定理2:世界を駆ける者(2)
この世界には、救いようのない馬鹿がいる。
馬鹿とは、学問だけを究めたり、武術だけを究めたりして、机上の空論しか見えなくなった、後天的な知性の盲目を指す。
奴らは、「理論が正しければ、普通の民衆は支持してくれる」などという寝言を本気で信じている。
自分たちの学力や武力、あるいは、思想となる愛や狂気が「論理的」に正しければ、他人が納得して動くと本気で思い込んでいるのだ。
……笑わせるなよ。
「あなたが死ぬのは正しいから、今、死んでください」と完璧な論理で言われて、その場で自ら喜んで首をつる人間が、一体、この世のどこにいるというのか。
腹が減って死にかけている乞食の目の前に立ち、泥棒はいけないことだよと道徳の授業を垂れ流しながら、自らは最高級のフルコースをくちゃくちゃと音を立てて食べるようなものだ。
あるいは、無惨に強姦され、心身を引き裂かれた被害者の目の前で「憎しみからは何も生まれないから、明日に向かって歩こう」などと、血の通っていない正論を平然と吐き捨てるようなことだ。
奴らはゴミだ。
吐き気がするほどの、ゴミだ。
奴らとは、僕以外の、全ての者だ。
頭の良さや、腕っぷしの強さや、言葉や数字の操作の巧さという、単なる人間のスペックが、人間という複雑な獣を動かすと、本気で信じているのだ。
だから、考える人間というものは、大抵が、「ウソ」だ。
奴らは、目の前にある圧倒的な「現実」を一切……見ていない。
目の前で咲き誇る花の美しさを見もせずに、「花がそこで咲いていることは景観保護の法律違反」だとか、「花粉が嫌いな人もいるのだから配慮が足りない」とか、「そもそもこの世界で花は咲くべきだったのか」といった、あまりにも……生命に対する残忍な屁理屈ばかりを嬉々として並べ立てる。
本当に、心の底から反吐が出る。
僕は、理論で人を殺してきたから、解る。
だが、理論が人を殺したわけではない。
僕は、楽しいから、人を殺したのだ。
感情だ。
殺す人も、殺される人も、感情だ。
人が動くのは、理論ではなく、感情だ。
理屈を吹き飛ばすほどの、圧倒的で、利己的で、盲目的な感情のうねりだけが、人間の手足を動かし、生かし、そうして……殺すのだ。
僕は手始めに、この素晴らしい理論の最初の実験台として、博愛主義の養父ヒガンテ・クライフォルトに「魂の共鳴」をかけた。
ヒガンテは、植物からエルフまで全てを愛すると公言していたが、とりわけ動物愛護を趣味としており、獣たちへの愛情は異常なほどだった。
そんな折、この王都の郊外から巨大で狂暴なクマが街の住人の居住区へ襲来するという事件が起きた。
クマは腹を空かせており、逃げ遅れた数名の市民に牙を剥いた。
そこで迅速に動いたのが、ヒガンテの娘である若き騎士団長だった。
彼女は市民の命を守るという、騎士として極めて正しく真っ当な判断を下し、勇敢にも剣を抜いてそのクマを討伐したのだ。
街の住人たちは彼女の勇気と武力を称賛し彼女の正しさを支持した。
だが、僕はその瞬間を見計らってヒガンテの脳内に「愛する動物を殺された悲しみと憎悪」の感情を最大出力で共鳴させた。
「お義父さん。あなたの愛する動物が、あなたの実の娘に惨殺されましたよ。さあ、どうしますか」
僕は屋敷のバルコニーから、広場に凱旋する娘と、それを出迎えるヒガンテを見下ろしながら、両手を広げてオーケストラのタクトを振るうように指先を躍らせた。
僕の魔導理論が地脈を通じてヒガンテの脳髄に直撃した瞬間、彼の表情が慈愛に満ちた紳士のものから、地獄の悪鬼へと変貌した。
「おおおおおお!私の可愛いクマちゃんがああああ!」
ヒガンテは、市民を守ったという娘の報告に耳を貸すどころか、絶叫しながら娘の胸ぐらを力任せに掴み上げた。
「お父様!?何を……私は市民を……」
「黙れ!動物の命を奪う悪魔め!」
僕はその様子を特等席である屋敷の廊下の暗がりから観察し、必死に笑いを堪えた。
「素晴らしい!完璧な論理の崩壊だ。最高に滑稽な喜劇の幕開けだよ」
ヒガンテは娘を屋敷の地下牢へと乱暴に引きずり込んだ。
僕は足音を消してその後を追い、鉄格子の隙間から極上のエンターテインメントを鑑賞した。
「な、なぜです、お父様!あのクマは……人を食い殺そうとしていたのですよ!」
「人間など食われても仕方がない!クマちゃんには生きる権利があったのだ!」
ヒガンテは赤く焼け焦げた鉄の棒を、実の娘の身体に躊躇なく鞭を打ち付けた。鼓膜を破るような悲鳴が地下室に響き渡る。
「あはははは!いいぞ、もっとやれ!動物愛護の時間だ!」
僕は壁に背中を預け、腹を抱えて声を出さずに笑い転げた。
「最高だ。正しい行動をした娘が、ただの『感情』に蹂躙されていく。頭の良さも正義も、『感情』の前ではただの餌だ!」
拷問は三日三晩続いた。
「お前のような血も涙もない人間が、これ以上王都に増えてはならない。クマちゃんは死んで子供を産めなくなった。だから、お前も……産めなくしてやる!」
ヒガンテは古代魔導言語を詠唱し、娘の魂に呪わしい封印を施した。子供が絶対にできないようにする、生命の根源を破壊する魂の去勢魔法だ。
「ああああああっ!」
魂を直接焼かれるような絶叫を残し、娘はそのまま王都から永久に追放された。
僕は興奮した。
この魔術は、やはり、完璧だ。
・・・・・・・・・・
そして、二年の月日が流れた。
十二歳だった僕の肉体は成長し、十五歳を迎えようとしていた。
僕の頭脳はついに、あの究極の魔導理論である「魂の共鳴」を完成させ、全世界破壊計画は最終段階へと突入した。
しかし、ここで一つの物理的な壁が立ち塞がる。
どれほど完璧な虐殺の設計図を描こうとも、単なる身寄りのない少年が一人でそれを実行に移したところで、容易に阻止されてしまう可能性がある。
僕の悪意を育み、理論を世界中に拡散させるための、絶対に安全な揺り籠が必要だった。
最も安全な場所とはどこか。
王都警察の厳重な金庫の中か。
あるいは、魔導の頂点に立つ賢者の塔か。
いや……単なる少年が突然訪ねたところで門前払いされるのがオチだ。
社会というシステムは、身分と肩書きという下らない記号でしか人間を判断しないのだから。
僕は王都の情報を徹底的に洗い出し、ついに僕の計画の宿主として最も相応しい、極上の愚か者を発見した。
奴の名前は、エラーラ・ヴェリタス。
大賢者という輝かしい称号を持ちながら、なぜか王都警察の事件にいちいち首を突っ込むという、探偵のような真似事をしている女だ。
奴の滑稽なところは、自らを論理の権化だと信じて疑わず、感情などという不確定要素を激しく軽視しているくせに、その実、誰よりも感情というものを愛し、それに振り回されていることに自分自身ですら気がついていない点にある。
己の矛盾に無自覚な「自称インテリ」ほど、僕の理論の傀儡として扱いやすいおもちゃはこの世に存在しない。
さらに。
僕の心を深く感動させたのは、その大賢者エラーラ様とやらの現在の居場所だった。
奴はなんと、王都の外れにある「獣病院」に居候しているというのだ。
その獣病院を経営しているのは、誰か。
元騎士団長の女、アリア・クライフォルト。
そう。二年前、僕がヒガンテの脳を魂の共鳴で弄り狂わせ、徹底的な拷問の末に子供ができないよう魂に封印をかけさせ、王都から追放した、あの惨めな女である。
僕は、息が止まるほど笑い転げた。
「自分たちを理不尽に拷問し、魂まで破壊した原因である『動物』を救うために、獣病院を開いてるだと!?傑作すぎる!馬鹿だ!馬鹿の極みだ!」
そして、彼女が密かに獣病院を開いていたその場所に、まさか、僕のターゲットである大賢者が入り浸っている。
なんという奇跡。
なんという運命。
僕が凌辱してあげた彼女の人生の残骸の上に、僕の新たな計画の拠点が用意されているのだ。
僕は、自らの生み出す悪の美しさに涙を流して感動した。
すべてが、僕の「破壊」を祝福している。
僕は計画を実行に移すべく、王都の北に広がる鬱蒼とした北の森へと足を運んだ。
霧が立ち込める薄暗い森の奥深く。
僕は、黒い革表紙の書物を取り出した。
僕が持てる、すべての殺意と最適化の理論。
そして、魂の共鳴の術式を記した僕の分身とも言えるこの教典の表紙に、僕は消えない魔導のインクで「エラーラ・ヴェリタス 著」と堂々たる嘘を書き込んだ。
次に僕は、二枚の羊皮紙を取り出し、古代魔導文字でメモを書き記した。
一枚目にはこう書いた。
「お前は強者だ。再起動を果たしたいなら、いかなる困難があろうとも、獣病院のエラーラ・ヴェリタスの元へ行き、『思い出せません』と言え。それが記憶の解除コードだ」
そして二枚目には、頭を使ったことなど一度もない白痴ほど「考えさせられる」と言い出したくなるような、深遠でデタラメなポエムを書き連ねた。
すべての準備を終えた僕は、森の冷たい土の上に仰向けに寝転がった。
そして、自らの脳髄に向けて、記憶の完全消去魔法と、外見の再生成魔法を放った。
完全なる初期化。
僕は、静かに目を閉じた。




