定理1:世界を駆ける者(1)
●リメイク元
「エラーラ・ヴェリタス」主人公の消滅
●過去の自分の救済
「真理と愛は、いかなる次元の壁をも超越して必ず巡り合う」
ある日、僕は死んだ。
ところが、気がつくと僕は、生き返っていた。
すぐに分かった。ここは僕がいた世界ではない。
空には無数の巨大な飛行船が浮かび、ガス灯の青白い光が石造りの街並みを照らし出している。
視線を落とすと、僕の体は一回りも二回りも小さくなっていた。
華奢な手足、滑らかな皮膚。
どうやら、十二歳くらいの少年の肉体に収まっているらしい。
僕は、状況を即座に理解した。
前世で僕は、自らの異端性をひけらかし、中途半端に「社会のシステム」に「反逆」しようとした結果、敗北して、殺された。
その反省を活かし、この新しい世界では「まっとうに生きる」ことに決めた。
幸運なことに、石畳で倒れていた僕を拾い上げてくれたのは、この街の治安維持を担う騎士団長だった。
彼は、身寄りのない僕を自らの屋敷に引き取り、惜しみない愛情と教育を与えてくれた。
僕は彼の期待に完璧に応えた。
真っ当に学び、真っ当に社会貢献し、愛を知り、自由を愛する、完璧な少年。
日中は王立学校に通い、真っ当に学問に励み、社会貢献を行う。
僕は優等生として誰からも愛され、自由を謳歌していた。
放課後、友人たちと連れ立って王都の大通りへ向かう。
石畳の道をレトロな馬車がのんびりと進む横を、富裕層の乗る魔導車が轟音を立てて走り抜けていく。
広場の屋台でドーナツを買う。
僕はドーナツの甘さを堪能した後、劇場で古いフィルム映画を見て、大声で笑った。
そして、夜が来る。
僕の本当の時間が始まる。
今夜の獲物は……まあ、誰でもいい。
路地裏を徘徊していると、酒場から出てきた恰幅の良い男を見つけた。
「……おじさん、こんなところで何をしているの?」
男は驚いて振り返り、暗闇の中に立つ僕の小さな姿を見て安堵のため息を漏らした。
「なんだ、子供か。迷子か?さっさと家に帰らないと……」
僕は右手でポケットの中の自分のスレートを操作した。僕が昼間のうちに街の魔導通信網に仕込んでおいたトロイの木馬プログラムを起動する。男が持っていたスレートが突如として高熱を発し、バチバチと火花を散らした。
男が慌ててスレートを放り投げると、僕はその隙を突いて男の膝の裏を容赦なく蹴り飛ばした。
男が石畳に膝をついた瞬間、僕は彼の背中に飛び乗り、前世の愛用品と同じ形状に鍛え上げてもらった特製のカッターナイフの刃を、男の右耳の下に突き立てた。
僕は刃を顎のラインに沿って深く、長く引き裂いた。
そう。
僕は、殺人鬼だ。
「やっぱり、殺されるより殺す方が、性に合っているね」
僕は冷たくなった男の顔を覗き込み、満足げに微笑んだ。
返り血を拭うこともせず、僕は再び街の屋根へと飛び乗り、騎士団長の屋敷へと帰還する。
もちろん僕は、騎士団長も殺害した。
朝の食卓で、僕は彼の珈琲に即効性の魔導毒を一滴だけ垂らしたのだ。
騎士団長は僕の無邪気な笑顔を微塵も疑うことなく、珈琲を飲み干した。
次の瞬間、彼の分厚い胸板が激しく痙攣し、口から白い泡を吹いて床に倒れ伏した。
僕は冷めた目で彼の絶命を見下ろした。
そしてこの死は、現在の王都の体制と騎士団長をよく思わない者たちにとって、願ってもない好機となった。
空席となった騎士団長の座には、即座に反対派議員の娘が就任した。
そして、身寄りをなくした「可哀想」な十二歳の僕は、新たな騎士団長の親であるヒガンテ・クライフォルトの養子として迎え入れられることになった。
すべてが、僕の書いた美しいシナリオ通りだ。
王都の高級住宅街、ガス灯が整然と並ぶ一等地に建つクライフォルト家の広大な屋敷で、僕は新しい養父と対面した。
ヒガンテは初老の穏やかな紳士で、仕立ての良いスーツを着こなし、片眼鏡の奥から慈愛に満ちた瞳で僕を見つめていた。
「よく来てくれたね。君の悲しみは計り知れないが、今日からここが君の家だ」
「ありがとうございます、ヒガンテ様。僕のような孤児を迎え入れてくださり、なんとお礼を言えばいいか」
僕は涙を浮かべて完璧な子役を演じきった。ヒガンテは満足そうに頷き、窓の外に広がる広大な庭園を指差した。庭園では、使用人として雇われている獣人たちが庭木の手入れをし、獣人のメイドたちが洗濯物を干している。
「見てごらん。この世界は多様性に満ちている。私はね、博愛主義者なのだよ。植物にも動物にも、命がある。エルフも獣人も人間も、この王都において絶対的に平等でなければならない。命の価値を、忘れてはならないのだよ」
「博愛主義、ですか。僕も、そう思います」
博愛主義。
すべての命は、平等。
これだ。これこそが、僕が求めていた究極の愛だ。
命が平等に尊いということは、つまり、誰を殺しても平等に価値があるということだ。
「お義父さん。僕、感動しました。僕も、『すべての命の平等』のために、全力を尽くして生きていきます!」
その日から、僕の新しい生活が始まった。僕は博愛主義を胸に秘め、すべての事柄に真剣に取り組んだ。
そんなある日。
僕は、たまたま、スラム街に近い歯車通りの外れの古本屋へ出向いた。
そして、たまたま、見つけたのだ。
装丁すらされていない、ただ、古びた黒い革で覆われただけの不気味な本。
表紙には、題名すら記されていない。
あまりにも無個性で、だからこそ、周囲の有象無象の書物の中で異様なまでの存在感を放っていた。
僕は震える指先でその黒い革表紙を開き、中身をチラリと見た。
たった数行、ほんの数秒だけ視線を落とした瞬間、僕の脳髄に雷のような電流が走った。
間違いない。
僕がずっと探し求めていた、出版すら公式にはされていない、世界で一冊だけの最重要書物だ。
僕は内心の爆発しそうな狂喜を完璧に隠し込み、十二歳の少年にふさわしい、少し怯えたような困惑の表情を作って、レジの奥で微睡んでいる老婆の魔女の元へそれを持っていった。
「あの……おばあさん、この本、いくらですか。なんだか……表紙に何も書いていないんですけれど……」
しわくちゃの魔女は、重い瞼を持ち上げて僕が差し出した名もなき黒い本を見るなり、露骨に顔をしかめ、手を振った。
「ああ、それ。どこから紛れ込んだのか全く知らないんだけどね、気味が悪い本なんだよ」
「気味が、悪い……というと?」
僕は首を傾げ、大きな瞳で魔女を見つめ返す。
「書いている意味が全く分からないし、読もうとすると頭が割れるように痛くなるんだ。呪いでもかかってるんじゃあないかね。題名すらないし。……坊や、欲しいのかい。なら、お金なんていらないから持ってきな」
「ええっ、そんな怖い本、僕も嫌ですよ。いらないですよ。呪いなんてお断りです。でもまあ……せっかく見つけたから、一応……もらっておきますね。うーん。押し花を作る重しにはなるかなあ……」
僕はわざとらしく身震いをして見せ、無邪気な苦笑いを浮かべながら本を鞄に押し込んだ。
魔女は厄介払いができたとばかりに安堵の深い息を吐き、僕に早く帰るよう促した。
店を出て、ガス灯の青白い光が点り始めた王都の街路を歩きながら、僕は腹の底からこみ上げる高笑いを必死に噛み殺していた。
ここまでが、僕の完璧な演技である。
たまたま立ち寄った場末の書店で、たまたま奇跡的に世界で一冊だけの最重要書物を見つけ、たまたま無料で頂いた。
こんな都合の良い事があっていいのだろうか。
いや、いいはずがない。
奇跡などという安い言葉で片付けてなるものか。
クライフォルト家の屋敷に戻り、自室の扉の鍵を厳重に閉めた僕は、机の上に、あの名もなき黒い革の本を恭しく置いた。
僕は、ページを捲る。
この本は、表向きは、くだらない小手先の技術を描いた見苦しいハウツー本、あるいは、狂人が書いた傲慢な自己満足と見下しに満ちた自己啓発本……の、ような顔をしている。
要するに、すべての時間や場所や生き物には収まるべき何かがあり、万物が己の役割を全うし完璧な調和を目指すことこそが、世界にとっての何だかとってもすっごく絶対的な幸せですよ……というような、まるでどうでもいい薄っぺらい思想が延々と綴られているのだ。
こんなくだらない汚物は、今すぐ暖炉の火に投げ込んで灰にしてやるべきだ。
だが。
僕がこの本を血眼になって探し回っていた理由は、ほかでもない。
視点をずらし、読み方を変えるのだ。
すると、どうだ。
この空虚な言葉の羅列が、ただひたすらに「殺しの奥義」のみが記された、この世で最も洗練された暗殺術の指南書へと姿を変えるのだ。
『適材適所』。
それは何も、存在を「活かす」ためだけの技術ではない。
裏を返せば、すべての存在には必ず「破滅させられる解」があり、致命的な弱点があるということだ。
完璧な調和というものは、たった一つの異物を完璧な位置に配置するだけで、最も美しく連鎖的に崩壊していく。
どんなに屈強な戦士であろうと、ひ弱な少女の指先が、胸の特定の部位に特定のタイミングで触れるだけで、いとも容易く絶命させることができるかもしれない。
どんなに強大な魔道士だろうと、その精神の最も脆い基盤を見抜き、たった一言の囁きだけで、服毒自殺を選ばざるを得ない絶望に追い込めるかもしれない。
万物には、それを完全に崩壊させるためのスイッチが必ず用意されている。この本は、そのスイッチの在処と押し方を、論理的かつ冷酷に記しているのだ。
僕は歓喜に震えながらページを捲り続けた。
僕の博愛主義——すべての命は平等に価値があり、ゆえに「平等に殺す価値がある」という思想——と、この暗殺術は見事に合致する。
僕は、もう、刃物も毒薬すらも必要としなくなった。
ただ、その場に「最適な要素」を配置するだけで、王都のすべての人間を、まるで精巧なドミノ倒しのように最高に滑稽な死へと導くことができるのだ。
感動に震えながら本を読み進めていくと、巻末に真っ白なページが数枚だけ残されていることに気がついた。
「……なんということだ。いや、そういうことか……!」
僕は熱を帯びた吐息を漏らし、震える手で羽根ペンを握った。
この空白は、僕が、僕自身の手で、僕だけの暗殺術への応用のページを書き足すために、あらかじめ用意され、わざと空けられていた数ページ……としか思えなかった。
僕は、僕の「最適」を、その空白のページに次々と書き込んでいった。
僕の知識と、この本が示す真理が融合していく。
インクが紙に染み込むたびに、僕の最高に楽しい破滅の設計図が、より緻密に、より残酷に組み上がっていく。
そして、すべての余白を僕の悪意で埋め尽くした時、この本は、真の完成を迎えた。
僕は再び羽根ペンにインクをたっぷりと浸し、装丁すらされていない、題名もなかった黒い革の表紙に、自らの手で、力強くその名を刻み込んだ。
『最適化』
そして。教典『最適化』の余白に僕の純粋な悪意を書き連ねていく過程で、僕はついに、一つの究極的な真理へと到達していた。
それが、僕の開発した最終破壊理論である。
『魂の共鳴』
人間の脳髄の奥底に眠る特定の感情の周波数を強制的に同期させるという、極めて暴力的な魔導理論だ。




