定理46:自分のアイドルを推していたい!(後編)
「リウさん、ゴウ君! 無事でしたか!」
アスナが二人を見つけ、安堵の表情を浮かべる。だが、その直後、彼女の周囲の怪異たちが一斉に二人へ襲いかかろうとした。
「させません!」
ゴオオオッ!
アスナの口から灼熱の火炎が放たれ、怪異たちを牽制する。怪異たちは、やはりアスナ自身には反撃しない。
「……おかしい」
ゴウが冷静に分析を始めた。
「師匠やナラティブさんたちは、一瞬で取り込まれました。怪異の狙いは『強い執着』を持つ者。なら、師匠のストーカーであるアスナさんが真っ先に狙われるはずです」
「誰がストーカーですか!私は善良な公務員として、危険人物を監視しているだけで……!」
アスナが顔を赤らめて否定する。その瞬間、怪異たちがビクリと反応し、しかし近づけないままジリジリと身をよじる。
リウが、何かを悟ったように手を叩いた。
「なるほどね!分かったよ、このカラクリが!」
リウはニヤリと笑い、アスナを指差した。
「あんたの執着は、種類が違うんだよ」
「種類、ですか?」
「そうさ。エラーラやナラティブの執着は、『同化』だ。知識欲も、食欲も、愛欲も、結局は対象を自分の中に取り込んで、一つになりたいって願望だ」
リウは一歩前に出る。
「でも、あんたは違う。あんたの執着は……『推し活』だろ?」
「お、推し……!?」
「あんたはエラーラが好きすぎて、神聖視しすぎてるんだよ。『自分なんかがエラーラと一つになるなんておこがましい』『遠くから眺めてハァハァしてたい』『捕まえたいけど、捕まえたくない』……そんな面倒くさい感情が渦巻いてる」
「……はあ?……はい……まあ……」
アスナが唖然とする。
「……ちなみに、あたしはゴウを捕まえたけど、ゴウをあたしの芸術の中に入れるつもりはない。あたしも、ゴウをひとりの人間として推してるんだよ。もっとも、おなかの中にはこれから入れるつもりだけどね!」
「食べるんですか?……って、なななな!なにをいきなり宣言しているんですか!」
鈍感なゴウがハッとして補足する。
「アスナさんの執着の本質は『境界線の維持』なんです!自他を明確に区別し、その絶対的な距離感にこそ快楽を見出している!」
「つまり、あんたの愛は重すぎて、一周回って『成分分離』を起こしてるってことさ!愛が、重すぎて!」
図星を突かれたアスナの顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。
竜人の体温調整機能が暴走し、彼女の周囲の空気が陽炎のように揺らぎ始めた。
「何を言っているんですか!私はただ、エラーラさんのあの不敵な笑みとか、ドーナツを食べる時の無防備な唇とか、私をゴミを見るような目で見下すあの視線とか、そういうのを公的な記録として保存したいだけであって、決してやましい気持ちなど……ただ、愛してるだけであって……あっ……」
早口でまくし立てるアスナ。その言葉の一つ一つが、彼女の歪んだ、しかし純粋すぎる愛を証明していた。
その時、怪異たちがざわめき始めた。
同化できないなら、無理やりにでもその熱源を奪おうと、全スライムがアスナ一点に殺到する。
四方八方から迫る粘液の津波。
リウが構え、ゴウが悲鳴を上げる。
だが、追い詰められたアスナの中で、何かが切れた。
「寄るなあああ!私は……私はエラーラさん以外に興味はないんですぅぅぅ!」
ドッカァァァァァァァン!!
アスナの羞恥心とファン魂が臨界点を超え、全方位に向けて極大の「竜の咆哮」が炸裂した。
それは物理的な炎であると同時に、精神的な拒絶の爆風だった。
「個」を尊重し、「距離」を愛するその高潔なる炎は、世界をドロドロに溶かそうとする「全」の概念を、根底から焼き尽くした。
怪異たちは断末魔を上げることもできず、瞬時に蒸発した。
王都を覆っていた粘液が、乾燥したメレンゲのように崩れ去り、風に乗って消えていく。
世界に、個と個の境界線が戻ったのだ。
「……終わった、のか?」
「やりやがったな、ストーカー公務員。あんたの愛の勝利だ」
「……不名誉な勝利です」
アスナはガックリと項垂れた。
外に出ると、街の人々も元に戻っていた。
服はボロボロで、肌はヌルヌルしていたが、誰もが無事だった。
「あら? ……あらら?」
路地裏のゴミ捨て場で、ナラティブが目を覚ました。
彼女の黒いドレスは溶けてあちこち破け、肌には怪異の粘液がローションのように張り付いている。
その目の前で、同じくヌルヌルのルルが、ゆらりと立ち上がった。
「……ナラティブ。……美味しそう」
「ひえっ!? ルル、目が怖いですわよ!? ちょ、待ちなさい、こっちに来ないで!」
ルルが野生の本能丸出しでナラティブを追いかけ回す。ナラティブの悲鳴が、平和の訪れを告げていた。
一方、ヴェリタス探偵事務所の跡地では。
アリシアとグリッチが、何事もなかったかのように優雅に座っていた。
「あら、お肌がツルツルになりましたわ。高級エステの効果ですわね」
「お姉ちゃんの成分、たくさん吸収したよ! 私、今ならお姉ちゃんになれる気がする!」
二人は平然と、むしろ状況を楽しんで帰宅の途についた。
そして、瓦礫の山となった「ミスター・マジック」の前で。
エラーラが倒れていた。いつもの白衣は溶けて半透明になり、全身がスライムまみれで、立ち上がる力もないようだった。
「フム……。未知の体験だったが……さすがに疲労困憊だねぇ……」
そこへ、アスナが近づいてきた。
彼女もまた服が破れていたが、その瞳は怪異よりも恐ろしい光を放っていた。
「エ、エラーラさん……! ご無事でしたか!」
「ああ、アスナ君か。……君が解決したのかい? 論理的に説明を……」
「そんなことより、酷い汚れですね。……このままでは風邪を引いてしまいます」
アスナがエラーラの腕を掴んだ。その力は強く、そして手は熱かった。
「規制局のシャワー室、今なら誰もいませんよ。……『休憩』できる部屋の鍵も、私が持ってますし……お体、私が隅々まで……洗いますよ?」
その言葉に、後ろで見ていたリウが「うわー、大胆だねえ!」と口笛を吹いた。
エラーラは首を傾げた。彼女の明晰な頭脳も、まだ再起動中だった。
「フム?『洗う』という行為に、君の言う『隅々』という定義はどこまで含まれるんだい?」
「い、行けば分かります!さあ、早く!」
「ちょ、ちょっと待ちたまえ。君、体温が異常だよ。発熱しているなら、まずは君が……うわっ、引っ張るな!」
沸騰したヤカンのようになったアスナに引きずられ、最強の魔導師は王都の彼方へと連行されていった。
王都魔導規制局の最深部、役員専用シャワールーム。
立ち込める白い湯気と、絶え間ない水音が、密室の静寂を塗り潰していた。
「……熱いよ、アスナ君。設定温度が、竜人基準になっているんじゃないか?」
「我慢してください、エラーラさん。……じっとしていてください。今、背中を流しますから」
シャワーヘッドから降り注ぐのは、滝のような熱湯だ。
タイル張りの床に、エラーラの白衣と、アスナの制服が無造作に脱ぎ捨てられている。
湯気の中で、エラーラは壁に手をつき、荒い息を吐いていた。あのスライム状の怪異に取り込まれた後遺症で、彼女の肌はまだぬらぬらとした半透明の粘液に覆われている。
「……ん。……そこは、くすぐったいぞ」
「力を抜いてください。……」
アスナの手が、エラーラの背中を這う。
ドラゴニュートである彼女の体温は、人間よりも遥かに高い。その熱い掌が、特殊な洗浄液と共にエラーラの肌を撫で回すたびに、ヌルリ、という卑猥な音が狭い個室に反響した。
粘液の滑りと、アスナの指の熱。それらが混ざり合い、エラーラの思考を鈍らせていく。
「……しかし、君も物好きだねぇ。規制局の局長が見たら卒倒する光景だよ。指名手配犯同然の私を、官舎の風呂に入れるなんて」
「……緊急措置です。それに、あなたは『重要参考人』ですから。証拠物件の保全は、担当官の義務です」
アスナの声は少し震えていた。
無理もない。彼女の目の前には、長年追いかけ続け、隠し撮りし続け、そして崇拝し続けてきた「推し」の無防備な背中があるのだ。
アスナは泡だらけの手で、エラーラの肩から二の腕、そして腰のくびれへと、丁寧に、執拗に指を滑らせた。
洗う、という行為の範疇を、その熱量は僅かに超えていた。
「ところで、一つ聞きたいことがあったんだ」
エラーラはシャワーの水圧に身を任せながら、問いかけた。
「なぜ、君だけがあの『同化』から逃れられたんだ?私でさえ、あの甘美な知識の融合には抗えなかった。君の私への……その、異常なまでの執着があれば、真っ先に取り込まれてもおかしくなかったはずだ」
アスナの手が止まった。
シャワーの音だけが響く。
アスナはエラーラの背中に額を押し付け、ぽつりと呟いた。
「……解釈違い、だからです」
「解釈?」
「はい。あの怪異は、対象と『一つになる』ことを至上の喜びとしていました。でも、私の望みは違います」
アスナは顔を上げ、濡れた瞳でエラーラを見つめた。湯気で火照った頬は、鱗の赤みと混じって熟れた果実のようだ。
「私は、あなたになりたいわけじゃない。あなたと溶け合って、境界線をなくしたいわけでもない。……私は、あなたという『バグ』を、この完璧すぎる世界で、ずっと観測していたいんです」
「……バグ?」
エラーラが怪訝な顔をする。
アスナは熱いお湯でタオルを絞り、エラーラの首筋を優しく拭った。
「そうです。この王都は……いえ、この世界は、あまりにも『正しく』作られすぎています。魔法というOS、法律というアルゴリズム、社会という秩序。すべてが円滑に回るように設計されている」
アスナの指先が、エラーラの鎖骨をなぞる。
「私は、規制局の官僚です。秩序を守る側の人間です。だからこそ、分かるんです。……『正しさ』だけで塗り固められた世界は、息が詰まるほど退屈で、死んでいるも同然だって」
アスナは、まるで祈るように続けた。
「でも、あなたは違う。エラーラ・ヴェリタス。あなたは、その名の通り『エラー』です。論理的でありながら予測不能。天才的でありながら破滅的。あなたは、この静止した世界をかき回し、常識を破壊し、鮮やかな色彩を撒き散らす」
アスナの手が、エラーラの手を取り、指を絡めた。竜人の熱が、冷えたエラーラの指先を溶かしていく。
アスナは、自然に、当然のように、エラーラに口づけをした。
エラーラは、もちろん、アスナを受け入れた。
「私があなたに惹かれるのは……あなたが、この世界が生み出した、最も愛おしい『致命的なバグ』だからです。バグのないプログラムなんて、美しくない。……だから、私はあなたと同化なんてしたくない。私は、特等席で見ていたいんです。あなたがこの世界を、滅茶苦茶に、最高に面白く『デバッグ』していく様を。……愛しています」
それが、アスナの答えだった。
完璧な秩序であるアスナが、致命的なエラーであるエラーラを愛する理由。
それは、対極であるがゆえの必然。世界を正常に機能させるための、必要不可欠なノイズ。
エラーラは、しばらく瞬きをし、やがて小さく吹き出した。
「……ククッ。ハハハッ!」
「わ、笑わないでください! 私は大真面目なんです!」
「いや、すまない。……傑作だと思ってね。私が『世界に必要なバグ』か。……フム、悪くない定義だ」
エラーラは絡められた手を握り返した。
その顔には、いつもの冷淡な笑みではなく、どこか憑き物が落ちたような、柔らかい表情が浮かんでいた。
「……君のその『論理』、私のデータベースに保存しておこう。君という監視者がいる限り、私は安心して暴走できるというわけだね」
「……はい。私が、あなたの尻拭い……いえ、ログの記録を、一生やり続けますから」
二人の視線が交差する。
湯気の向こうで、互いの熱が伝わり合う。
それは恋人とも、共犯者とも違う、もっと根源的な「システムとバグ」の共鳴だった。
「……さて。長湯が過ぎたようだ。のぼせてきた」
「あ、はい!すぐに上がりますか? バスタオル、温めてあります!」
「気が利くねぇ。……それと、アスナ君」
「はい?」
エラーラは、シャワーを止め、濡れた髪から雫を垂らしながら、ニヤリと笑った。
「背中だけじゃなく、前も洗ってくれないか? まだ、ここがヌルヌルしてくるんだ」
アスナの顔が、一瞬で沸騰した。
「えっ、あ、えええええッ!? い、いいいいんですか!? 私なんかが、そんな聖域に……!」
「拒否権はないよ。君が連れ込んだんだろう? ……責任、取りたまえよ。それに、これから一緒に『休憩』するんだろう?」
「は、はいぃぃぃっ!よろこんでぇぇぇッ!」
狭いシャワールームに、アスナの絶叫と、竜人のブレスによる爆発音が響き渡る。
世界は正常に戻った。
だが、二人の関係性だけは、ほんの少しだけ、不可逆的に書き換えられたようだった。




