定理48:過去のトラウマを打破したい!(後編)
リニアとプロキシとの決戦から数日。
ヴェリタス探偵事務所は、穏やかな日常を取り戻していた。
だが、その平穏な食卓の中心で、ただ一人、アリシア・ヴェリタスだけが、深淵を覗き込んでいた。
「二年前。……わたくしが、この事務所にいる記憶の、最古の記録」
それ以前がない。
知識としての歴史や一般教養はある。だが、「アリシア個人」としての体験記憶が、二年前を境にプッツリと途絶えているのだ。
エラーラからはこう聞かされていた。「幼い頃に孤児として引き取り、ずっと一緒に暮らしてきたが、二年前の魔法実験の事故で、それ以前の記憶に障害が出ている」と。
これまでは、それを疑いもしなかった。
だが、ナラティブが実の両親と対峙し、過去の呪縛を乗り越えたあの日から、アリシアの中で疑念の種が芽吹き始めていた。
エラーラは、その焦げ目をじっと見つめ、それから心配そうにアリシアの顔を覗き込んだ。
「……最近、様子がおかしいねぇ。計算ミスなんて君らしくない。……何か、悩み事かい?」
その青い瞳。
世界で一番賢くて、世界で一番不器用な、愛する義母の瞳。
『わたくしの記憶は、本当に事故で失われたのですか? それとも……』
アリシアは、喉まで出かかった問いを飲み込み、微笑んだ。
その笑顔が、どこか陶器の人形のように冷たいことに、エラーラは気づいていただろうか。
それとも、気づかないふりをしたのだろうか。
その男が現れたのは、エラーラとナラティブが定期検診で出かけている、留守の午後だった。
事務所には、アリシアと、ソファで昼寝をしているグリッチの二人だけ。
「ごめんください。……美しいお嬢さん」
扉を開けて入ってきたのは、初老の紳士だった。
仕立ての良いスーツ。穏やかな微笑。手には、アリシアが好きそうな紅茶の缶を持っている。
「……どなたですの?」
「……ああ、そうか。忘れているんだったね」
男は、ゆっくりと帽子を取った。
その顔立ちは、アリシアによく似ていた。
「私はモノポ・ガバナンス。君の父親であり……君を心から愛していた者だ」
「ちち……おや……?」
アリシアの頭痛が激しくなる。
ノイズが走る。思い出せない。
「無理もない。エラーラ・ヴェリタス。あの傲慢な魔導師が、君の脳に強力な『記憶消去魔法』をかけたのだからな」
モノポは悲しげに眉を下げた。その表情は、娘を奪われた哀れな父親そのものだった。
「君は知っているかね? 二年前、君がなぜ記憶を失ったかを。……君は誘拐されたんだよ……エラーラに」
「……え?」
「彼女は君を、自分の都合の良い道具にするために、君の過去を奪い、君の家族を奪い、『自分こそが恩人である』という偽りの記憶を植え付けたんだ!」
「う、嘘……おかあさまは、そんな方では……」
「嘘だと思うなら、聞いてみるがいい。彼女は必ず、言葉を濁すはずだ。……さあ、帰ろう。本当の家へ」
モノポの手が、アリシアの震える手に触れる。
記憶がないからこそ、彼女はその言葉を否定できない。
「……ただいま! アリシア、グリッチ! 今帰ったよ!」
タイミング悪く、エラーラとナラティブが帰宅した。
扉を開けた二人は、アリシアの手を握るモノポを見て、即座に戦闘態勢に入った。
「……貴様。モノポ・ガバナンスか」
エラーラの声が、地を這うように低くなる。
「久しぶりだね、『人攫い』のエラーラ」
モノポが不敵に笑う。
「娘を返してもらうよ。君が盗み出し、洗脳した、私の娘をね」
「……盗んだ、ですって?」
ナラティブが吠える。
「お母様がそんなことするはずありませんわ! お母様は、いつだって……!」
「アリシアに聞いてみるがいい」
モノポがアリシアの背後に隠れるように立った。
「彼女は、自分の過去を知りたがっている。……さあ、答えるんだ、エラーラ。君は、彼女の記憶を消したのか?」
アリシアが、縋るような目でエラーラを見た。
「おかあさま、教えてください。……わたくしの記憶がないのは……貴女様が、消したのですか?」
エラーラの足が止まった。
彼女の顔から、血の気が引いていく。
一番恐れていた問い。いつか来ると思っていた断罪の時。
ここで「ノー」と言えば、その場は凌げるかもしれない。
だが、愛する娘に対して、これ以上嘘を重ねることはできなかった。
「……イエスだ。アリシア」
エラーラは、静かに肯定した。
「二年前、私が君の記憶を消した。……君の過去の全データを、削除した」
「……ッ!」
アリシアが息を飲む。
モノポが勝ち誇ったように笑う。
「聞いたかい、アリシア!やはり彼女は魔女だ! 君の人格を殺し、作り変えた張本人だ!」
「違う!私は君を救うために……!」
「救うために?」
アリシアの声が震える。その瞳から、みるみるうちに信頼の色が消え、絶望と不信が満ちていく。
「記憶を、経験を、学びを奪うことが……救いなのですか? ……わたくしが、自分が誰かも分からないまま、貴女様の作った『アリシア』を演じさせられていたことが……救いなのですか!?」
「君は壊れていたんだ!あのままでは君は……!」
「黙りなさいッ!」
アリシアが叫んだ。
フライパンが手から滑り落ち、カランと虚しい音を立てた。
「……痛みも、絶望も、わたくしの人生の一部です!それを勝手に切り取って……!」
「アリシア……!」
「やはり、貴女様は、わたくしを信じてくださらなかった!わたくしが、過去を受け止めて生きる強さを持っているとは、思ってくださらなかった!信頼されていなかった!……それが、何より悲しいですわ!」
アリシアは泣いていた。
だが、その涙は誰にも拭えなかった。
エラーラの論理は完璧だったはずだ。過去を消せば、楽に痛みは消える。楽に幸せになれる。
だが、それは「教育」ではなく「操作」。
……つまり「洗脳」だった。
「……参りましょう、父様」
アリシアは涙を拭い、モノポの方を向いた。
「待ちなさい姉さん! そいつは……!」
ナラティブが止めようとする。
だが、アリシアは冷たい瞳でナラティブを見た。
「……貴女には分からないでしょうね。自分の人生が、誰かの創作物だったと知った時の気持ちなんて」
ナラティブが足を止める。
アリシアは、ドアへと向かう。
そして、ふと足を止め、ソファで呆然としていたグリッチを見た。
「……グリッチさんも、さようなら」
「…………」
グリッチの赤い瞳が揺れた。
彼女はエラーラを見た。世界で一番大好きで、尊敬するお姉ちゃん。
そして、アリシアを見た。今にも壊れそうで、でも必死に立っている、脆い聖女。
エラーラは正しい。論理的に、倫理的に、彼女の行動は「善意」だった。
モノポは間違いなく怪しい。嘘の匂いがする。危険だ。
エラーラの側につくのが、正解だ。
だが。
「……ニシシ」
グリッチは笑った。
彼女はソファから飛び降り、エラーラに背を向けた。
「え?……グリッチ……?」
エラーラが目を見開く。
グリッチは、アリシアの隣に立った。
そして、その小さな手で、アリシアの震える手をギュッと握った。
「……エラーラお姉ちゃんは、私がいなくてもナラちゃんがいるから、倒れないよ。でも、アリシアお姉ちゃんは、今、私がいないと死んじゃう気がする」
狂気ゆえの直感。
グリッチは、「正しさ」よりも目の前の「真実」を選んだ。
「私は、アリシアお姉ちゃんの味方をするよ……!」
三人は、出て行った。
エラーラは、追いかけることができなかった。
自分の犯した「愛という名の罪」の重さに、足を縫い付けられていたからだ。
それから程なくして、世界は二つに割れた。
ヴェリタス探偵事務所から「愛」と「狂気」が消え、残されたのは「学」と「武」だけだった。
エラーラは研究室に引きこもり、ナラティブは焦げたトーストを齧りながら、虚空を見つめる日々。
一方、アリシアたちは、モノポの拠点である巨大企業「ガバナンス・タワー」に入っていた。
モノポはすぐに本性を現した。彼はアリシアを利用しようとしたのだ。
しかし、その目論見は一瞬で崩れ去った。
グリッチがいるからだ。
モノポがアリシアに命令しようとした瞬間、グリッチは笑顔でタワーのメインコンピュータをハッキングし、モノポの全資産を凍結し、ついでに彼のオフィスの酸素濃度を極限まで薄くして脅しあげた。
実の父すらも、グリッチという番犬の前では無力だった。
そして、アリシアは「気づいて」しまった。
父もまた、自分を利用しようとする「他者」でしかないことに。
そして、世界そのものが、互いを傷つけ、利用し合う、欠陥だらけのシステムであることに。
タワーの最上階。アリシアは王都を見下ろしていた。
「エラーラおかあさまは、わたくしを騙しました。モノポお父様は、わたくしを利用しました。……決めましたわ、グリッチさん」
アリシアが振り返る。
その瞳には、かつての慈愛も、先日の迷いもなかった。
あるのは、氷のような決意と、狂気じみた母性。
「世界が間違っているなら、直せばいいのです。……エラーラおかあさまのような『痛みを伴う教育』ではなく、完全なる『保護』によって」
「それって、世界征服ってこと?」
「……ええ」
そして、それから数カ月後。
世界が、止まった。
正午。
王都の街頭モニター、各家庭の魔導端末、スレート、果ては旧式のラジオに至るまで、あらゆる通信機器が同時にジャックされた。
砂嵐のノイズが晴れ、画面に映し出されたのは――。
『ごきげんよう。愛すべき人類の皆様』
純白のドレスを纏い、玉座に座るアリシア・ヴェリタスだった。
彼女は美しかった。
触れれば切れるような神々しさと、冷徹な支配者のオーラ。
その隣には、近衛騎士のようにグリッチが控えている。
『世界は、悲しみに満ちています。……それは皆様が「自由」という名のバグを持っているからです』
アリシアの声は、世界中の人々の脳裏に直接響く。
グリッチが開発した全人類意識共有ネットワーク・システム『ヴェリタスの天秤』による強制介入。
『わたくしは学びました。教育では、人は変わりません。痛みでは、人は分かり合えません。……ならば、わたくしが全てを引き受けましょう』
彼女が手を掲げると、王都の上空に、巨大な魔法陣……いや、科学的に構築された「防衛結界」が展開された。
それは、あらゆる物理的衝撃、あらゆる魔力的攻撃を無効化する、絶対不可侵の檻。
『宣言いたします。……これより、この世界を「ヴェリタス完全管理区」と再定義します』
『もう迷う必要はありません。もう傷つく必要はありません。思考を止め、争いを止め、ただわたくしの愛の中で……永遠に、穏やかに、停止なさい』
画面の中のアリシアが、聖母の微笑みを浮かべる。
それは、かつてエラーラに向けたものと同じ、しかし決定的に異なる、「拒絶」としての笑顔だった。
探偵事務所で、エラーラはその放送を見ていた。
「……『また』、こうなるのか」
エラーラは呻いた。
自分がアリシアにしたこと。
「相手のためを思って、相手の自由を奪う」
その呪われた連鎖が、最悪の形で、世界規模で具現化してしまった。
アリシアは、エラーラを否定しながら、エラーラと同じ……いや、それ以上に過激な「独善」へと走ってしまったのだ。
「痛みを消しても、痛みを思い出しても……君はやはり、何も学ぶ気はないのか、アリシア!」
エラーラが叫んだ。
ドアが開く。
そこには、リウとルルが待っていた。
ナラティブが立ち上がった。
「……行きましょう、お母様。……姉さんを、ぶん殴ってでも連れ戻しますわ!」
エラーラ、ナラティブ、リウ、ルルの四人は、戦場へと向かった。
一方その頃。
要塞「ガバナンス・タワー」の屋上は、成層圏に近い冷気と、暴風に晒されていた。
眼下には、アリシアの展開した「愛の檻」によって時を止められた王都が、まるで琥珀の中の虫のように静止している。
その緊迫した空気を、無粋な笑い声が切り裂いた。
「素晴らしい!実に素晴らしいぞ、アリシア!」
モノポ・ガバナンスだった。
彼は狂喜乱舞しながらアリシアの背後に歩み寄った。
「見たまえ、地上を!これこそが我がガバナンス家の理想とした『究極の管理社会』だ!」
モノポは両手を広げた。
「この世界も、彼女の力も、すべて『親である私の所有物』なのだよ!」
「それは違うよ」
呟いたのは、アリシアの傍らに控えていた、グリッチだ。
彼女は、巨大な対戦車ハンマーを軽々と肩に担ぎ直し、モノポの方へ首を傾げた。
「な、なんだねグリッチ君……」
「システム・エラー検出だよ……」
グリッチの赤い瞳孔が開く。
純粋な殺意。いや、もっと無機質な「削除」の意志。
「まっ、待て!私はアリシアの親だぞ!」
「だから違うって。……アリシアお姉ちゃんの親は、エラーラお姉ちゃんだけだよ」
ドォォォォォォン!!
一撃だった。
グリッチのハンマーが、音速を超えてモノポを叩き潰した。
悲鳴を上げる暇もなかった。かつてアリシアを支配し、壊した男は、肉塊となって吹き飛び、遥か地上の彼方へと消えていった。
「あーあ。……掃除しなきゃ」
グリッチはハンマーについた汚れを、自分の袖で無造作に拭った。
「……野蛮な子ですこと。でも、静かになりましたわ」
アリシアは、振り返りもしなかった。
ただ、紅茶のカップをソーサーに置いた。
「……アリシアッ!」
たったいま「ガバナンス・タワー」に到着したエラーラたちが、一歩、また一歩、アリシアの元へ踏み出した。
風が彼女の白衣を激しく煽る。
「……恨んでいるだろうね。私を」
エラーラの声は、風にかき消されそうなほど微かだったが、確かにアリシアに届いた。
「私は君の記憶を消した。君の人生を、私の都合で改竄した。……君が受けた痛みも、喪失も、君が乗り越えるべき試練だったのに。私はそれを『可哀想だから』という独善で奪い去った」
エラーラは拳を握りしめた。爪が食い込む。
「それは、君の人格への殺人だった。……許されるとは思っていない」
沈黙が落ちた。
アリシアはゆっくりと階段を降り、エラーラと同じ高さに立った。
その瞳は、かつてないほど澄んでいて、そして悲しいほどに優しかった。
「……ええ。おかあさまは、『また』傲慢でしたわね」
アリシアが口を開く。
「わたくしの過去を奪い、わたくしが友を想って泣く権利さえも奪いました。……それは、決して許されない罪です」
「ああ……」
「でも」
アリシアは、ふわりと微笑んだ。
「わたくしは、許しますわ。……その『記憶消去』という罪だけは」
エラーラが顔を上げる。
「……な、ぜだ……?」
「なぜなら」
アリシアは両手を広げ、眼下に広がる「静止した世界」を示した。
「今のわたくしには、分かるからです。……貴女様があの日、どうしてあんなことをしたのか」
アリシアの声に、熱が帯びる。
「貴女様は、耐えられなかったのでしょう?愛する親友が次々に事故死して、わたくしが、傷つき、壊れていく姿を見ることに。……だから、わたくしの心を殺してでも、わたくしの『平穏』を守ろうとした」
「……っ!」
「今のわたくしと、同じですわ」
アリシアは、自らの胸に手を当てた。
「わたくしも、耐えられないのです。……おかあさまが、苦しむのを」
彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「だから、わたくしは世界を止めました。……自由を奪い、未来を奪い、可能性を殺してでも。……おかあさまたちを、永遠に『保護』するために」
エラーラの喉が詰まる。
突きつけられたのは、鏡合わせの絶望だった。
かつてエラーラがアリシアに行った「個人の記憶消去」という過保護。
今、アリシアが行っている「世界の時間の凍結」という過保護。
規模が違うだけで、根源にあるのは同じものだ。
『愛するがゆえに、相手の痛みを許容できない弱さ』。
「皮肉なものですわね。……わたくしは、貴女様の罪を知ったからこそ、貴女様の愛の深さを理解し……そして、この『独裁』こそが『やはり』正解なのだと確信しましたの」
アリシアは、そっと手を差し伸べた。
エラーラの頬に触れる。その手は、冷たくて、温かい。
「ですから、許しますわ。……貴女様がわたくしの過去を消したように、『今度も』わたくしが、貴女様の未来を消して差し上げます。……痛みも、苦しみもない、永遠の中で眠りなさいませ」
それは、究極の赦しであり、断絶宣言だった。
エラーラの目から、涙が溢れた。
それは安堵の涙ではない。
自分の蒔いた種が、『またしても』こんなにも美しく、歪んだ大樹に育ってしまったことへの慟哭だった。
「……ありがとう、アリシア。私を許してくれて」
エラーラは、アリシアの手を、自分の頬から優しく、しかし力強く引き剥がした。
「だが……私は、その赦しを受け入れるわけにはいかない。私は親だ。子供が親の真似をして、間違った道に進もうとしているなら……」
エラーラが、白衣を翻す。
その背後に、膨大な魔力が渦巻き、幾何学的な魔法陣が展開される。
「その間違いを正すのが、私の最後の『教育』だッ!」
「……そうですか。残念ですわ。……では、証明なさいませ。……痛みのある未来が、平穏な停滞よりも価値があるということを!」
アリシアが手を掲げた。
愛し合うがゆえに、二人は互いの全てを否定し合う。
上空の暴風が、彼女たちの叫びを乗せて、凍りついた世界へと響き渡った。




