定理4:残穢との対峙(4)
王都の裏路地にひっそりと佇む重厚なオーク材の扉を押し開けると、氷がグラスを叩く小気味良い音が、静かなジャズの調べに溶け込んでいた。看板のない名店、バー「奥泉」。
あの戦いから数日後、私たちは誰にも知られることなく、この隠れ家を貸し切ってささやかな祝宴を開いていた。
マスターのハママツが無駄のない所作でステアした、琥珀色の液体が満ちたカクテルを私の前に滑らせる。強烈なアルコールと、それに負けない芳醇な香りが、連日のデバッグで使い果たした私の論理回路を鮮やかに解きほぐしていった。そして今夜のカウンターとテーブルには、王都中の名店から特別に取り寄せた品々と、ハママツの神業によって調理された至高の皿が並んでいる。
メインは何と言っても、ナラティブのリクエストによる、選び抜かれた霜降り肉の極厚ステーキだ。炭火でじっくりと焼き上げられ、溢れ出す肉汁が視覚だけで空腹を刺激する。
「これよこれ!断面のこの鮮やかな薔薇色、そして歯を押し返すような弾力!王都最強の霜降り肉を独り占めできるなんて、今日ばかりはあのお母様に感謝してあげてもいいわ!」
漆黒のドレススーツを着崩したナラティブが、ナイフとフォークを豪快に使い、至福の溜息と共に赤ワインを煽っている。
「ナラティブさん、少しは味わって食べなさいな。はしたないですよ。それに、今日ばかりは、と言わず、常に感謝の念を忘れないことです」
完璧な公務員の擬態を解いたアスナが、タイトスカートから伸びる脚を上品に組み直し、呆れたように溜息をついた。彼女の前には、王都の地脈マナを凝縮して焼き上げた特製の薬膳クリアスープが置かれている。地下での激闘による疲労を、その一口ごとに癒やしているようだった。
「アスナさんの言う通りですわ。感謝は言葉よりも行動で示していただきたいものです。例えば、このステーキの代金をどなたが支払うのか、という現実的な問題に直面した時など……」
アリシアが、慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら、手元のスレート端末で今夜の飲食代という名の恐ろしい論理攻撃を記録していた。
「アスナの言う通りですわ!美味いもんは骨の髄までしゃぶり尽くさねばなりませんの!ゴウ、あんたも遠慮せずにガンガン食いなさい!私の夫がヒョロヒョロじゃあ、困りますわよ!さあさあ!」
狼獣人のリウが、ナラティブのステーキに負けないほどの巨大な骨付き肉を豪快にしゃぶりながら、目を細めて隣のゴウに笑いかけた。
「た、食べてますって!急かさないでくださいよ!……でも、このお肉の熱伝導率と細胞壁の崩壊具合、科学的に見ても理想的な調理ですね。タンパク質の補給効率が最大化されています!」
ゴウが、栄養満点の繊細なミートタルトを観察しながら微笑む。
「うわぁ、見て見て!このピザ、チーズがすっごい伸びるよ!びよ~んって!これ、絶対マナの含有量が通常値の三百パーセントを超えてるって!お姉ちゃんにも見せてあげなきゃ!」
天井近くの梁に器用に腰掛けたグリッチが、チーズがたっぷりと乗った特製ピザを片手に、嬉々としてチーズを限界まで伸ばしている。そのもう片方の手では、小型端末を操作してピザの成分分析データをリアルタイムで表示させていた。
「このタルト、本当に宝石みたいに綺麗で……。私なんかが、こんな特別なものを頂いていいんでしょうか……」
ルルが頬を赤らめながら、小さなフォークで慎重に色とりどりの果実が添えられたフルーツタルトの一切れを運んでいる。
「皆様が楽しそうで何よりです。このバーの静寂をこれほど賑やかに彩れるのは、世界広しといえど皆様方くらいでしょう」
カウンターの奥で、ハママツが静かにグラスを磨きながら微かに微笑んだ。
「それで、エラーラ」
アスナは細縁眼鏡の奥の瞳をわずかに細め、私をジロリと睨んだ。
「今夜のこの、ミスター・マジック特注の王都最高級マナ・ドーナツの詰め合わせ……。これも、経費として処理できる……と思っているわけではありませんよね?」
「ア、アスナ君。これはだね、失われた糖分を補給し、論理的思考を再構築するための、極めて不可欠な魔導資材だよ。決して、単に私がこの限定品を食べたかったわけではないよ?」
「屁理屈を言わないでください! 事務所の備品費がすべてドーナツと泥のような珈琲豆に消えていく私の気持ちを、少しは演算してみてはいかがですか!」
アスナの小言は鋭かったが、その口元は微かに綻び、珈琲の温かさにどこかホッとしたような柔らかい表情を浮かべていた。
絶対的な幸福などという無機質な静寂よりも、私はこの、どうしようもなく騒がしくて非論理的な家族との諍いを選びたい。
私はアスナの小言を適当に受け流しながら、カクテルの残りを飲み干した。バー奥泉の心地よい喧騒の中、私はそっと目を閉じた。
命とは何か。
人生とは何か。
その答えは、まだ、完全には証明されていない。
だが、この温かいノイズに満ちた世界で、その答えを探し続けること。
それこそが、最強の魔導師エラーラ・ヴェリタスの、最後にして最大の研究テーマなのだ。
窓の外では、夕暮れの王都が、人々の営みという美しいノイズを響かせながら、明日へと続いていく。
私は、心の底から、笑った。
その時だった。首にかけた金色の魔導聴診器が、微かな、しかし決定的なノイズを拾い上げた。王都の地脈の底から響く、新たな魔導の胎動。
未知なる事件の予感。
「……フム」
私はスツールからゆっくりと立ち上がった。白衣のポケットに手を突っ込み、誰にも気づかれないようにそっと歩み出そうとした背中を、鋭い声が引き止める。
「どこへ行くのです、エラーラ?まだ私の説教は終わっていませんよ」
怪訝そうな顔で立ち上がろうとするアスナ。その時、カウンター越しにスッと差し出されたグラスが、彼女の動きを優しく遮った。
「アスナさん、こちらを。極北の氷を使った特別な一杯です。それに……彼女には、彼女のやるべきことがある。そうでしょう?」
ハママツ──前の世界での名前は、記者・ギデオン・ヴァンツ──は静かに微笑み、私へと微かに視線を送った。アスナは差し出されたグラスと私を交互に見比べ、やがて小さくため息をついて再びスツールに腰を下ろした。
「……まったく。必ず、朝食までには家に帰ってくるんですよ」
「ああ、約束しよう」
私は背越しに手を振り、重厚な扉を開け放った。
夜風が私の銀髪を揺らし、蒸気とマナの入り混じった王都の空気が肺を満たす。
見上げる夜空は、魔石灯の光を反射して淀んだ灰色をしている。
だが、今の私には、その雲の向こうに広がる無限の宇宙の広がりが、手に取るように分かった。
私は、足の裏に純粋な魔力を圧縮させた。
重力というルールの書き換え。
膝を曲げ、爆発的な推力と共に地を蹴る。
アスファルトが砕け散る轟音と共に、私の身体は銃弾のような速度で王都の空へと打ち上げられた。
眼下に広がるのは、歯車通り、光座のネオン、規制局のビル群。
そして、冷たい夜風が顔を打つ。
私は両腕を広げ、迫り来る分厚い雲の層を一気に突き破った。
視界が真っ白に染まった次の瞬間、そこには息を呑むような満天の星空が広がっていた。
限界も、境界線も存在しない。
私が望めば、この空の果てまでだって飛んでいける。
私は全身を突き抜けるような高揚感と、希望に満ち溢れた絶対的な自由の感覚に包まれながら、夜空の頂点を目指してさらに加速していった。
「さて。この最高に美しくエラーだらけの明日へ。……真っ直ぐに、飛び込んでいこうじゃないか!」




