定理49:再生する世界(1)
●リメイク元
「エラーラ・ヴェリタス」愛は銀幕を超えて
「ナラティブ・ヴェリタス」文脈の破壊者
「ナラティブ・ヴェリタス」壊れた世界のやりなおし方
「アリシア・ヴェリタス」希望を知る者
「観測者がいなければ、世界は確定しない。当事者がいなければ、世界は消滅する。だから、生きている限り、死ぬことは論理的に許されない」
かつて。
どこかの世界の、いつかの時代。
北の都、凍てつく冬。
私は建屋の屋上のフェンスを乗り越え、木枯らしの中に立っていた。
なぜ、私がここにいるのか。その答えは、私の身体に刻まれた無数の「傷跡」が知っていた。
私の両親は、聖人だった。
彼らは街で最も有名な人権団体の協賛者であり、恵まれない子供たちのために多額の寄付を行い、慈愛に満ちた笑顔で「命の尊さ」を説いていた。
だが、その仮面の下にあったのは、純粋培養された「加虐の怪物」だった。
「お前は、私たちの正しさを証明するための生贄だ」
密室の地下室。
冷たい鎖。
「死にたい」と、私は何度願っただろうか。
一度、耐えかねてその言葉を口にした時、父は凍りつくような笑顔でこう言った。
「そうか。なら、そうしてあげよう」
そこから始まったのは、殺すための暴力ではなく、「死ぬまで終わらない」拷問だった。
「やめて、……やめてください!」
泣き叫び、懇願した私を、母は汚いものを見るような目で蔑んだ。
「あら。さっきは死にたいと言ったくせに。まだ生きたいんじゃない。嘘をついたわね、この悪い子は。……嘘つきには、お仕置きが必要だわ」
絶望。
助けを求めた言葉は「生への執着」と断じられ、死を望んだ言葉は「親への反抗」と見なされた。
何を選んでも、何を言っても、そこには暴力という名の「正解」しかなかった。
外では人権を語り、家では我が子の尊厳を紙屑のように切り刻む両親。
その徹底的な「偽善」と「矛盾」こそが、私の脳を、魂を、救いようのないほどに破壊したのだ。
だから、私は屋上に立った。
「もう、いいよね」
私は誰にともなく呟いた。どうせ、私が消えたところで世界は一ミリも動かない。明日の朝、雪の上に赤い染みができるだけだ。それも昼には新しい雪で隠される。
私は、重力に身を委ねた。
落下する浮遊感。走馬灯のように巡る記憶は、どれも真っ黒で、吐き気がするほど醜悪だった。
だが、地面に激突する寸前。世界が、裏返った。
石畳の硬さの代わりに私を受け止めたのは、極彩色のノイズと、無限に広がる「情報の海」だった。
走馬灯のノイズが混線したのか、あるいは私の脳が最期に見せた狂気か。私は、未来か、もしくは過去の光景を見た。
その世界は、燃えていた。
瓦礫の山と、血の海で殺し合う三人の女性たち。
銀髪の魔導師エラーラ。
黒髪の戦士ナラティブ。
金髪の聖女アリシア。
彼女たちは、互いを深く愛していた。愛しすぎていた。けれど、その愛の形が歪んでいた。エラーラは論理で救おうとし、ナラティブは力で守ろうとし、アリシアは管理で縛ろうとした。
結果、彼女たちは擦れ違い、疑心暗鬼に陥り、世界を救うはずの力が互いを殺す刃となって、全員が死亡するという最悪のバッドエンドを迎えていたのだ。
「……なんてこと!」
私は、自分の死など忘れて、その悲劇に見入ってしまった。
彼女たちの魂が、悔恨と未練を残したまま、次元の狭間を漂っているのが見えた。
エラーラの魂が泣いている。
「計算を間違えた」と。
ナラティブの魂が叫んでいる。
「守れなかった」と。
アリシアの魂が震えている。
「愛が届かなかった」と。
あまりにも救いがない。あまりにも悲しい。私と同じだ。誰にも理解されず、無意味に消えていく命。
私は、自分の魂に残っていたわずかな「命の灯火」を、手のひらに集めた。どうせ私はここで終わる命だ。この世界に未練はない。ならば、せめてこの残りカスのようなエネルギーを、彼女たちにあげよう。
「ねえ、そこの三人」
私は次元の狭間で、漂う三つの魂に話しかけた。
「これ。もうさ……あげるよ。私の命の全部だ。これがあれば、時間は巻き戻せるかもしれない。やり直せるかもしれない。私はもういらないから、あなたたちが幸せになりなさいよ」
それは、完全なる自己犠牲であり、あるいは世界への最後の捨て台詞だった。私はエネルギーを放出した。光が彼女たちを包み込む。これで終わりだ。私は消滅し、彼女たちは復活する。知らない世界で、勝手にハッピーエンドを迎えてくれればいい。
そう思って目を閉じた、その時だった。
「……フム。計算が合わないねぇ!」
聞き覚えのある、ハスキーで傲慢な声が響いた。
ガシッ、と。消えかけていた私の腕を、冷たくて温かい手が掴んだ。
目を開けると、そこには、血まみれの白衣を纏った銀髪の魔導師、エラーラ・ヴェリタスがいた。彼女の背後には、ボロボロのドレススーツを着たナラティブと、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたアリシアが立っていた。
彼女たちは、私が渡したエネルギーを使って蘇ったのではない。そのエネルギーを使って、実体化し、なんと、私を「捕まえた」のだ。
「な、何してるのよ!放して!私は死ぬんだから!」
私は叫んだ。
「あんたたちにあげたんだよ!それを使って生き返りなさいよ!私はもう、痛いのも辛いのも嫌なんだよ!」
「お断りですわ!」
ナラティブが叫び返した。彼女は私のもう片方の腕を掴み、鬼のような形相で睨みつけてきた。
「あんたね、自分の命をなんだと思っているの!ゴミみたいに投げ捨てるなんて、あたしが許しませんわ!なによりね、他人を救って自分だけ格好良く消えようなんて、美学に反しますわ!」
「……あなたがいなくなったら、誰がわたくしたちを観測するのですか!」
アリシアが私の腰に抱きつき、子供のように泣きじゃくった。
「はああああ?……あんたたち、意味がわからない!私はゴミなんだよ!親からも、社会からも、世界中からいらないって言われたんだよ!居場所なんてないんだよ!」
私は暴れた。半透明の霊体のような状態で、必死に彼女たちを振りほどこうとした。私の人生は地獄だった。希望なんて猛毒だ。
今さら「生きろ」なんて、最大の拷問でしかない。
「お願いだから死なせてよ!どうしてあんたたちなんかに邪魔されなきゃならないの!私はただ、静かに消えたいだけなのに!」
「駄目だよ」
エラーラが、私の顔を両手で挟み込み、無理やり視線を合わせた。
彼女の瞳は、燃えるような青色だった。
彼女は、自分の存在を維持するだけでも精一杯のはずなのに、逆に、その全リソースを割いて、私という他人の命を繋ぎ止めようとしていた。
「君は、私たちの『バッドエンド』を見て、泣いていただろう」
「……え?」
「自分の命が尽きるその瞬間に、赤の他人である私たちの不幸を嘆き、あまつさえ……自分の残りの命を譲ろうとした。……そんな非論理的な優しさを持つ人間が、ゴミであるはずがない!」
エラーラの言葉は、論理的で、冷徹で、けれどマグマのような熱を帯びていた。
「君の世界が君を否定したのなら、その世界が間違っているのだ。君の親も、友人も、社会も、すべてが狂っている。……だが、私は間違えない」
エラーラの手が震えていた。彼女もまた、並行世界での殺し合いという地獄を見てきたのだ。孤独と絶望の味を知っているのだ。
「私には、君が必要だ。君という新たなる観測者がいなければ、私たちはまた同じ過ちを繰り返す。君が笑って見ていてくれなければ、私たちのハッピーエンドは確定しないんだ!」
自分だって消えそうなのに。
自分だって、一番辛いはずなのに。
なんで、こんなゴミみたいな私の心配なんてしてるのよ。
なんなんだよ。
一体なんだっていうんだよ。
あんたは、自分のことだけやっていればいいんだよ。
私に、優しくするな。
私は、優しくされたかった。
私を、助けるな。
私は、助かりたかった。
私が、私を、助けたかった。
私は…………。
私の胸に、熱い塊がこみ上げていた。
それは、今まで誰からも向けられたことのない「純粋な関心」だった。
殴るためでも、利用するためでもない。ただ、私という存在を必要としてくれる、不器用で、傲慢で、温かい眼差し。
……そうか。
私は、こういう人が欲しかったんだ。
私の痛みを、自分のことみたいに怒ってくれる。私の命を、自分の命よりも大事にしてくれる。
もし、こんな人が「お母さん」だったら、私の人生は地獄じゃなかったかもしれない。
「……ねえ、エラーラ」
私は震える声で言った。
「あんたさ……いやなに、その……私のお母さんに……なってよ……」
時が止まった。
ナラティブとアリシアが顔を見合わせ、クスクスと笑った。
だが、エラーラだけは、その青い瞳をすっと細め、傷つけないように、悪戯っぽく言い放った。
「やーだねっ!」
「えぇ……」
エラーラの手が、私の頬から離れた。
彼女は、私を抱きしめるのではなく、突き飛ばすように距離を取った。
「私が君の母親?非論理的だよ。君のような泣き虫を養う趣味はないよ?」
「な、なんでぇ?さっきまで『君が必要だ』って言ったじゃない!」
「必要だとは言ったが、なにも、家族にするとは言っていない。……なんだい?君は、私に養われたいのかい?」
エラーラの視線が、鋭い刃物のように私を貫いた。
「そんな甘ったれた根性では、私のいた世界では一秒も生きられないよ」
「……ッ!」
拒絶された。
せっかく見つけた光なのに。せっかく手を伸ばしたのに。
この人もまた、私を捨てるのか。
絶望が怒りに変わり、そして歪んだ執着へと変貌していく。
「ふ……ふざけんじゃないわよ!なによ、その言い草!」
私は叫んだ。涙が溢れて止まらない。
「あんたなんか、大っ嫌い!優しくしたくせに! 期待させたくせに!なんで、なんでこんな絶体絶命の時に突き放してくるのよ!嫌い!嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い!」
「ああ、嫌いで上等だ!さあ、私を憎め!私に反発しろ!その怒りこそが、君を死の淵から引きずり戻すエネルギーになる!」
エラーラはニヤリと笑った。それは、どこまでも私を試すような挑戦的な笑みだった。
「君は若くして死のうとした。だから、君が私にくれた命を、10倍、いや、100倍にして返却して、誰よりも長く生きる寿命を与えよう」
エラーラの指先が光る。
「君は力を持たず、誰にも守られなかった。だから、ナラティブの如き強靭な肉体と破壊力を与えよう」
ナラティブが鉄扇を掲げ、その力を注ぎ込む。
「君は規則に縛られ、愛に飢えていた。だから、アリシアの如き厳格な規律と、溢れんばかりの愛を与えよう」
アリシアが祈りを捧げ、その魂を重ねる。
光が強くなる。私の身体が、魂の形に合わせて作り変えられていく。
脆い人間の殻を脱ぎ捨て、強靭な鱗と、真実を見通す瞳と、そして何よりも誇り高い「意思」を持つ姿へ。
「そうして……君は、私の敵になるのだ」
エラーラは最後にそう告げた。
「私を監視し、私を縛り、私の暴走を止める『壁』になれ。私の家族になりたいなどと寝言を言う暇があるなら、私を屈服させてみせろ!私が君を認めるまで、君は一生、私の敵として生き続けるんだ!」
「な、なななな……なんなのよ!一体何なのよ、あんたは!」
「ただし!……君を殺そうとした理不尽なシステム。それを私が根底から破壊し、再構築する。……死ぬ暇など、一秒も与えないぞ」
「……上等じゃない!」
私は歯を食いしばり、涙を拭った。
もう、泣かない。もう、死にたいなんて言わない。
この傲慢で、勝手で、でも誰よりも優しいこの魔導師を、絶対に認めさせてやる。
あんたが私を突き放すなら、私はあんたを追いかけ回してやる。
あんたが世界を壊そうとするなら、私が全力で止めてやる。
そしていつか必ず、あんたの口から「参りました」って言わせてやるんだから!
光が見えてきた。
「次の世界へ行ってきます。……私の、大嫌いで、大好きな魔導師様!」
意識がホワイトアウトする。
次に目覚めた場所は、木枯らしの吹く建屋の屋上ではなかった。
規律と秩序が支配する、冷たい官庁街のベッドの上だ。
こうして、観測者の私は、一人の「最強の天敵」という当事者として、王都に産声を上げたのである。
それから数年後。
王都魔導規制局の執務室。
山積みになった書類の向こうで、ヒールの音を響かせて歩く一人の女性官僚がいた。
彼女は立派な角と、知的な眼鏡、そして何よりも太くたくましい竜の尻尾を持っている。
彼女がよく食べるのは、あの日、死にたかった自分の胃袋に、エラーラが「生きろ」という名のカロリーを無理やり詰め込んだからだ。
「……まったく!またエラーラ・ヴェリタスですの!? あの人は、私が目を離すとすぐに世界をバグらせようとするんですから!」
彼女は太い尻尾をバタンバタンと床に打ち付けた。周囲の職員は「また始まった……」と恐れをなして道を空けるが、彼女の表情は怒りながらも、どこか生き生きとしていた。
彼女のデスクの引き出しには、誰も知らない秘密のコレクション――隠し撮りされた銀髪の魔導師のブロマイドが、大切にしまわれている。
「……お腹が空きましたわ。ドーナツを十個買っていきますわよ。……あの方の分も、……毒見という名目で、半分食べて差し上げますから!」
アスナは、高いヒールの音を響かせて歩き出す。
その背中には、かつての絶望の影はない。
ただ、自分を救った「最悪で最高の魔導師」を追いかけ、管理し、そしていつか家族として抱きしめるための、強固な意志が宿っていた。
「待っていてくださいまし、エラーラ。貴方が私を敵と呼ぶなら、私は世界で一番貴方を愛する『敵』になって差し上げますわ。……食べて食べて、私はあの方を管理できるほどに強くなれる。……これが、私のハッピーエンドへの、論理的経路ですわ!」
アスナ・クライフォルトは、眼鏡の位置を正し、大量の請求書を抱えて立ち上がった。
その背中は、かつての死にたがりの「私」ではない。
愛する「敵」を叱るために奔走する、王都で最も忙しく、最も幸せな「娘」の姿だった。




