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ヴェリタスの最終定理 PART4/飛竜の覚醒   作者: ♡Wan Liyue♡
●第11章:再生する世界

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定理48:過去のトラウマを打破したい!(後編)

リニアとプロキシとの決戦から数日。

ヴェリタス探偵事務所は、穏やかな日常を取り戻していた。

だが、その平穏な食卓の中心で、ただ一人、アリシア・ヴェリタスだけが、深淵を覗き込んでいた。


「二年前。……わたくしが、この事務所にいる記憶の、最古の記録」


それ以前がない。

知識としての歴史や一般教養はある。だが、「アリシア個人」としての体験記憶が、二年前を境にプッツリと途絶えているのだ。

エラーラからはこう聞かされていた。「幼い頃に孤児として引き取り、ずっと一緒に暮らしてきたが、二年前の魔法実験の事故で、それ以前の記憶に障害が出ている」と。

これまでは、それを疑いもしなかった。

だが、ナラティブが実の両親と対峙し、過去の呪縛を乗り越えたあの日から、アリシアの中で疑念の種が芽吹き始めていた。

エラーラは、その焦げ目をじっと見つめ、それから心配そうにアリシアの顔を覗き込んだ。


「……最近、様子がおかしいねぇ。計算ミスなんて君らしくない。……何か、悩み事かい?」


その青い瞳。

世界で一番賢くて、世界で一番不器用な、愛する義母の瞳。


『わたくしの記憶は、本当に事故で失われたのですか? それとも……』


アリシアは、喉まで出かかった問いを飲み込み、微笑んだ。

その笑顔が、どこか陶器の人形のように冷たいことに、エラーラは気づいていただろうか。

それとも、気づかないふりをしたのだろうか。


その男が現れたのは、エラーラとナラティブが定期検診で出かけている、留守の午後だった。

事務所には、アリシアと、ソファで昼寝をしているグリッチの二人だけ。


「ごめんください。……美しいお嬢さん」


扉を開けて入ってきたのは、初老の紳士だった。

仕立ての良いスーツ。穏やかな微笑。手には、アリシアが好きそうな紅茶の缶を持っている。


「……どなたですの?」


「……ああ、そうか。忘れているんだったね」


男は、ゆっくりと帽子を取った。

その顔立ちは、アリシアによく似ていた。


「私はモノポ・ガバナンス。君の父親であり……君を心から愛していた者だ」


「ちち……おや……?」


アリシアの頭痛が激しくなる。

ノイズが走る。思い出せない。


「無理もない。エラーラ・ヴェリタス。あの傲慢な魔導師が、君の脳に強力な『記憶消去魔法』をかけたのだからな」


モノポは悲しげに眉を下げた。その表情は、娘を奪われた哀れな父親そのものだった。


「君は知っているかね? 二年前、君がなぜ記憶を失ったかを。……君は誘拐されたんだよ……エラーラに」


「……え?」


「彼女は君を、自分の都合の良い道具にするために、君の過去を奪い、君の家族を奪い、『自分こそが恩人である』という偽りの記憶を植え付けたんだ!」


「う、嘘……おかあさまは、そんな方では……」


「嘘だと思うなら、聞いてみるがいい。彼女は必ず、言葉を濁すはずだ。……さあ、帰ろう。本当の家へ」


モノポの手が、アリシアの震える手に触れる。

記憶がないからこそ、彼女はその言葉を否定できない。


「……ただいま! アリシア、グリッチ! 今帰ったよ!」


タイミング悪く、エラーラとナラティブが帰宅した。

扉を開けた二人は、アリシアの手を握るモノポを見て、即座に戦闘態勢に入った。


「……貴様。モノポ・ガバナンスか」


エラーラの声が、地を這うように低くなる。


「久しぶりだね、『人攫い』のエラーラ」


モノポが不敵に笑う。


「娘を返してもらうよ。君が盗み出し、洗脳した、私の娘をね」


「……盗んだ、ですって?」


ナラティブが吠える。


「お母様がそんなことするはずありませんわ! お母様は、いつだって……!」


「アリシアに聞いてみるがいい」


モノポがアリシアの背後に隠れるように立った。


「彼女は、自分の過去を知りたがっている。……さあ、答えるんだ、エラーラ。君は、彼女の記憶を消したのか?」


アリシアが、縋るような目でエラーラを見た。


「おかあさま、教えてください。……わたくしの記憶がないのは……貴女様が、消したのですか?」


エラーラの足が止まった。

彼女の顔から、血の気が引いていく。

一番恐れていた問い。いつか来ると思っていた断罪の時。

ここで「ノー」と言えば、その場は凌げるかもしれない。

だが、愛する娘に対して、これ以上嘘を重ねることはできなかった。


「……イエスだ。アリシア」


エラーラは、静かに肯定した。


「二年前、私が君の記憶を消した。……君の過去の全データを、削除した」


「……ッ!」


アリシアが息を飲む。

モノポが勝ち誇ったように笑う。


「聞いたかい、アリシア!やはり彼女は魔女だ! 君の人格を殺し、作り変えた張本人だ!」


「違う!私は君を救うために……!」


「救うために?」


アリシアの声が震える。その瞳から、みるみるうちに信頼の色が消え、絶望と不信が満ちていく。


「記憶を、経験を、学びを奪うことが……救いなのですか? ……わたくしが、自分が誰かも分からないまま、貴女様の作った『アリシア』を演じさせられていたことが……救いなのですか!?」


「君は壊れていたんだ!あのままでは君は……!」


「黙りなさいッ!」


アリシアが叫んだ。

フライパンが手から滑り落ち、カランと虚しい音を立てた。


「……痛みも、絶望も、わたくしの人生の一部です!それを勝手に切り取って……!」


「アリシア……!」


「やはり、貴女様は、わたくしを信じてくださらなかった!わたくしが、過去を受け止めて生きる強さを持っているとは、思ってくださらなかった!信頼されていなかった!……それが、何より悲しいですわ!」


アリシアは泣いていた。

だが、その涙は誰にも拭えなかった。

エラーラの論理は完璧だったはずだ。過去を消せば、楽に痛みは消える。楽に幸せになれる。

だが、それは「教育」ではなく「操作」。

……つまり「洗脳」だった。


「……参りましょう、父様」


アリシアは涙を拭い、モノポの方を向いた。


「待ちなさい姉さん! そいつは……!」


ナラティブが止めようとする。

だが、アリシアは冷たい瞳でナラティブを見た。


「……貴女には分からないでしょうね。自分の人生が、誰かの創作物(フィクション)だったと知った時の気持ちなんて」


ナラティブが足を止める。

アリシアは、ドアへと向かう。

そして、ふと足を止め、ソファで呆然としていたグリッチを見た。


「……グリッチさんも、さようなら」


「…………」


グリッチの赤い瞳が揺れた。

彼女はエラーラを見た。世界で一番大好きで、尊敬するお姉ちゃん。

そして、アリシアを見た。今にも壊れそうで、でも必死に立っている、脆い聖女。

エラーラは正しい。論理的に、倫理的に、彼女の行動は「善意」だった。

モノポは間違いなく怪しい。嘘の匂いがする。危険だ。

エラーラの側につくのが、正解だ。

だが。


「……ニシシ」


グリッチは笑った。

彼女はソファから飛び降り、エラーラに背を向けた。


「え?……グリッチ……?」


エラーラが目を見開く。

グリッチは、アリシアの隣に立った。

そして、その小さな手で、アリシアの震える手をギュッと握った。


「……エラーラお姉ちゃんは、私がいなくてもナラちゃんがいるから、倒れないよ。でも、アリシアお姉ちゃんは、今、私がいないと死んじゃう気がする」


狂気ゆえの直感。

グリッチは、「正しさ」よりも目の前の「真実(ヴェリタス)」を選んだ。


「私は、アリシアお姉ちゃんの味方をするよ……!」


三人は、出て行った。

エラーラは、追いかけることができなかった。

自分の犯した「愛という名の罪」の重さに、足を縫い付けられていたからだ。


それから程なくして、世界は二つに割れた。

ヴェリタス探偵事務所から「愛」と「狂気」が消え、残されたのは「学」と「武」だけだった。

エラーラは研究室に引きこもり、ナラティブは焦げたトーストを齧りながら、虚空を見つめる日々。


一方、アリシアたちは、モノポの拠点である巨大企業「ガバナンス・タワー」に入っていた。

モノポはすぐに本性を現した。彼はアリシアを利用しようとしたのだ。

しかし、その目論見は一瞬で崩れ去った。

グリッチがいるからだ。

モノポがアリシアに命令しようとした瞬間、グリッチは笑顔でタワーのメインコンピュータをハッキングし、モノポの全資産を凍結し、ついでに彼のオフィスの酸素濃度を極限まで薄くして脅しあげた。

実の父すらも、グリッチという番犬の前では無力だった。

そして、アリシアは「気づいて」しまった。

父もまた、自分を利用しようとする「他者」でしかないことに。

そして、世界そのものが、互いを傷つけ、利用し合う、欠陥だらけのシステムであることに。

タワーの最上階。アリシアは王都を見下ろしていた。


「エラーラおかあさまは、わたくしを騙しました。モノポお父様は、わたくしを利用しました。……決めましたわ、グリッチさん」


アリシアが振り返る。

その瞳には、かつての慈愛も、先日の迷いもなかった。

あるのは、氷のような決意と、狂気じみた母性。


「世界が間違っているなら、直せばいいのです。……エラーラおかあさまのような『痛みを伴う教育』ではなく、完全なる『保護』によって」


「それって、世界征服ってこと?」


「……ええ」


そして、それから数カ月後。

世界が、止まった。

正午。

王都の街頭モニター、各家庭の魔導端末、スレート、果ては旧式のラジオに至るまで、あらゆる通信機器が同時にジャックされた。

砂嵐のノイズが晴れ、画面に映し出されたのは――。


『ごきげんよう。愛すべき人類の皆様』


純白のドレスを纏い、玉座に座るアリシア・ヴェリタスだった。

彼女は美しかった。

触れれば切れるような神々しさと、冷徹な支配者のオーラ。

その隣には、近衛騎士のようにグリッチが控えている。


『世界は、悲しみに満ちています。……それは皆様が「自由」という名のバグを持っているからです』


アリシアの声は、世界中の人々の脳裏に直接響く。

グリッチが開発した全人類意識共有ネットワーク・システム『ヴェリタスの天秤』による強制介入。


『わたくしは学びました。教育では、人は変わりません。痛みでは、人は分かり合えません。……ならば、わたくしが全てを引き受けましょう』


彼女が手を掲げると、王都の上空に、巨大な魔法陣……いや、科学的に構築された「防衛結界」が展開された。

それは、あらゆる物理的衝撃、あらゆる魔力的攻撃を無効化する、絶対不可侵の檻。


『宣言いたします。……これより、この世界を「ヴェリタス完全管理区」と再定義します』


『もう迷う必要はありません。もう傷つく必要はありません。思考を止め、争いを止め、ただわたくしの愛の中で……永遠に、穏やかに、停止なさい』


画面の中のアリシアが、聖母の微笑みを浮かべる。

それは、かつてエラーラに向けたものと同じ、しかし決定的に異なる、「拒絶」としての笑顔だった。

探偵事務所で、エラーラはその放送を見ていた。


「……『また』、こうなるのか」


エラーラは呻いた。

自分がアリシアにしたこと。


「相手のためを思って、相手の自由を奪う」


その呪われた連鎖が、最悪の形で、世界規模で具現化してしまった。

アリシアは、エラーラを否定しながら、エラーラと同じ……いや、それ以上に過激な「独善」へと走ってしまったのだ。


「痛みを消しても、痛みを思い出しても……君はやはり、何も学ぶ気はないのか、アリシア!」


エラーラが叫んだ。

ドアが開く。

そこには、リウとルルが待っていた。

ナラティブが立ち上がった。


「……行きましょう、お母様。……姉さんを、ぶん殴ってでも連れ戻しますわ!」


エラーラ、ナラティブ、リウ、ルルの四人は、戦場へと向かった。


一方その頃。

要塞「ガバナンス・タワー」の屋上は、成層圏に近い冷気と、暴風に晒されていた。

眼下には、アリシアの展開した「愛の檻」によって時を止められた王都が、まるで琥珀の中の虫のように静止している。

その緊迫した空気を、無粋な笑い声が切り裂いた。


「素晴らしい!実に素晴らしいぞ、アリシア!」


モノポ・ガバナンスだった。

彼は狂喜乱舞しながらアリシアの背後に歩み寄った。


「見たまえ、地上を!これこそが我がガバナンス家の理想とした『究極の管理社会』だ!」


モノポは両手を広げた。


「この世界も、彼女の力も、すべて『親である私の所有物』なのだよ!」


「それは違うよ」


呟いたのは、アリシアの傍らに控えていた、グリッチだ。

彼女は、巨大な対戦車ハンマーを軽々と肩に担ぎ直し、モノポの方へ首を傾げた。


「な、なんだねグリッチ君……」


「システム・エラー検出だよ……」


グリッチの赤い瞳孔が開く。

純粋な殺意。いや、もっと無機質な「削除」の意志。


「まっ、待て!私はアリシアの親だぞ!」


「だから違うって。……アリシアお姉ちゃんの親は、エラーラお姉ちゃんだけだよ」


ドォォォォォォン!!


一撃だった。

グリッチのハンマーが、音速を超えてモノポを叩き潰した。

悲鳴を上げる暇もなかった。かつてアリシアを支配し、壊した男は、肉塊となって吹き飛び、遥か地上の彼方へと消えていった。


「あーあ。……掃除しなきゃ」


グリッチはハンマーについた汚れを、自分の袖で無造作に拭った。


「……野蛮な子ですこと。でも、静かになりましたわ」


アリシアは、振り返りもしなかった。

ただ、紅茶のカップをソーサーに置いた。


「……アリシアッ!」


たったいま「ガバナンス・タワー」に到着したエラーラたちが、一歩、また一歩、アリシアの元へ踏み出した。

風が彼女の白衣を激しく煽る。


「……恨んでいるだろうね。私を」


エラーラの声は、風にかき消されそうなほど微かだったが、確かにアリシアに届いた。


「私は君の記憶を消した。君の人生を、私の都合で改竄した。……君が受けた痛みも、喪失も、君が乗り越えるべき試練だったのに。私はそれを『可哀想だから』という独善で奪い去った」


エラーラは拳を握りしめた。爪が食い込む。


「それは、君の人格への殺人だった。……許されるとは思っていない」


沈黙が落ちた。

アリシアはゆっくりと階段を降り、エラーラと同じ高さに立った。

その瞳は、かつてないほど澄んでいて、そして悲しいほどに優しかった。


「……ええ。おかあさまは、『また』傲慢でしたわね」


アリシアが口を開く。


「わたくしの過去を奪い、わたくしが友を想って泣く権利さえも奪いました。……それは、決して許されない罪です」


「ああ……」


「でも」


アリシアは、ふわりと微笑んだ。


「わたくしは、許しますわ。……その『記憶消去』という罪だけは」


エラーラが顔を上げる。


「……な、ぜだ……?」


「なぜなら」


アリシアは両手を広げ、眼下に広がる「静止した世界」を示した。


「今のわたくしには、分かるからです。……貴女様があの日、どうしてあんなことをしたのか」


アリシアの声に、熱が帯びる。


「貴女様は、耐えられなかったのでしょう?愛する親友が次々に事故死して、わたくしが、傷つき、壊れていく姿を見ることに。……だから、わたくしの心を殺してでも、わたくしの『平穏』を守ろうとした」


「……っ!」


「今のわたくしと、同じですわ」


アリシアは、自らの胸に手を当てた。


「わたくしも、耐えられないのです。……おかあさまが、苦しむのを」


彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


「だから、わたくしは世界を止めました。……自由を奪い、未来を奪い、可能性を殺してでも。……おかあさまたちを、永遠に『保護』するために」


エラーラの喉が詰まる。

突きつけられたのは、鏡合わせの絶望だった。

かつてエラーラがアリシアに行った「個人の記憶消去」という過保護。

今、アリシアが行っている「世界の時間の凍結」という過保護。

規模が違うだけで、根源にあるのは同じものだ。

『愛するがゆえに、相手の痛みを許容できない弱さ』。


「皮肉なものですわね。……わたくしは、貴女様の罪を知ったからこそ、貴女様の愛の深さを理解し……そして、この『独裁』こそが『やはり』正解なのだと確信しましたの」


アリシアは、そっと手を差し伸べた。

エラーラの頬に触れる。その手は、冷たくて、温かい。


「ですから、許しますわ。……貴女様がわたくしの過去を消したように、『今度も』わたくしが、貴女様の未来を消して差し上げます。……痛みも、苦しみもない、永遠の中で眠りなさいませ」


それは、究極の赦しであり、断絶宣言だった。

エラーラの目から、涙が溢れた。

それは安堵の涙ではない。

自分の蒔いた種が、『またしても』こんなにも美しく、歪んだ大樹に育ってしまったことへの慟哭だった。


「……ありがとう、アリシア。私を許してくれて」


エラーラは、アリシアの手を、自分の頬から優しく、しかし力強く引き剥がした。


「だが……私は、その赦しを受け入れるわけにはいかない。私は親だ。子供が親の真似をして、間違った道に進もうとしているなら……」


エラーラが、白衣を翻す。

その背後に、膨大な魔力が渦巻き、幾何学的な魔法陣が展開される。


「その間違いを正すのが、私の最後の『教育』だッ!」


「……そうですか。残念ですわ。……では、証明なさいませ。……痛みのある未来が、平穏な停滞よりも価値があるということを!」


アリシアが手を掲げた。

愛し合うがゆえに、二人は互いの全てを否定し合う。

上空の暴風が、彼女たちの叫びを乗せて、凍りついた世界へと響き渡った。

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