定理52:再生する世界(4)
「宇宙の総量は保存される。もし一時的にゼロになったとしても、世界は均衡を保とうとする」
王都の夕暮れは、レンガ造りの街並みを茜色に染め上げ、そこかしこから漂う魔導蒸気機関の白い煙を黄金色に輝かせていた。貴族街とスラムの境界線に建つ古びた映画館『光座』。その重厚な扉が開き、物語の終わりと始まりを告げるベルが鳴り響いた。
ゾロゾロと出てきたのは、この王都を救ったばかりの英雄たち、ヴェリタス探偵事務所の面々とその愉快な隣人たちだった。彼らの表情は一様に紅潮し、瞳は興奮で潤んでいた。
「フム……!完璧だ。これぞ真理の映像化と言えるねぇ!」
先陣を切ったのは、白衣を翻したエラーラ・ヴェリタスだった。彼女は興奮冷めやらぬ様子で、持っていたポップコーンの空き箱を虚空へ放り投げた。
「あの劇中におけるエラーラの造形美!あえて私のチャームポイントである豊満さを強調し、その柔らかい肉体ですべての衝撃を受け止め、仲間を優しく包み込んで守るふかふか魔導師としての解釈!戦闘よりもハグで解決しようとするあの慈愛に満ちた姿勢こそ、私の本質だよ!監督は、私の魂の形状を正確にスキャンしていたに違いない!」
「……お母様、違いますわ。戦闘描写は、どう見てもあたしの持ちキャラのホワイトファングのメタファーですわよ」
漆黒のドレススーツに身を包んだナラティブ・ヴェリタスが、ハンカチで目元を拭いながら反論する。
「ですが、認めますわ。あの6人のチームワーク!過去から託された希望として集い、それぞれの特技を活かして悪を討つあの構成! 特に、あたしが電磁ナックルで空を飛び、敵の艦隊を粉砕するシーン! あたしの気高さと武勇が、24コマの魔法となってスクリーンに焼き付けられていましたわ! 最高傑作です!」
「あはは! 私はあのアクションシーン、全部センサーで記録したよぉ! 私とお姉ちゃんが合体して、ロケットみたいに飛んでいくところ、物理演算がバグってて最高だったねぇ!」
グリッチ・オーディナルが、エラーラの背中に飛びつきながらはしゃぐ。その横で、絶世の美少女アリシア・ヴェリタスは、うっとりと頬を染めていた。
「ええ、本当に素晴らしい映画でしたわ。『エラーラ・ヴェリタス6』……。家族の愛が、科学という冷たい枠組みを超えて奇跡を起こす。わたくし、3回泣きましたの。特に、主人公たちが力を合わせて、あの卑劣な悪の組織を壊滅させるシーン! スカッとしましたわ!」
「色彩設計も完璧だったな! あの爆発の赤と、友情の白! 私のキャンバスにも取り入れたい情熱だった!」
リウ・ヴァンクロフトがスケッチブック片手に熱弁を振るい、その陰でルル・ヴァンクロフトが、あの情報屋キャラはあたしの解釈と一致して尊いとブツブツ呟いている。
全員が大絶賛だった。王都の映画監督イチローが制作したこの超大作は、ヴェリタス家の6人──エラーラ、ナラティブ、アリシア、グリッチ、リウ、ルル──をモデルにしたヒーロー映画であり、彼女たちの絆と勝利を描いた感動の物語だったからだ。
だが。
その感動の輪の外側で、人混みの出口の柱の陰に隠れるようにして震えている一人の男がいた。この映画の監督だ。彼は自分の魂を削って作ったこの映画が、モデルとなった本人たちにどう受け止められるか、死刑判決を待つ囚人のような心持ちで立ち尽くしていたのだ。
「フム……。久しぶりだな、監督。いや、今のこの次元では『イチロー』と呼ぶべきか?」
白衣を翻し、エラーラ・ヴェリタスがイチローの前に立った。イチローは直立不動になり、青ざめた顔で彼女を見上げた。
エラーラは、ポップコーンのカスがついた指先で眼鏡の位置を直し、イチローの目を真っ直ぐに見据えた。
「まったく。君は天才なのか馬鹿なのか、判別不能だな。こんなに……愛に溢れた作品を作るとは。狂気の沙汰だよ。私の性格も、あんなに慈愛に満ちた聖母ではないつもりだが?」
「は、はい……申し訳、ありま……」
イチローが崩れ落ちそうになった時、エラーラはふっと表情を緩め、ハスキーな声で言った。
「だが、あの映画の中の私は……なんだか、とても楽しそうだったな」
「え……?」
「世界を守る重圧からも、正しさという呪縛からも解放されて、ただの学生としてパンを咥えて走り、友人と馬鹿騒ぎをする。……あれは、君が私に望んだ幸せな夢だったのか?」
エラーラはニッと笑った。それはイチローが記憶の底で焦がれ続けた、不敵で、けれど誰よりも温かい笑顔だった。
「フン……非論理的で……だが、最高に愛すべき傑作だね!」
その言葉を聞いた瞬間、イチローの目から涙が噴き出した。かつてどこかで交わした約束、あるいは祈り。エラーラの魂は確かに、イチローの愛を受け取っていたのだ。イチローは涙目で、何度も何度も彼女に頭を下げた。
感動的な対面が終わった、その直後だった。
王都の上空、茜色の空が、バリリリッという不快な音を立てて裂けた。
そこから滲み出してきたのは、圧倒的な「闇」だった。それはただの魔獣ではない。因縁、絶望、断絶……それら全てを煮詰めたような、バッドエンドの具現体だった。
王都の空気が凍りつく。市民たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。
たまたま近所の屋台でラーメンを啜っていたバー「奥泉」のマスター、ハママツは、その闇を見上げて箸を落とした。
震えが止まらない。
知っている。あの闇を知っている。あれは、議論や和解でどうにかなる代物ではない。すべてを無に帰す、逃れられない世界の終わりだ。
「……ああ、嘘だろ。ここで、終わるのかよ……」
ハママツは絶望した。積み上げた日常が、美味しいスープが、全て灰になる。彼は膝をつき、来るべき終焉に目を閉じた。
ところが、である。
「ちょっとエラーラさん!聞いてらっしゃいますの!?」
アスナ・クライフォルトの怒鳴り声が、絶望の空気を切り裂いた。彼女は空の裂け目など目に入っていないかのように、エラーラに詰め寄っていた。
「あの映画のラスト!なぜ最後、私がエラーラさんを庇って爆発するんですの! 私は最後まで生き残って、エラーラさんと結婚式を挙げるはずでしたのよ!」
「知らんよ。監督の解釈だろう。それに君は爆発している時が一番輝いているからねぇ」
「なんですってーッ!!」
「二人とも、前を見て! 何か来てる!」
ナラティブが叫ぶ。闇の化身が、触手のような腕を振り上げ、彼女たちを押しつぶそうと迫っていた。
ナラティブは舌打ちをし、ドレスの裾を翻して跳躍した。
「うるさいわね! あたしたちは今、映画の感想戦で忙しいのよッ!」
ナラティブの拳が唸る。彼女は無意識のうちに、かつて自分が心臓を貫かれて死んだその位置を正確に狙い、敵の胸板に風穴を開けた。
ドゴォォォォンッ!!
闇の巨体がよろめく。
そこへ、グリッチが満面の笑みで飛び乗った。
「わあ! 大きなゼリーだねぇ! いただきまーす!」
敵はグリッチに腕を突き刺したが、グリッチの身体をすり抜けた。
「効かないよお!あなたの存在はこの世界には必要ないもんね!」
グリッチは敵を持ち上げると、そのまま空高く舞い上がり、重力に任せて地面に叩きつけた。さらに、千切れた敵の一部をムシャムシャと食べ始める。それはかつて、肉体を損壊して死んだ因果への、痛烈な意趣返しだった。
「あらあら。お行儀が悪いですわよ、グリッチ」
アリシアが優雅に歩み寄る。再生しようとする闇の化身に対し、彼女は慈悲深い、しかし絶対零度の瞳で二本の指を立てた。
「選びなさい。……わたくしに浄化されて逃れるか、わたくしの愛に溺れて逃がれるか。……まあ、どちらも『破滅』であることに変わりはありませんわ」
それはかつて、アリシアがエラーラを追い詰めた時に突きつけた二つの選択の再現だった。究極の理不尽を前に、闇の化身は選択する気力すら奪われ、そのまま霧のように霞んで消滅していった。それは、かつてアリシアが誰にも届かずに力尽きて消えた最期と重なっていた。
ハママツは、開いた口が塞がらなかった。
終わった。
あの絶望的な旧世界の闇が、彼女たちの無意識の連携によって、ただの雑魚として処理されたのだ。
「まだですわ!エラーラさん!逃げないでくださいまし!」
「しつこいねぇ!私は早く帰ってあの映画の構造を解析したいんだよ!」
エラーラが白衣をバサリと翻すと、背中から魔力の翼が噴出した。彼女は重力を無視して空へと飛翔する。
それを見たアスナが、眼鏡を光らせた。
「逃がしませんわーッ!竜変化・飛翔形態!」
アスナの背中から真紅の翼が生える。彼女もまた空へと舞い上がり、王都の上空でエラーラと対峙した。
夕闇の空で、最強の魔導師と、最強の竜人が向かい合う。
地上では、カレルとゴウがまた始まったと頭を抱え、リウとルルがいい構図だ、尊いと呟いている。
「覚悟なさい、エラーラさん! 私の愛の炎で、その白衣をウェディングドレスに変えて差し上げますわ!」
アスナが大きく息を吸い込む。口元に灼熱の炎が宿る。
「フン!物理的にも熱量的にも非論理的だ!受けて立とう!」
エラーラが防御障壁を展開する。
アスナのブレスが放たれた。紅蓮の炎がエラーラの障壁に激突し、王都の夜空を昼間のように照らし出す。
だが、エラーラは炎を弾き飛ばすと、障壁を解除して自らアスナに向かって突撃した。アスナもまた、炎を纏って加速する。
正面衝突。
殴り合いか、魔術戦か。ハママツが固唾を飲んで見守る中、二つの影が交錯した瞬間。
「捕まえましたわーッ!」
アスナは攻撃しなかった。彼女は両手を広げ、タックルするようにエラーラを抱きしめたのだ。
勢い余ってきりもみ回転しながら、アスナはエラーラの耳元で、決定的な言葉を叫んだ。
「愛していますわ!私の、お母様!」
時が止まった。
エラーラの顔が、夕焼けよりも赤く染まる。
彼女は科学者であり、合理主義者であり、非論理的な家族ごっこを否定し続けてきた。だが、かつて自分を愛してくれたケンジとアリアの娘から、そして今この世界で自分を慕う竜人の娘から放たれたその言葉は、彼女の論理防壁を粉々に粉砕した。
「……ッ!私は、お母様ではないッ!!」
エラーラは裏返った声で叫び、アスナを抱きしめ返しながら、王都中に響く声で宣言した。
「私は!世界征服を成し遂げた、最強の妻!エラーラ・ヴェリタスだッ!」
二人は絡み合ったまま、流星のように地上へ落下した。
ドカーーーーーーン!!
映画館前の広場に、二度目の、そしてとどめのクレーターが出来上がった。
もうもうと立ち込める土煙。
その中から、ボロボロになったエラーラと、満足げに気絶しているアスナ、そして彼女たちを呆れながらも温かく迎えるナラティブ、アリシア、グリッチ、リウ、ルルの姿があった。
これが……大団円だ。
ハママツは涙を拭い、安堵のため息をついた。世界は続く。この騒がしくて愛おしい茶番は、誰にも壊せない。
「……あ、あのー」
そこへ、カレル警部とゴウが、一枚の請求書を持って恐る恐る近づいてきた。
カレルの手は震えている。
「エラーラくん。……さっきの映画館の賠償と、今の空中戦の被害総額が出たんだがね……」
エラーラが請求書を覗き込む。
そこには『150億クレスト』という、見慣れた、そして懐かしい数字が印字されていた。
「……」
エラーラは、ボロボロの白衣を払い、ニヤリと笑った。
「フム。私の定理通りだねぇ。借金が消滅した瞬間、世界はその空白を埋めるために、新たな百五十億を生成したわけだ。……これはもう、私がこの世界の経済すらも支配しているという証拠だねぇ!」
「違いますわーッ!!」
全員のツッコミが星空に響き渡る。
だが、その声は明るかった。
借金があるということは、明日もまた働かなければならないということだ。明日があるということは、この物語がまだ続くということだ。
エラーラは高らかに笑い、アスナを引きずり、家族たちを引き連れて歩き出した。
目指すはヴェリタス探偵事務所。彼女たちの帰るべき場所。
その背中を、カレルとゴウは呆れ顔で見送り、ハママツは「やれやれ、今夜も店は大忙しだな」と苦笑しながら、店へと戻っていった。
エラーラの、世界征服。
それは、世界中の誰よりも騒がしく、誰よりも愛し合い、そして誰よりも幸せに生きるという、最高にハッピーな征服劇だったのだ。
これが、真理だ!




