定理2:残穢との対峙(2)
事務所の主であるエラーラ・ヴェリタスと、その監視役であるアスナ・クライフォルトが行方不明となってから数日。管理代行を務めるアリシア・ヴェリタスは、スレート端末に映し出される異常数値を静かに見つめていた。彼女の周囲には、エラーラたちがいた頃のような騒がしい調和はなく、代わりに、何かがバラバラに解体されていくような静寂が漂っている。
「おかあさまたちが不在のこのタイミングで、随分と無作法な客が暴れているようですわね。繋がることを禁じ、あらゆる概念を個別に孤立させる。わたくし、こういう礼儀知らずな論理は、生理的に受け付けませんの」
アリシアの声は静かだが、その背後には王都の秩序を司る管理者の絶対的な威圧感が宿っていた。
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王都の西側、迷宮のように入り組んだ路地が湿った霧を吐き出すスラム街。そこでは、社会の最小単位である個の定義が、今まさに解体されようとしていた。漆黒のドレススーツを着こなしたナラティブ・ヴェリタスは、愛用の鉄扇をパチリと開き、目の前の異常な光景に眉を寄せた。
路地の真ん中では、一人の男が地面を四足で這い回り、通りかかる人々に対して威嚇の声を上げている。その振る舞いは理性ある人間のものではなく、完全に野に放たれた獣のそれであった。一方で、その傍らで静かにお座りをしていた柴犬は、流暢な言葉を操り、通行人に、極めて理屈っぽい高説を垂れていた。魂と肉体の定義が分断され、本来あるべき器から剥離して入れ替わっているのだ。
「……ナラちゃん。危ない。術式の実行範囲、拡大中。逃げて」
背後でスレートを操作していたルル・ヴァンクロフトが警告を発した瞬間、分断の光がナラティブを包み込んだ。ナラティブの意識が、その強靭な肉体から無理やり引き剥がされていく。次の瞬間、そこに立っていたのは、ただ弱々しい声を漏らすことしかできない、本能だけの存在へと退行した、猫のような女であった。
「ニ、ニャゴ……(助けてくださいまし!)」
ルルがその状況を冷静にスキャンし、術式の解析を進めていたその時、路地裏の霧を切り裂いて金髪のポニーテールが躍動した。狼獣人のリウ・ヴァンクロフトである。リウは野性の直感で、この異常な静寂の正体を見抜いていた。
「あたしの知っているナラティブは、こんなに従順で弱々しくなんてありませんわ!むしろ憎たらしくて不器用で、でもそこが最高に格好いい女ですわ!」
リウは野生の勘に基づいた「拒絶」を叫び、分断の呪いそのものを物理的な剛腕で殴りつけた。彼女の拳に宿った迷いのない他者への確信が、ナラティブの魂と肉体を再び強力に接着させるパッチとなった。爆発的なマナの放出とともに、ナラティブは元の鋭い眼光を取り戻した。
「はうあっ!?……今、あたしのことを憎たらしいと、言わなかったかしら?……リウ、後ろから来ますわよ!お礼に鉄扇で一発、規律を叩き込んであげますわ!」
ナラティブの口調はいつもの冷徹さを取り戻していた。リウはその言葉に満足げな笑みを浮かべ、二人は迫り来る分断の残滓を薙ぎ払った。
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一方、王都の北端、魔導産業革命の負の遺産が積み上がるゴミ捨て場、レガシー・セクターでは、時間の分断が怪物を作り出していた。科学少年のゴウ・オータムは、目の前にそびえ立つ巨大なゴミの要塞を見上げて息を呑んだ。
それは、数百台の壊れた魔導家電や廃車が無理やり結合した、異形の塊であった。家電たちは、自分がかつて誰かに愛され、使われていたという「過去の記憶」を、現在の「ゴミとしての実体」から強制的に切り離され、己が何者であったかを忘れたことで、行き場のない未練を暴走させていたのである。
「面白そうなターゲットだね、ゴウくん。これ、私の出力で一気にデリートしちゃっていいかな?」
隣でグリッチ・オーディナルが、赤い瞳を輝かせ、指先に高密度の破壊魔法を凝縮させる。だが、ゴウはその小さな手を必死に制した。
「待って、グリッチさん。破壊はこの子たちの分断を加速させるだけだ。僕にやらせて。魔法じゃない、僕なりのやり方で!」
ゴウは武器を持たず、一本の使い古したオイル差しと、丁寧に洗われた布切れを手にして怪物へと歩み寄った。彼は巨大なバンパーに手を触れ、汚れきった魔導回路にオイルを垂らし、慈しむように磨き始めた。
「お疲れ様。君のエンジン、吸気魔法が詰まっていて苦しかったんだね。……もう、無理に走らなくていいんだよ」
ゴウの言葉は、魔法的な命令ではなく、純粋な手入れという名のコミュニケーションであった。過去と現在を「記憶」という一本の線で繋ぎ直すその行為は、分断された機械たちの魂に強烈な安らぎを与えた。感謝へと変換された未練が光となって霧散し、要塞は平和的に崩壊していく。その崩壊の最中、グリッチは残された中央基板に端末を突き刺し、世界を消去しようとする黒幕のサーバーの特定を開始した。
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王都中央警察署。カレル警部の執務室の扉が、凄まじい音と共に蹴破られた。
「警部!助けてくだせえ、実の弟が……俺の弟が、正気を失っていやがるんです!」
転がり込んできたのは、かつて王都の裏社会を震撼させた極道の男であった。彼は血相を変え、震える手でカレルのデスクにしがみついた。彼を追ってきたのは、極道の現役幹部である実の弟。弟は、理性と肉体を切り離し、情愛や恐怖すらも感じさせない非情な暗殺者へと変貌していた。弟は自らの兄を、もはや不要となった「過去」として切り捨てようとしていたのである。
「兄貴、住む世界が違うんだよ。規律だの更生だの、そんな軟弱な鎖は俺が断ち切ってやる」
弟が放つ冷酷な刃が、カレルと男に向かって振り下ろされる。だが、その殺気の渦中に、どこからともなく飛んできた一本の竹箒が割り込んだ。
「物騒なものを振り回すのは、掃除が行き届いていない証拠だねぇ」
路地を掃きながら現れたのは、小さな老婆であった。かつて王宮騎士団の生活指導官を任されていた伝説の教育者である。彼女は、暗殺者となった弟も、怯える兄も、そして銃を構えたカレルさえも、等しく「行儀の悪い子供」として定義した。
「挨拶!掃除!そして規律!この三つができていない不届き者に、分断だの何だのと言う資格はないよ!」
老婆の杖から放たれたのは、魔法でもない、ただの打撃。しかしそれは、「重み」を持っていた。その一撃は、弟の脳内で暴走していた不整合な論理回路を、無理やり「家族の規律」という共通の座標へと再結合させた。王都を震撼させるはずだったヤクザ兄弟の確執は、老婆の圧倒的な教育的規律によって、強制的に鎮圧されたのである。
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全ての事象が鎮圧された頃、探偵事務所のアリシアは、グリッチから送られてきた最終報告書を読み終え、満足げに微笑んだ。彼女の演算は、一見バラバラに見えたこれらの事件の背後にある真理を導き出していた。
魂と肉体の剥離。過去と現在の断絶。規律と血縁の分断。
王都で同時多発的に起きたこれら一連の現象。それは、何者かによる意図的な攻撃ではなく、むしろ、世界という巨大なシステムが本能的に発した「免疫反応」であった。
今、王都の地下深くで進行している巨大な脅威……『魂の共鳴』。
それは全てを一箇所の淀みへと溶かし尽くし、個の境界線を消滅させ、一つの巨大な「無」へと回帰させようとする、究極の崩壊である。
それに対し、世界は自らをあえてバラバラに解体し、個を孤立させ、互いを拒絶し硬化させることで、その致命的な融解から逃れようと抗っていたのだ。分断という不自由で孤独なノイズこそが、最悪の静寂に対する唯一の抵抗であった。
アリシアは窓の外を見つめた。
「おかあさまたち。……あとは、よろしくてよ」
アリシアは静かに冷めた紅茶を飲み干した。




