定理51:再生する世界(3)
この店に来たあんたに、最初に言っておくことがある。
カウンターの隅に腰を下ろして、俺が今まさに注いだこの琥珀色のグラスを傾ける前に、少しだけ、臆病者の話に付き合ってくれ。
今の店内を見てみな。
戦いの余韻に浸る王都の連中でごった返しているだろう。ジョッキをぶつけ合う音、笑い声、そして魔導蒸気機関の排熱よりも熱い活気が、この狭いバー奥泉を満たしている。
ヴェリタス探偵事務所のあいつらは、今頃スーパーの袋を抱えて家路につき、今夜のハンバーグのために騒がしくやっているはずだ。
エラーラは挽肉の配合比率でナラティブと揉め、アリシアはそれを微笑ましく見守りながらグリッチに味見をさせているだろう。
世界最強の魔導師、最強の戦士、最強の聖女。
彼女たちは今、確かにここで生き、笑い、互いを愛している。彼女たちの絆は今やダイヤモンドよりも硬く、いかなる悲劇も入り込む隙間はない。
あんたも、そしてこの店で祝杯を上げている連中も、それを「当たり前のハッピーエンド」だと信じているだろう。
正義が勝ち、愛が報われ、家族が団欒する。
そんな退屈で、けれど最高に贅沢な物語が、永遠に続くと信じて疑わない。それは正しい。少なくとも、今のこの世界においては、それは絶対的な真理だ。
だがな。
もし、あんたが知らない「別の可能性」があったとしたら、どう思う。
もし、この平和な日常が、たった一つの、けれど決定的なバグの修正によって成り立っている脆い奇跡だとしたら、あんたはまだ、その酒を美味いと思って飲めるか。
俺の頭の中には常に一つの不吉なシミュレーションが走っていた。
もしも、あの狂気の少女、グリッチ・オーディナルがこちらの側に寝返っていなかったら。もしも、彼女が冷たい亡霊のまま消え去っていたら。その時、この家族は今のようには笑っていなかった。エラーラの冷徹な進化と、アリシアの潔癖な保護は、愛し合っているがゆえに正面衝突し、ナラティブはその間で引き裂かれ、血と泥にまみれて絶望していたはずだ。
だが、この世界は変わった。なぜか。その最大の功績を、俺はアスナ・クライフォルトという一人の竜人の娘に捧げたい。
アスナはエラーラたちの天敵として現れ、けれど誰よりも彼女たちを愛し、その不器用な情熱と「生活」という名の暴力で、この世界のトゲをすべて笑いに変えてしまった。彼女の爆発、彼女の空回り、彼女の純粋な恋慕。それら全てが、重苦しい正義の対立を、愛すべき家族のコメディへとデバッグしたんだ。アスナがいてくれたからこそ、彼女たちは一人の不完全な人間として、互いを許し合うことができた。
あんたは不思議に思うだろう。なぜ、ただのバーのマスターが、そんな前の世界の悲劇を、あたかも見てきたかのように語れるのか。なぜ、誰も覚えていないはずの、愛し合うがゆえに殺し合った彼女たちの断絶を、これほどまでに生々しく記憶しているのか。
そう。答えは単純だ。俺が、前の世界で、彼女たちの破滅を一番近くで、最前線の特等席で眺めていた傍観者だったからだ。
俺はかつて、ペン一本で彼女たちの絶望を記事にしていた。エラーラの狂気を書き、ナラティブの孤高を書き、アリシアの独裁を記録した。
俺は自分を真実の観測者だと思い込み、安全な場所から彼女たちの自滅を眺めていた。だが、それは傲慢だった。俺は彼女たちが飢えていることに気づかず、彼女たちが愛を求めて泣いていることに手を差し伸べず、ただ、ペンを走らせていた。
最前線にいながら、俺は彼女たちの痛みから逃げていたんだ。
俺はその無力な自分を、今でも恥じている。
だから、このデバッグされた新しい世界で、俺はペンを捨てた。記録者であることをやめ、当事者として彼女たちの隣に立つことを選んだ。真実を綴る代わりに、俺は今、シェイカーとフライパンを握り、彼女たちの胃袋と喉を潤している。
傍観者だった俺は、この世界でようやく、彼女たちに生きるための質量を与える料理人になったんだ。
俺が煮込んでいるこのシチューの味は、俺が流した悔し涙の味だ。
俺が焼いているこの肉の厚みは、彼女たちが味わえなかった安息の重みだ。
俺はもう、彼女たちを空腹にはさせない。腹が満たされていれば、人は殺し合いを思い留まる。温かい料理があれば、正義の衝突は、一皿のつまみを巡る騒がしい団欒に変わる。
俺が、カウンターの隅でふっと息を吐いた時だった。
カラン、と看板のない店のドアが開いた。勝利に湧く市民たちの喧騒を切り裂くように現れたのは、この店の猥雑な雰囲気にはおよそ不釣り合いな、純白のドレスを纏った女性だった。
アリシア・ヴェリタス。
戦いの中心にいたはずの彼女が一人で、しかもこのような時間帯にバーへ現れるなど、前代未聞の事態だった。彼女はどこか重い足取りで、酔客たちを避けるようにカウンターの端に座った。
「いらっしゃいませ。アリシア様。お一人とは珍しい」
俺がそう声をかけると、彼女は少しだけ困ったように微笑んだ。
「ええ。柄にもないことをしたくなりますのよ、たまには。ハママツ様、強いお酒をいただけますか?喉を焼くような、わたくしの甘さを焼き払うような、そんなお酒を」
彼女の注文は、いつも頼む温かな紅茶とは正反対だった。俺は黙って、琥珀色のハード・リカーをグラスに注いだ。アリシアはそれを一口啜ると、遠くを見つめるような瞳で語り始めた。
「平和というのは、なんと脆いものでしょう。わたくしがどれほど愛を注いでも、届かない場所は必ずありますわ。時折、不安になりますの。わたくしの掲げるこの愛は、本当は……誰も救っていないのではないかと」
俺の背筋に、冷たい汗が流れた。この言い回し、この眼差し。俺の記憶にある独裁者アリシアの影が、彼女の言葉の端々に滲んでいた。やはり、彼女はまた人間性を捨てて、世界を保護するために、今の平和を破壊しようとしているのか。俺はグラスを磨く手に力を込め、身構えた。
だが、彼女は次に、予想外の言葉を口にした。
「……ハママツ様。わたくし、先程から気になっていたのですが。他のお客様が召し上がっている、あの真っ赤な煮込み料理……『煉獄のモツ煮込み』というのは、どのような味がしますの?」
アリシアは、子供のように目を輝かせて、隣の客が汗をかきながら食べている皿を指差した。
その表情には、世界を支配する女王の憂いなど微塵もなかった。ただ、まだ見ぬ未知の体験に胸を躍らせる、一人の少女の優しい笑顔があった。
俺は安堵のあまり、膝の力が抜けそうになるのを必死で堪えた。彼女は生きている。前の世界のような観念の化身ではない。この世界の空気を取り込み、腹を空かせ、新しい味に怯えながらも手を伸ばそうとしている。それだけで十分だった。
この世界は、必ずハッピーエンドになる。俺は確信した。
激辛の煮込みを前に、アリシアは暴力的な香りだとはしゃぎながら、不器用な手付きでスプーンを動かした。そして一口食べて顔を真っ赤にし、水をがぶ飲みしながらも、楽しそうに笑った。一頻り食べ終えた彼女は、汗を拭いながら、俺をまっすぐに見つめた。
「……ハママツ様。わたくしも、知っていますのよ。『前の世界』の終わり方を。壊れた世界のやりなおし方も」
心臓が止まるかと思った。彼女は優雅に唇を拭い、驚愕の事実を口にした。
「……何だって?」
「難しいことではありませんわ。ただ、目の前を視ること。それだけですの。エラーラおかあさまは学を押し付け、ナラティブは武を証明しようとし、わたくしは愛で全てを包もうとした。けれど、それはどれも自分の理想を相手に押し付けていただけだったのです。大切なのは、自分勝手な思い込みを捨てて、ただ、眼の前の相手を、世界を、そのまま視ること」
アリシアは、満足げに空になった皿を見つめた。
「グリッチさんが狂気でかき乱してくれるおかげで、わたくしたちは理想に凝り固まらずに済みますわ。そして、アスナさんがいてくれるから……わたくしたちはようやく、自分の外側にある世界そのものを、守るべき対象としてではなく、共に生きる隣人として視ることができるようになったのです」
俺は、アスナという存在の本当の意味を理解した。彼女は単なる救済のアイコンではない。女神たちが自分の殻を破り、ただの人間として目の前の一人を愛するために、創造主が遣わした世界の体現そのものだったのだ。
アリシアが満足げに店を去った直後、入れ替わるように再びドアが開いた。
現れたのは、規制局の制服を崩して着こなした竜人の娘、アスナ・クライフォルトだった。
戦いの後始末を終えたのか、その顔には疲労と達成感が滲んでいる。だが今夜の彼女は一人ではなかった。彼女の両脇には、スーパーの袋を持ったままの、穏やかな笑みを浮かべた人間の夫婦が寄り添っていた。
「あ、マスター!まだ開いていますわよね? 今日は両親を連れてきましたの。こちらがケンジ・クライフォルト。私のお父様ですわ。それからこちらがアリア・クライフォルト。私のお母様ですわ」
アスナは竜人であり、両親は人間。彼女がこの夫婦の養子であることは一目瞭然だったが、その空気は血の繋がりを超えた本物の家族そのものだった。店内が混み合っているため、彼らはカウンターの隅、俺の目の前の席に陣取った。
「お父様、お母様。実は……私、好きな人ができましたの」
アスナは顔を赤らめ、注文したカクテルの勢いを借りるように切り出した。夫婦は驚きつつも、温かな眼差しで娘の言葉を待った。
「その方は……科学者で、元騎士で、今は一応探偵をやっていて、褐色の肌で、いつも煤けた白衣を着ていて……。とても不器用で非論理的なことばかり言いますけれど、誰よりも真実を追い求めている、最高に素敵な方なんですのよ」
アスナが語る好きな人の人物像を聞き、夫婦の顔色が微かに変わった。何かに、魂の奥底にある古い記憶、あるいは別の世界線の残響が触れたような表情だった。
「……その方の、お名前を聞いてもいいかな、アスナ」
ケンジが静かに問いかけると、アスナは誇らしげに答えた。
「エラーラ・ヴェリタスさん。……いつか、お二人に紹介したいですわ」
「エラーラ・ヴェリタス……」
アリアがその名を繰り返した。二人は顔を見合わせ、首を横に振った。
「……不思議ね。そんな素晴らしい方に会った覚えはないのだけれど。けれど、なぜかしら。その名を聞くだけで、とても懐かしくて、胸が締め付けられるほど誇らしい気持ちになるのよ」
二人の魂は、前の世界で愛した彼女のことを、確かに覚えていた。会ったことはなくても、その名は彼らにとっての光だったからだ。前の世界でエラーラを愛し、守ろうとした記憶が、次元を超えて彼らの中に息づいている。
俺はカウンターの向こうで、胸が熱くなるのを感じた。かつての世界では、エラーラは仲間から深く愛され、敵からは激しく憎まれていた。彼女を愛したケンジとアリア。この世界では、かつての仲間の愛を継承したアスナが、敵の立場でありながら、誰よりもエラーラを愛している。愛のベクトルの反転。そして、過去の絆の継承。アリシアが言ったやり直し方が、ここにもあった。
「……ふっ」
俺は思わず笑い声を漏らした。前の世界を救う鍵が、よもや、酒を飲んで顔を赤くし、時折恥ずかしさで火を吹いてはカウンターを焦がす、このぽっちゃり気味の竜人の娘だったとは。
「マスター、何がおかしいんですの! 真面目な話をしているのに失礼ですわよ!」
「いや、失礼。……いい変数だと思っただけですよ、アスナ様。この世界をハッピーエンドにするための、最高に愛おしい、計算外の変数だ」
俺の笑みは、深い愛と全肯定に満ちていた。夫婦が娘を優しく見守り、アスナが幸せそうにエラーラのことを語り続ける。その光景こそが、俺がかつて夢見た、救済の終着駅だった。
この世界は、もう絶対に壊れない。エラーラ、ナラティブ、アリシア……そして愛娘アスナ。あいつらが笑って飯を食っている限り、俺の、いや、俺たちのハッピーエンドは不滅だ。
俺の名は、ハママツ。
そして、かつて世界が壊れる音を記事に書いた男。……ギデオン・ヴァンツだ。
さあ、話は終わりだ。料理が冷める前に、さっさと食っちまいな。この一皿の料理こそが、キミたちが勝ち取った、血の通ったハッピーエンドの味なんだからな。




