定理3:命のシステムを壊したい!(前編)
リメイク元
「ナラティブ・ヴェリタス」死とは何か
「ヴェリタスの天秤」第8章:ヴェリタスの天秤2 愛を知る者
「約束とは、絶望を分母とし、愛を分子とした極限値である」
王都の夏は、蒸気機関の排熱と魔法的な異常気象が混ざり合い、不快指数がカンストする季節だ。
特に今日は酷い。王都全域で大規模な停電が発生していた。
「……暑い。論理的に考えて、室温35度は私の脳細胞の活動限界を超えているよ」
ヴェリタス探偵事務所のリビング。
私は白衣を脱ぎ捨て、キャミソール姿でソファに伸びていた。エアコン代わりの冷却精霊も、魔力供給が止まって沈黙している。
ナラティブは暑さで機能停止しており、床に大の字になってピクリとも動かない。アリシアだけが涼しい顔で、溶けかけの氷をタオルに包み、私の額に乗せてくれている。
「おかあさま、じっとしていてくださいな。動くと余計な熱エネルギーが発生します」
「……アリシア君。私の計算では、この停電の原因は老朽化した送電魔法陣のバグだ。誰かが直しに行かねばならない」
「いけません。外は40度を超えています。干物になりますわよ」
そんな気怠い午後。
部屋の隅で、奇妙な音が響いていた。
『……ピ、ガガ……システム、更新中……再起動、待機……』
グリッチだ。
彼女は部屋の隅で膝を抱え、体育座りのままフリーズしていた。
彼女の全身に張り巡らされたセンサーのLEDが、不規則に明滅している。
普段なら「お姉ちゃん暑いね! 一緒に冷蔵庫入ろう!」と絡んでくるはずの彼女が、今日は朝から一言も発していない。
「……グリッチの様子がおかしいね」
「暑さでオーバーヒートしたのかしら? グリッチさん、高性能すぎて排熱が追いつかないみたいですし」
アリシアが心配そうにグリッチの頬に触れる。
冷たい。
今の彼女の体温は、氷のように冷え切っていた。
「……夢を見ているのかもしれないね」
私は、動かない彼女の白髪をそっと撫でた。
狂気の人。最強の矛。
一度死んで、蘇ったと言われる彼女。
その頭脳の中で、今、どんな過去が再生されているのか。
私には知る由もなかった。
――ここからは、彼女の夢。
あるいは、削除されるはずだった「記録」の断片。
場所は、王立魔導研究所。
真っ白な壁。清潔な薬品の匂い。窓から差し込む、希望に満ちた陽光。
まだ世界が美しく、未来が輝いていた頃の記憶。
「エラーラお姉ちゃん! 見て見て、この数式!」
12歳のグリッチ――当時はまだ、ただの「天才児」だった少女が、羊皮紙を抱えて走ってくる。
白色の髪が、陽光を受けてキラキラと輝いている。
「ん? どれどれ……。ほう! 魔力循環の効率化コードか。凄いじゃないかグリッチ。これなら私の理論を10年は短縮できるよ」
当時の私は、今よりもずっと鋭く、そして若かった。
私はグリッチの頭を撫でる。
彼女にとって、その掌の温もりだけが世界の全てだった。
「えへへ……。私ね、お姉ちゃんの役に立ちたいの。世界一の助手になりたいの!」
「助手?謙遜するなよ。君はいずれ私を超える。……君は、私の誇りだ」
幸せだった。
研究室の片隅で、二人で珈琲を飲み、ドーナツを半分こして、未来の話をした。
世界を良くしよう。
病気をなくそう。
悲しみを計算式で消し去ろう。
ある日。
グリッチは、隠し持っていた「銀の指輪」を私に渡した。
おもちゃのような、安い指輪。
でも、彼女にとっては全財産をはたいて買った宝物。
「あのね、お姉ちゃん。……大きくなったら、私と結婚してくれますか?」
真っ赤な顔で、震えながらのプロポーズ。
私は驚き、そして笑って、泣いた。
「……バカだね、君は。私なんかでいいのかい?」
「お姉ちゃんがいいの! 世界で一番大好き!」
「ああ。……私もだよ」
私は指輪を受け取った。
……でも、指にはめなかった。
「この指輪は、まだ早い。……私たちが世界を救う研究を完成させたら。その時に、一番綺麗な場所でつけよう」
「うん! 約束だよ!」
指切りをした。
その約束が、彼女を縛る鎖になるとは知らずに。
そして、運命の日が訪れる。
王都の地下深くに眠る「龍脈制御炉」。
老朽化した旧時代の遺物が、突如として臨界点を超えた。
警報音が鳴り響く。
所員たちが逃げ惑う中、私とグリッチだけが制御室に残った。
「ダメだ! 制御できない! このままでは王都が消滅する!」
黒い泥のような高濃度の魔力汚染物質が、パイプから噴き出していた。
触れれば存在ごと消滅する「虚無」の奔流。
それを止めるための手動バルブは、汚染エリアの最深部にあった。
「……お姉ちゃん」
グリッチが、防護服も着ずに立ち上がった。
「グリッチ!? 何をしている、逃げるんだ!」
「ううん。……私が、行く」
彼女は、恐怖で震える足を押さえつけ、私に微笑みかけた。
「私の演算なら、汚染が広がる前にバルブを閉められる。……私しか、できない」
「バカなことを言うな! 死ぬぞ!?」
「死なないよ。……約束、したもん」
彼女は走り出した。
私の制止を振り切り、黒い泥の中へと飛び込んでいった。
モニター越しに見る彼女の姿は、小さくて、頼りなくて。
でも、彼女は成し遂げた。
泥に焼かれ、皮膚がただれながらも、彼女はバルブを回しきったのだ。
『……閉めたよ、お姉ちゃん』
通信機から、ノイズ混じりの声が届く。
炉心の暴走が止まる。
だが、溢れ出した汚染物質が、彼女のいる区画を完全に満たそうとしていた。
今すぐ、緊急隔壁を閉めなければならない。
閉めなければ、汚染が漏れ出し、世界が終わる。
閉めれば――グリッチは、助からない。
「……っ、う、あああああ……ッ!!」
私は、レバーを握りしめた。
科学者としての理性が叫ぶ。世界を救えと。
姉としての感情が叫ぶ。彼女を殺すなと。
『お姉ちゃん。……閉めて』
グリッチの声がした。
『私、世界を救えたよね? ……お姉ちゃんの役に、立てたよね?』
「グリッチ……! すまない……! すまない……ッ!」
私は、泣きながらレバーを引いた。
分厚い隔壁が、音を立てて落下する。
ガラスの向こう。
黒い泥に飲み込まれながら、グリッチが私を見ていた。
彼女は、笑っていた。
そして、口元を動かした。
『大好きだよ』
ドォォォォン……!
隔壁が閉鎖された。
私は、世界を救った。
最愛の妹分を、永遠の闇に閉じ込めることと引き換えに。
ここまでは、美しい悲劇だ。
だが、グリッチの記憶は、ここでは終わらない。
ここからが、本当の地獄であり、奇跡の始まりだった。
閉ざされた炉心の内部。
そこは、時間も空間も意味をなさない「事象の地平線」の内側。
肉体は瞬時に分解され、魂すらも摩耗していく絶対的な「無」。
本来なら、グリッチ・オーディナルという存在は、そこで完全に消滅するはずだった。
だが。
(……痛い)
(……熱い)
(……寒い)
彼女は、消えなかった。
彼女の「執着」が、物理法則を凌駕していたからだ。
(まだ、死ねない)
(約束したもん)
(結婚するって。一緒になるって)
(お姉ちゃんが、褒めてくれたもん)
黒い泥の中で、グリッチの自我データが変質していく。
人間としての構造を捨て、汚染物質そのものと同化し、環境に適応していく。
彼女の演算能力が、暴走する炉心のエネルギーを逆流させ、自らの生命維持リソースへと変換する。
(愛してる)
(愛してる)
(愛してる)
(……なんで閉めたの?)
(……なんで助けてくれなかったの?)
(……愛してる)
(……殺してやる)
愛と憎悪。
希望と絶望。
相反する感情が、無限回のループを起こし、彼女の魂を強固な「バグ」へと書き換えていく。
そして、彼女は気付いた。
炉心の底に、キラリと光るものが落ちているのを。
それは、私が持っていたはずの「銀の指輪」だった。
あの日、私が胸ポケットに入れていた指輪が、隔壁が閉まる瞬間の衝撃で、こちら側に落ちていたのだ。
グリッチは、泥のような手で、それを拾い上げた。
(……あ)
(お姉ちゃん、忘れてる)
(大事なものなのに。忘れん坊だなぁ)
彼女は、肉が溶け落ちて骨だけになった薬指に、その指輪をはめた。
(……いいよ)
(私が、届けに行くね)
(地獄の底から這い上がってでも)
(この指輪を叩きつけて、結婚を迫ってやるんだから)
カッッッッ!!
炉心の内部で、あり得ない色の光が爆発した。
それは、魔法でも科学でもない。
システムのエラーが引き起こした、事象の書き換え。
「死んだ」という事実を、「まだ死んでいない」という結果で上書きする、禁断の論理。
彼女は、自らを再定義した。
人間ではなく、世界そのものを蝕む「愛という名のウイルス」として。
「……ハッ!」
現在。ヴェリタス探偵事務所。
停電中の蒸し暑い部屋で、グリッチが弾かれたように顔を上げた。
彼女の瞳孔が、収縮する。
全身のLEDが一斉に赤く輝き、そして緑色へと安定する。
「……あー、よく寝た!」
グリッチは立ち上がり、大きく伸びをした。
その瞬間。
バチンッ!!
事務所の照明が一斉に点灯し、エアコンが唸りを上げて冷気を吐き出し始めた。
それどころか、窓の外の街区一帯の電気が復旧し、街の灯りが戻っていく。
「……あれ? 電気がつきましたわ」
「おや、復旧したのか。助かったよ」
私は氷枕を外し、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。
グリッチが、ニコニコしながら私に近づいてくる。
彼女の手には、何もない。
けれど、私には見えた気がした。
彼女の左手の薬指に、存在しないはずの「銀色のノイズ」が揺らめいているのが。
「お姉ちゃん! おはよー!」
「おはよう、グリッチ。随分と長いフリーズだったねぇ」
「うん! ちょっとね、地獄の底まで散歩に行ってたの!」
彼女は私の背中に抱きつき、全体重を預けてくる。
その体温は、もう冷たくない。
炉心の熱よりも熱い、狂気じみた体温が、私の背中を焼くようだ。
「お姉ちゃん。……私、帰ってきたよ?」
「ああ、おかえり。……どこにも行ってないだろうに」
「ううん。帰ってきたの」
彼女は、私の首筋に顔を埋め、小さく囁いた。
誰にも聞こえない声で。
「……今度こそ、絶対に逃がさないからね」
彼女が最強である理由。
それは、彼女が「死」というシステムすらハッキングし、地獄を燃料に変えて帰還した、世界で唯一の「生存するバグ」だからだ。




