そうに、しかし、極太の尻尾に対する少しばかりの下心を隠しきれない様子で近づくが、アスナはそれを手で強く制した。
「……今、拡声魔法で喋っている地上のシュピーゲルは、おそらく、ただの囮です。あの高度一万メートルにある演算機ウェザー・リポートの中心核……あの中にいるのが、本物のシュピーゲルのはずです!」
アスナの声には、普段の官僚としての几帳面さや冷静さが完全に欠落していた。そこにあるのは、魂の最も深い深淵から絞り出されるような、純粋な怒りだ。
「お姉ちゃん、アスナお姉ちゃんの言う通りだよ!」
天井の換気ダクトから白いパーカー姿のグリッチが顔を出し、無数のケーブルを繋いだ自作の解析端末を掲げる。
「演算機の中枢から流れてくる論理波形、完全に異世界のフォーマットだね。しかもこれ、攻撃の照準がずっとアスナお姉ちゃんに固定されてる。アスナお姉ちゃんを削除するつもりみたい」
グリッチの赤い瞳が狂気に濁り、端末を叩く指が目にも留まらぬ速度で加速するが、アスナの切実な言葉がそれを遮った。
「……やはり、そうなのですね」
アスナはギリッと、犬歯を鳴らすほど強く歯を食い縛った。
「ところで、エラーラ。元の世界で、あの男に破壊された私をこの世界に再構成したのは、他でもない貴女です」
事務所の空気が一瞬にして静まり返る。
アリシアの計算機を叩く手が完全に停止し、ナラティブの鉄扇を下ろす音が妙に大きく室内に響いた。
私は白衣の裾を翻し、残っていたドーナツを口に放り込んだ。
「フム。私はただ、道端に落ちていたひどく損傷したバグの破片を、私の理論で再起動させ、飛竜として覚醒させただけだよ」
「ええ、貴女はそういう人間です。人間の情などという不確かなものを信じず、ただ、己の論理だけを信奉する。……と、見せかけて私を、人間を、世界を愛している。……だからこそ、私は貴女に救われたのです」
アスナは私を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、もはや過去への怯えは微塵もない。
「あの男は、私を二度殺すために来ました。私という『家畜』を、再び自分の支配下に置くために。私は絶対に許さない!私は二度目の命を捨ててでも、あの男を叩き潰します!……私の、手で!」
「ダメですわ、アスナさん!」
アリシアが計算機を猛烈な勢いで弾き直し、悲鳴のような声を上げた。
「現在の魔導法では、民間人の高度百メートル以上の自由飛行は……貴女が飛べば、我が家の借金百五十億がさらに天文学的な数字に跳ね上がり、私たちは来月には路地裏で泥水を啜って生きる羽目になりますわ!」
「私は魔導規制局の公務員です!緊急事態における特例措置で……」
「現在、通信網ダウンにより特例申請も不可能だ。……論理的に許可できないねぇ。詰みだ。だからこそ。……ナラ君、グリッチ、アレを出してくれたまえ」
けたたましい駆動音と共に現れたのは、数日前に私がアスナの「服に無頓着すぎる」というクレームを受けて、純粋な服飾への探求心から生み出した、あの鈍色に輝く巨大な鋼鉄の塊だった。
両翼には暴力的なサイズのスラスターが備わり、中央には人を一人、無理やり固定するための無骨なハーネスが付いている。表面には無数の魔力ケーブルが血管のように這い回り、むき出しの高出力魔力コンデンサが不気味な紫色の光を明滅させていた。
「何ですか。……まさか、先日のアレですか」
「名付けて『対王都魔導規制局用絶対公務執行ブースター・改』だ。これを背負って飛べば、君は『航空機』として法的に扱われる。航空法第十二条の抜け道を利用した、至高のオートクチュールさ」
「安全性は!?」
「生存確率五パーセント。残りは……気合と根性でカバーしたまえ」
普段の彼女なら絶対に拒絶するであろう、狂気の産物。室内の壁を吹き飛ばした前科のある危険極まりない代物。しかし、今日のアスナは違った。
「……装備は、これだけですか」
彼女は迷うことなく、その巨大な機械の塊へと歩み寄った。
「安心したまえ。燃料には純度百パーセントの魔力結晶を限界まで積んである。点火した瞬間から、君の全身の骨が軋むほどの過重力がかかる特別仕様だ」
私は歩み寄り、アスナの華奢な肩に手を置いた。
「私はね、君が前の世界でどのような絶望を味わい、誰に殺されたかには興味がない。だが、君は私の探偵事務所を監視し、私の借金を取り立てるという極めて重要なタスクを担っている最も優秀なデバッガーであり…………ええい!違う違う!……私の大切な妻の未来を、あんな、三流の哲学者に書き換えさせられるわけにはいかないんだよっ!」
アスナは小さく息を呑み、そして、フッと不敵な笑みを浮かべた。
「過去の亡霊などに、私の人生の管轄権を渡すものですか!」
彼女は黒のスーツジャケットを脱ぎ捨て、動きやすいインナー姿になると、自ら巨大なブースターの中核に収まった。
冷たい金属の拘束具が彼女の四肢を固定していく。
背中には極太の二門のスラスター。
両肩には姿勢制御用のバーニア。
翼のように展開したスタビライザー。
頭部には、鋭角的はバイザーが降りた。
その姿は、もはや人間でも竜でもなく、高度一万メートルの空を単機で支配するために作られた、最新鋭の戦闘機そのものだった。
「生体リンク、正常に同期中。魔力回路は完全にオープン!いつでもイケるよ!」
グリッチがキーボードを狂ったような速度で叩きながら叫ぶ。
「アスナさん、もし倒れたら、貴女のその立派な尻尾はあたしが責任を持って剥製にして、毎晩添い寝してあげるから、安心して暴れてきなさい!」
ナラティブが鉄扇を高く掲げて、彼女なりの最大のエールを送る。
「夕食までには必ず帰ってくるのですよ。今日は特売の豚肉を、絶対に使わなければなりませんからね」
アリシアがティーカップを片手に、冷徹な計算と熱い励ましを送る。
私は白衣のポケットから『真理の眼』を取り出し、首にかけた。そして、発射台と化した事務所のバルコニーに立つアスナの横に並ぶ。
「準備はいいかい、私の最高のデバッガー」
「ええ。……エラーラ。ですが、一つだけ言っておきます」
バイザーの奥で、アスナの黄金の瞳が鋭く光った。
「私が無事に戻ってきたら、この違法改造ブースターの製造責任と、無許可の魔力結晶使用について、たっぷりと絞り上げますからね。覚悟しておきなさい」
「フム。楽しみに待っているよ」
ゴゴゴゴゴ……!
魔力結晶が臨界に達し、ブースターから青白いプラズマの炎が噴き出す。
事務所の窓ガラスが振動でひび割れ、熱風が室内の書類を嵐のように巻き上げた。
アスナは姿勢を低くし、空の彼方にある巨大な立方体を睨み据える。過去の呪縛を断ち切り、現在の温かい日常を守るための戦い。
「飛べ、アスナ・クライフォルト!」
私の叫びと共に、固定フックがパージされる。
直後、爆発的な推力がアスナの体を宙へと打ち出した。
彼女は流星、あるいは白銀の戦闘機となって、上空一万メートルに鎮座する鏡面の立方体へと向かって一直線に駆け上がっていく。
空気を切り裂く轟音が、地上のすべてのノイズをかき消した。




