定理2:ケモノの尻尾を吸いたい!(後編)
ヴェリタス探偵事務所のリビングには、いま、三つの「至宝」が顕現していた。
一つは、ナラティブの手の中で微かに震える、アスナ・クライフォルトの「竜の尻尾」。冷やりとした鱗の硬度と、その奥に脈打つ生体エネルギーの奔流。それは「武」の象徴たる硬質な美しさだ。
二つ目は、玄関で仁王立ちするリウ・ヴァンクロフトの「陽の狼尻尾」。太陽光を吸い込んだような金色の毛並みは、見るからにふかふかで、バフっと顔を埋めれば極上の弾力が返ってくるだろう野生の塊。
そして三つ目は、リウの影から湿っぽい視線を送るルル・ヴァンクロフトの「陰の狼尻尾」。リウよりも少し毛足が長く、重力に従って垂れ下がる黒い毛束は、一度絡め取られれば逃れられない底なし沼のような重厚感を放っている。
「……あ、……う、あ……」
ナラティブ・ヴェリタスの思考回路は、完全に焼き切れた。
普段の気丈な王女のような振る舞いは消え失せ、彼女はただ、右手に竜、左目の視界に陽狼、右目の視界に陰狼を収め、口を半開きにして固まっている。
彼女の脳内では今、前代未聞の演算処理が行われていた。
『竜の硬度と狼のモフモフ係数は両立しうるか?』
『三本同時に吸うための呼吸法とは?』
『そもそも、私の肺活量は足りるのか?』
「おーい! ナラティブ、固まってどうした? お前、すげえ顔色悪いぞ! 腹減ってんのか?」
リウがドカドカと土足で上がり込んでくる。彼女は、ナラティブがアスナの尻尾を握っている異常な状況を、全く気にしていない。いや、認識すらしていない。彼女の視界は常にポジティブな情報だけで構成されているバグ持ちだからだ。
「ほら見ろ!今日はデカいのが獲れたんだ!
『沼地の暴君』って呼ばれてる魔獣だぞ! これでバーベキューしようぜ!」
リウが背負っていた麻袋をドサリと床に置く。中から転がり出たのは、ヘドロにまみれた巨大なワニのような生物の死骸だった。事務所に強烈な腐臭が広がる。
「きゃあああっ!な、何を持ち込んでいるんですか! 不法投棄ですよ、不法投棄!」
尻尾を握られたままのアスナが悲鳴を上げる。彼女は公務員として、この衛生観念の欠如を許せない。しかし、尻尾を握られているため力が入らず、その場から動けない。
一方で、ルルは無言のまま、カメラのシャッターを切り続けていた。
「(……ナラちゃん。あの女の人のお尻、触ってる……。浮気? ううん、違う。ナラちゃんは、世界のあらゆる尻尾を愛してるだけ。……でも、あたしの尻尾のほうが、もっと湿気があって気持ちいいのに……)」
カシャカシャカシャカシャ!
連写音が鳴り響く。ルルの瞳からハイライトが消え、彼女の黒い尻尾が、まるで生き物のように蠢いてナラティブの方へと伸びていく。
「……ッ!」
硬質な竜の感触。迫りくる腐臭と野生の陽気。足元から忍び寄る湿った執着。
過剰な情報量が、ナラティブの限界を超えた。
「ああ……あたしは、あたしは……選べないっ!!」
ナラティブが叫んだ。
彼女はアスナの尻尾から手を離すと、ふらふらと立ち上がり、両手の鉄扇を広げた。
「こうなったら、全部よ! 全員まとめて、あたしが抱きしめてあげるわ!」
彼女は回転を始めた。鉄扇を広げたまま、独楽のように高速で旋回する。それは彼女の最強の防御技『漆黒の円舞』――の、求愛バージョンだ。
遠心力で鉄扇が風を切り、周囲の空気を巻き込む。彼女は、アスナとリウとルル、三人の尻尾をまとめて自分の懐に引き寄せようとしているのだ。
「ちょっ、風圧が! 私の証拠品袋が飛びます! エラーラさんのガムが!!」
「おおっ! すげえ回ってるな! 新しいダンスか!?」
「……ナラちゃんの風、浴びてる……幸せ……」
事務所の中が、尻尾と腐臭と風圧のカオスに包まれる。
私は残りのドーナツを口に放り込み、この喜劇を特等席で眺めていた。
やれやれ、武の達人も、性癖の前ではただの回る肉塊だねぇ。
「……いい加減になさいませ」
その混沌を断ち切ったのは、氷よりも冷たい声だった。
アリシアが、電卓を片手に立ち上がっていた。
彼女の周囲だけ、時間が停止したかのように静かだ。
旋回するナラティブも、騒ぐリウも、写真を撮るルルも、そして腰を抜かしているアスナも、全員がその「絶対的な管理者」のオーラに呑まれて動きを止めた。
「ナラティブ。貴女のその回転で、カーペットが摩耗しました。交換費用、8万クレスト」
「……へ?」
「リウさん。その汚物を持ち込んだことによる清掃業者への依頼費、並びに精神的苦痛への慰謝料、合わせて50万クレスト」
「えっ、金取るのか!?バーベキューなのに!」
「ルルさん。無許可での撮影、並びに肖像権の侵害。フィルムの没収と罰金20万クレスト」
「……っ、データは、消さないで……!」
「そしてアスナさん」
アリシアの視線が、へたり込んでいるアスナに向けられる。
「公務員が、勤務時間中に特定の市民の身体的特徴を利用して騒乱を誘発した罪。……規制局の本部に通報してもよろしいですわね?」
「ひいっ!? そ、それだけは! クビになります! 私のこれまでの完璧なキャリアが!」
アスナが真っ青になって首を振る。彼女にとって「完璧な官僚」であることは、「完璧なファンクラブ会員」であることと同義なのだ。失職すれば、私の監視(推し活)もできなくなる。
「でしたら、この場の収拾にかかった費用、全額を規制局の経費で持っていただきましょうか。……締めて、80万クレストになります」
「は、払います! 払わせてください! 領収書は『事務用品代』でお願いします!」
アスナは涙目で財布を取り出し、震える手で王家紋章入りの高額紙幣を差し出した。
アリシアはそれを優雅に受け取り、懐にしまう。
「商談成立ですわね。……さあ、皆様。解散です」
アリシアが手を叩くと、その場の空気が霧散した。
「ちぇっ、なんだよ。バーベキューはなしか。じゃあな少年! また美味い肉持ってきてやるからな!」
「(……ナラちゃんの回転動画、撮れた……。家でコマ送りで見よう……)」
ヴァンクロフト姉妹は、嵐のように去っていった。リウは腐臭のするワニを再び担ぎ、ルルはホクホク顔でカメラを抱きしめている。
残されたのは、精根尽き果ててソファに沈んだナラティブと、高い勉強代を払わされたアスナだ。
「……ひどい目に遭いました。今日はもう帰ります」
アスナはよろよろと立ち上がり、スーツの埃を払った。その手には、最初に確保した「私のガムと枕カバーが入った証拠品袋」だけは、しっかりと握りしめられている。
「やあ、ご苦労だったねぇ、アスナ君。君の献身的な捜査のおかげで、部屋が少し片付いたよ。それに、アリシア君の機嫌も直ったようだ」
「……ふん! 勘違いしないでください! これは、貴女が将来やらかすであろう大事件の予備調査に過ぎません! 次こそは、必ず……!」
アスナは捨て台詞を吐こうとして、言葉に詰まった。
彼女はチラリと私の顔を見て、次に自分の手の中の「ゴミ袋」を見て、最後に小さく、誰にも聞こえないような声で呟いた。
「(……家宝にします)」
彼女は尻尾を赤く染めながら、逃げるように事務所を出て行った。
官僚としての建前と、ファンとしての本音。その狭間で揺れ動く彼女の背中は、この王都のどんな喜劇よりも雄弁だった。
静けさを取り戻した事務所で、私は空になったマグカップを置いた。
「さて。ナラもショートしたことだし、今日はこれで閉店だね。アリシア君、夕食は?」
「80万クレストの臨時収入がありましたからね。……今夜は、リウさんが置いていったあのワニ肉のステーキにしましょうか」
「……君、あれを調理する気かい?」
「ええ。毒素を中和するハーブを大量に使えば、ギリギリ食べられますわ。食費は節約せねばなりませんもの」
アリシアが優雅に微笑む。
どうやら、今日の勝者は彼女一人のようだ。
私はソファで白目を剥いているナラティブの頭に、そっと自分の白衣をかけてやった。
彼女の夢の中では、きっと三つの尻尾が仲良く並んでいることだろう。
これが、ヴェリタス探偵事務所の日常。
論理が破綻し、欲望が暴走し、愛が管理する、バグだらけの素晴らしき一日だ。




