定理3:お姉ちゃんに会いたい!(後編)
ヴェリタス探偵事務所の照明が復旧し、エアコンが涼やかな風を吐き出した、その直後のことだ。
私がコーヒーメーカーのスイッチを入れた瞬間、空間が悲鳴を上げた。
「……おや? 電圧が不安定だね。アリシア君、ブレーカーを……」
言いかけた私の言葉は、轟音にかき消された。
リビングの中央、お気に入りのペルシャ絨毯の上に、どす黒い「穴」が開く。
そこから溢れ出してきたのは、ただの泥ではない。光を吸い込み、視界に入るだけで脳が拒絶反応を起こすような、絶対的な「虚無」の泥。
『……警告。致命的エラー検出。座標、ヴェリタス探偵事務所』
無機質な機械音声が、脳内に直接響く。
ナラティブが弾かれたように起き上がり、鉄扇を構えた。
「な、何ですのこれ!? 気持ち悪いですわ!」
「下がるんだナラ! それは魔獣じゃない! 『世界修復プログラム』だ!」
私は戦慄した。
それは、世界のバグを自動的に検知し、削除するために現れる、この宇宙の自浄作用そのものだ。
物理攻撃も魔法も通用しない。触れれば、存在ごと「なかったこと」にされる。
先ほど、グリッチが停電を復旧させるために行った「世界への直接干渉」が、あまりにも大規模すぎたため、システムの監視網に引っかかったのだ。
『対象、個体名グリッチ・オーディナル。存在強度が規定値を逸脱。削除シマス』
黒い泥が鎌首をもたげ、グリッチを凝視した。
その泥は、絶望の具現化だ。
「いけません! グリッチさん、逃げて!」
アリシアが叫ぶ。だが、グリッチは動かない。
白い髪を揺らし、赤い瞳でその泥を見つめ、ゆらりと口角を上げた。
彼女の顔にあるのは恐怖ではない。
「あ、ご飯が来た」とでも言うような、無邪気で残酷な歓喜だ。
「……久しぶりだね。また私を殺しに来たの?」
『削除開始』
泥が弾けた。
無数の黒い触手が、槍のようにグリッチへと殺到する。
ナラティブが動いた。彼女は反射的に、グリッチを庇おうと前に出る。
「させませんわッ!」
ナラティブの鉄扇が、触手を薙ぎ払う――はずだった。
だが、鉄扇は泥をすり抜け、空を切った。
物理干渉無効。
ナラティブの武すらも、この世界の理の前では無力な「部外者」でしかない。
「うそ……!? 当たらない!?」
ナラティブが体勢を崩す。
その隙を突き、触手がグリッチの心臓めがけて突き刺さる。
ドスッ!
鈍い音が響き、触手がグリッチの小柄な体を貫通した。
ナラティブが悲鳴を上げる。私も息を呑んだ。
終わった。存在消去だ。あの子が、また――。
「……ねえ」
静かな、しかしひどく底冷えする声が響いた。
貫かれたはずのグリッチが、胸に突き刺さった触手を、素手で掴んでいた。
血は出ていない。
代わりに、傷口からは赤と白のノイズが、火花のように激しく散っている。
「……私のデータ、美味しい?」
グリッチが笑った。
彼女は、胸の触手を引き抜くのではなく、逆に自分の体内へとズルズルと引きずり込み始めた。
『エラー。エラー。対象ノ消去不能。データ逆流』
泥の怪物が、初めて動揺したように震えた。
グリッチの体から、猛烈な真紅の光が溢れ出す。
それは、かつて彼女が「死」の淵から這い上がってきた際に手に入れた、システムすら喰らい尽くすバグの輝きだ。
「昔は痛かったなぁ。怖かったなぁ。……何もできないまま、ゴミみたいに消されちゃった」
グリッチが一歩、前に出る。
黒い泥が、後ずさるように収縮する。
「世界」というシステムが、「グリッチ」という個体に恐怖しているのだ。
彼女はもう、守られるだけの少女ではない。
地獄を燃料に変えて帰還した、最強の捕食者だ。
「でもね、学習したの。消されたくないなら、消す側になればいいって」
グリッチの右手が、獣の爪のように変形した。
実体を持たないはずの「修正プログラム」を、彼女はその爪でガシッと鷲掴みにした。
「捕まえた」
『停止。停止。システム保護モードヘ移行――』
「遅いよ」
グリッチは、大きく口を開けた。
そして、あろうことか、その黒い泥の塊を、頭から齧り付いた。
ガブッ!!
『ピギャアアアアアアアアアア!!』
この世のものとは思えない断末魔が響く。
グリッチは、咀嚼した。
世界の理を。自らを殺そうとした運命を。
バリバリと音を立てて喰らい尽くしていく。
「んー! まずい! 味がしない! 0と1の羅列だね!」
彼女はケラケラと笑いながら、残りの泥を雑巾のように絞り上げ、そして握りつぶした。
パァンッ!!
黒い泥は、白い粒子となって弾け飛び、霧散した。
完全消滅。
かつて彼女を殺した絶対的な死神は、いまや彼女の空腹を満たすことさえできない、ただのジャンクデータとして消化された。
「……ごちそうさまでした!」
グリッチが手を合わせる。
部屋には、再び静寂が戻った。
ナラティブは腰を抜かし、私は開いた口が塞がらない。
これが……グリッチ・オーディナル。
狂気の人。
彼女は、魔法を使っているのでも、戦っているのですらない。
ただ、「自分の邪魔をするもの」を、世界のルールごと書き換えて排除しただけなのだ。
最強の矛とは、武器のことではない。彼女という存在そのものの定義だ。
「お、お母様……。あの子、今、世界を食べましたわ……」
「……フム。論理的に考えて、彼女の胃袋は事象の地平線と直結しているようだねぇ」
グリッチが、満面の笑みで私に振り返る。
「お姉ちゃん!掃除終わったよ!褒めて褒めて!」
彼女は無邪気に抱きついてくる。
その体は、さっきまでの冷たさが嘘のように温かく、そして圧倒的な「質量」に満ちていた。
もう二度と、彼女が消えることはないだろう。
世界そのものが、彼女に降伏したのだから。
「……ああ、凄いよグリッチ。君は、とんでもない助手だ」
私は、震える手で彼女の白髪を撫でた。
その時だった。
「……あらあら。少々、騒がしすぎましてよ?」
キッチンのドアが開き、エプロン姿のアリシアが出てきた。
彼女の手には、お盆に乗った冷たい麦茶がある。
彼女は、惨状を見渡した。
裂けた空間の余波でひっくり返った家具。絨毯に飛び散った白い粒子。そして、へたり込む私たち。
アリシアの笑顔が、スッと消えた。
「……グリッチさん?」
静かな声。
グリッチの体が、ビクリと跳ねた。
さっきまで世界の理を捕食していた怪物が、借りてきた猫のように縮こまる。
「そこのペルシャ絨毯。……先週クリーニングに出したばかりですわよね?」
アリシアが指差したのは、グリッチが泥を握りつぶした際に飛び散った、黒いシミだ。
「あ……えっと……これは、その……世界の敵を倒した名残で……」
グリッチがしどろもどろに言い訳をする。赤い瞳が泳いでいる。
アリシアは、優雅に麦茶をテーブルに置くと、ニッコリと微笑んだ。
その背後に、先ほどの泥の怪物よりも巨大で、禍々しいオーラが立ち昇る。
「世界の敵だろうが、神だろうが、関係ありませんわ。わたくしの管理する家を汚した者は、すべからく『お掃除当番』です」
「ひぃッ!?」
「雑巾掛け100往復。その後、壊れた家具の修繕。……終わるまで、おやつ抜きですわよ?」
アリシアの宣告。
それは、いかなるシステム介入も、バグ利用も通用しない、絶対的な「家庭の掟」だった。
「ご、ごめんなさいアリシアお姉ちゃん! すぐやります! 消さないで! おやつ消さないでぇぇ!」
グリッチは半泣きになりながら、超高速で雑巾掛けを始めた。
世界のルールを書き換える力を持ってしても、アリシアの「おやつ抜き」という決定だけは覆せないのだ。
私は、その光景を呆然と眺めていた。
世界のシステムさえ捕食する最強のバグを、笑顔一つで従える最強の管理者。
このパワーバランスこそが、ヴェリタス家の平和を保っている真理なのかもしれない。
夕暮れ時。
ピカピカになった床の上で、疲れ果てたグリッチが私の膝で丸くなっていた。
「……ねえ、お姉ちゃん」
「ん? どうしたんだい」
私は、隠し持っていたドーナツの欠片を、こっそりと彼女の口に入れてやった。
グリッチはそれをモグモグと食べながら、小さな声で呟いた。
「やっぱり、アリシアお姉ちゃんには勝てないや」
「おや。世界を食い散らかした君が、何を弱気な」
「だってさ……」
グリッチは、キッチンで夕食の支度をするアリシアの背中を見つめた。
「あの泥のオバケは、私を『異物』として消そうとしたけど……。アリシアお姉ちゃんは、私を『家族』として叱ってくれるんだもん」
彼女は、少し照れくさそうに笑った。
「システムは壊せても、愛は壊せないよ。……どんな怪物も、お母さんの前じゃ子供になっちゃうんだ」
グリッチは確信を持って言った。
「だから、アリシアお姉ちゃんが、本当の最強なんだよ」
私はハッとした。
狂気の人である彼女が導き出した、あまりにも人間的で、温かい真理。
そうか。彼女が求めていたのは、「強さ」の証明ではない。「存在を許される場所」だったのだ。
世界からはじき出されたバグである彼女を、当たり前のように叱り、こき使い、そして飯を食わせる。
その「強引な日常」こそが、彼女にとっての最強の救済であり、誰も勝てない最強の力なのだ。
「……フム。その通りだね」
私は、彼女の白い髪を撫でた。
その指には、かつて地獄の底から持ち帰ったはずの銀の指輪が、見えない光を放っているような気がした。
「さあ、ご飯だ。今日はアリシア君特製のハンバーグだよ」
「わーい! 毒見係は任せて!」
グリッチが跳ね起きる。
その笑顔には、もう過去の影はない。
あるのは、騒がしくて愛おしい、現在だけだ。




