定理41:思い出のシアターを守りたい!(前編)
●リメイク元
「ナラティブ・ヴェリタス」無駄を省いた理想郷
「ナラティブ・ヴェリタス」人喰い鰐の侵略
「ナラティブ・ヴェリタス」破滅を呼ぶ無知
「記憶を共有することこそが、人類というOSの最終仕様なのだ」
新暦百八年、初夏。
王都の空は、魔導産業革命の排煙と地脈のマナが混ざり合い、セピア色の古い絵画のような、あるいは焦げたトーストのような香ばしい質感を帯びていた。
ヴェリタス探偵事務所の午後は、甘いハニーグレイズドーナツの香りと、平和という名のアイドリング状態に包まれていた。
コン、コン。
壊れ物を扱うような控えめなノック音。
グリッチ・オーディナルが天井から逆さ吊りのままドアを開けると、そこにはボロボロの帽子を目深に被った一人の「少年」が立っていた。服は煤で汚れ、靴の底はすり減っている。だが、その瞳だけはどんな宝石よりも強く輝いていた。
「……あの、ここは、最強の魔導師がいる場所ですか?」
少年は震える声で尋ねた。
書類の山から顔を出した私、エラーラ・ヴェリタスは、ドーナツを置いて椅子を回転させた。
「如何にも。私がエラーラ・ヴェリタスだ。……だが、迷子の猫探しなら管轄外だよ。私の専門は、世界の理を記述する数式のデバッグだからね」
「違います! 猫じゃありません!」
少年は一歩踏み出し、大切そうに抱えていた革の財布を、ドンと机に置いた。ジャラジャラと硬貨の音が響く。
「お願いです。僕たちの街の映画館、『光座』を守ってください!」
「……光座?」
光座。王都の隅、スラムとの境界にあるオンボロ映画館。接触不良の魔石灯と、カビ臭いビロードの座席。極上のポップコーンと名画がある、私たちがよく利用するあの場所だ。
「大人たちは、新しい都市計画のために古いものは邪魔だって壊そうとしてる。でも、あそこには僕たちの夢が詰まってるんだ! 初めて映画を観た日も、友達と喧嘩して仲直りした日も!」
少年は必死に訴えた。
「これは、僕が皿洗いをして貯めてきた全財産です。一万クレストあります。これで、なんとかしてください!」
一万クレスト。ドーナツ六十六個分。
子供にとっては大金だが、都市開発という巨大システムに介入するにはあまりにも微小なパケットだ。私はスレート端末を叩き、行政のデータベースにアクセスした。
「『再開発計画。老朽建設の撤去および高効率エネルギープラントの建設』……決定事項だ。明後日には執行される」
私は冷徹に告げた。
「論理的に言って不可能だねぇ。少年、君の依頼は物理法則に逆らって川を逆流させろと言っているに等しい。その金で美味しいドーナツでも買って帰りたまえ」
それが大人としての、科学者としての誠実さだと思った。
だが。
「待ってください、師匠!」
助手のゴウ・オータムだ。普段は私の尻拭いに奔走し胃薬を常用する彼が、今は瞳を燃やしていた。
「その論理は、間違っています。映画館を守ることは非効率な感傷じゃない。そこに宿る記憶という名のデータを守るのは、科学に携わる者の義務のはずだ!」
「ゴウ君?助手が依頼を勝手に受理するなんて、私の論理回路に対する反逆だよ」
「反逆上等です!師匠がやらないなら、僕がやります!」
「わたくしも、賛成ですわ」
アリシア・ヴェリタスが静かに手を挙げた。彼女は家計簿を閉じ、ふわりと微笑む。
「あの映画館の絶妙な塩加減のポップコーンが食べられなくなるのは、我が家の食卓に対する重大な損失ですわ」
「あたしも乗りますわ!あそこの大スクリーンで観るアクション映画こそ、あたしの教科書ですもの!」
ナラティブ・ヴェリタスが鉄扇を鳴らす。
「私もー! お姉ちゃんとデートした場所だもん! 壊す奴はバグだよ!消去しなきゃ!」
グリッチが工具を構えた。
「……やれやれ。これだから君たちは、いつまで経っても非論理的なんだよ……」
私はため息をつき、残りのドーナツを口に放り込んだ。甘さが口いっぱいに広がる。私の思考回路は、不本意ながらも既に「承認」のシグナルを出していた。
「……いいだろう。メインクエスト『光座の取り壊し阻止』。……難易度は『最大級』だ。覚悟したまえよ!」
「師匠!じゃあ、どうやって行政の決定を覆すんですか!?」
ゴウの問いに、私はニヤリと笑った。
「光座の地下深くには、『旧世代の魔導映写機』が眠っている。あれは単なる映写機ではないのだよ。王都の地脈と直結した、古代の『記憶装置』だ。あれを再起動し、王都の空に直接『記憶』を投影して、全市民の感情をハッキングする」
私は白衣を翻した。
「だが、映写機は壊れている。起動には『3つの失われたピース』が必要だ。……総員、王都中を駆け巡り、奇跡の歯車を集めてきたまえ!」
ヴェリタス探偵事務所の面々は、それぞれの目的を持って王都へと散らばった。
王都の最下層、ジャンク街「歯車通り」。
王都警察のカレル・オータム警部は、胃薬の瓶を片手に絶望していた。彼の目の前には、警察が押収したばかりの危険な「旧式魔導爆弾」がある。そしてその隣には、白いパーカーの少女――グリッチがしゃがみ込んでいた。
「おじさん、そんなアナログな処分じゃ不活性化しきれないよ。ボクがやってあげる!」
「触るな! お前は爆弾魔だろう!」
「人聞きが悪いなぁ。エントロピーを増大させるのが得意なだけだよ。……それに、この爆弾の信管、お姉ちゃんが三ヶ月前に捨てた失敗作のパーツだ! お姉ちゃんの魔力残渣が残ってる! 愛だよ!」
グリッチは狂気の赤い瞳を輝かせ、信管の回路をピアノのように弾き始めた。
「ちょ、待て! 赤いランプが光ったぞ!」
「大丈夫。起爆シークエンスを逆流させて、珈琲メーカーのプログラムに書き換えてるだけだから」
「なんで爆弾が珈琲を淹れるんだ!」
ピーッ。電子音と共に、殺傷能力を持っていたはずの爆弾の排気口から、香ばしい珈琲の香りが漂い始めた。破壊のエネルギーが、豆を焙煎する平和な熱量へと変換されたのだ。
「はい、おじさんも飲む? 泥みたいに苦いけど」
「……もらう。胃薬で流し込む」
法を司る警部と、法を嘲笑う狂人が、路地裏で爆弾珈琲を啜る。
「……これで、お姉ちゃんの計画に必要な『超高出力エネルギー源』の確保、完了だよぉ!」
王都の中央市場。
活気の坩堝の中を、奇妙な二人連れが歩いていた。
「肉だ!アリシア、活きがいいぞ! 丸呑みできそうだ!」
大興奮で極太の尻尾を振り回す狼獣人のリウ・ヴァンクロフト。彼女の両手には、山のような荷物が抱えられている。
「お行儀が悪いですわよ、リウさん。今日は『荷物持ち』と『探索』をお願いしたはずですわ」
日傘を差したアリシアは、猛獣使いのようにリウを完璧に管理していた。
「おう!任せとけ! 筋肉と鼻が喜んでるぜ! ……おっ、あそこの骨董屋から、すげえ魔力の匂いがする!」
リウの野性的な直感が、ガラクタの山の中からソフトボール大の「幻獣の水晶」を見つけ出した。
「フフ。さすがですわリウさん。……店主さん、このただのガラス玉、おいくらかしら?」
アリシアの優雅にして絶対零度の威圧により、水晶はタダ同然で譲り受けられた。これが映写機の光を束ねる「レンズ」となる。
「でもよぉ、アリシア。ただの水晶じゃ光は作れねえぞ?」
「ええ。ですから、ここに『熱』を込めるのですわ」
アリシアとリウは市場を回り始めた。肉屋の主人、八百屋の女将、すれ違う大人たち。彼らに「光座の思い出」を尋ねる。
『あそこは妻と初デートした場所でね』『昔、親父とよく観に行ったよ』
市場の人々の笑顔と共に溢れ出す、温かい記憶の波長。アリシアはそれを、水晶の中に一つ一つ丁寧に記憶させていった。
「静と動。人々の温かいカオスを、この水晶という枠に収める……。これで二つ目のピース、『記憶のレンズ』の完成ですわ」
王都の繁華街。
魔導規制局のエリート官僚、アスナ・クライフォルトは、街角で自身の端末のフォルダを整理していた。中身はエラーラの隠し撮り写真だ。
「……あざとい。ドーナツの粉がついたエラーラさん、実に論理的にあざといですわ……」
疲労困憊で目の下にクマを作りながらニヤニヤする彼女の背後から、冷ややかな声が降ってきた。
「……相変わらず、趣味が悪いですこと」
黒いドレススーツのナラティブだ。彼女はアスナの手を強引に掴んだ。
「な、何をするんですか!私はまだ巡回任務が……!」
「嘘をおっしゃい。立っているのもやっとじゃありませんの。責任感が強すぎるのが貴女のバグですわよ」
ナラティブは、疲労で鱗がカサカサになったアスナの尻尾を一瞥し、彼女を強引にカフェへと連れ込んだ。
温かいココアを飲まされ、少し落ち着いたアスナに、ナラティブは静かに尋ねる。
「アスナさん。貴女は公務員として、古い映画館を壊すのが『正しい』と思っていますの?」
「……規律を重んじるならば、壊すべきです。高効率なプラントは王都に不可欠ですから」
アスナは伏し目がちに答えた。だが、その声は震えていた。
「でも……ポップコーンと古いフィルムの匂いが……私の心の中の論理を揺るがすんです」
アスナの脳裏に浮かぶのは、幼い頃、父に手を引かれて光座を訪れた記憶。ドーナツを食べながらスクリーンを見上げた、あの魔法のような時間。
「……その『ノイズ』こそが、貴女の本当の美しさですわ」
ナラティブは優しく微笑み、手を差し出した。
アスナは涙を拭い、自らの首に掛かっていた規制局の最高権限アクセスパスを外し、ナラティブの手に力強く握らせた。
「……これを使ってください。私の中の、愛おしいノイズを守るために」
「ええ、確かに預かりましたわ。これで三つ目のピース、『地脈へのアクセス権限』の確保ですわ!」
その頃、王都の隅に鎮座する『光座』。
取り壊しを明日に控えたその場所は、雨に濡れ、静まり返っていた。
ロビーには、私、エラーラと、助手のゴウ、狼獣人のルル・ヴァンクロフト、そして依頼人の少年がいた。
「ようこそ。最後のお客さんたち」
出迎えたのは、背中の曲がった年老いたオーナーだった。
彼は私たちを薄暗い劇場内へと案内し、埃っぽいビロードの座席を撫でながら静かに語り始めた。
「この劇場はね、百年もの間、王都の人々を見つめてきたんだよ。戦争で傷ついた心を喜劇で癒やした日もあった。ここで出会い、結ばれた恋人たちも星の数ほどいる。映画だけじゃない、この空間に流れた『時間』そのものが、私にとっての宝物なんだ」
少年の瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「……オーナー。僕、守れなかった。全財産払っても、大人の決めたことは覆せなかった……」
「泣くのはまだ早いよ、少年」
私は少年の頭にポンと手を置いた。
「大人の論理が常に正しいとは限らない。それを証明するのが、私たち科学者の仕事だ」
私たちはオーナーの案内で、劇場の地下室へと降りた。
カビと油の匂いが充満する空間。そこに鎮座していたのは、巨大な心臓のような、真鍮製の旧世代魔導映写機だった。複雑な歯車と脈打つ魔導回路。現代の技術体系とは異なる、失われたテクノロジーの結晶。
「……美しい。設計者の狂気すら感じる完璧なフォルムだねぇ」
私は白衣の袖を捲り、スレート端末を開いた。
「ルル君、ルート構築を頼む」
「……了解。地脈のファイアウォール、解析開始。……ゲームより、簡単」
ルルは愛用の携帯ゲーム機を映写機のポートに接続し、王都の因果律と地脈のネットワークにハッキングを仕掛けていく。彼女のタイピング速度は目にも留まらぬ速さだ。
ゴウは映写機の錆びた歯車に油を差し、物理的なメンテナンスを並行して行う。
「師匠、ハードウェアの駆動系、なんとか動かせそうです!」
私はドーナツを齧りながら、映写機に接続するための膨大な論理式を空中に記述していく。黄金色の数式が、薄暗い地下室を照らし出した。
「フム。演算は順調だ。……あとは、あの騒がしくも頼もしい家族たちが、奇跡のピースを持って帰還するのを待つだけだねぇ」
雨音だけが響く地下室。
しかし、そこには確かな熱があった。王都に散らばった家族たちの想いが、一つの巨大な奇跡に向けて収束しようとしている。
少年は両手を強く握り締め、祈るように映写機を見つめていた。
「さあ、急ぎたまえ諸君。世界をひっくり返す、最高の上映時間が始まるよ!」




