定理39:おなかにパワーを宿したい!(前編)
●リメイク元
「ナラティブ・ヴェリタス」爆発する理科大学生
「ナラティブ・ヴェリタス」自分のための自分の命
「ナラティブ・ヴェリタス」普通の会社のつぶし方
「ナラティブ・ヴェリタス」深夜拘束棺桶
「愛は暴力を制御し、食欲は世界を動かす質量となる。」
初夏。
王都中央駅の巨大なドーム屋根の下は、これから避暑地へと向かう帰省客たちの喧騒と、魔導蒸気機関車が吐き出す真っ白な排気で満たされていた。
その白濁した視界の中で、王都中央警察署のカレル・オータム警部は、今年一番深くて重い溜息をついた。
「……やっと、この日が来たか」
彼は今日、奇跡的に休暇を取っていた。
日頃、エラーラ・ヴェリタスという名の「知性を持った台風」の後始末に追われ、胃壁をすり減らし続けている彼にとって、これは一年越しの悲願。魂の洗濯に必要な宗教的儀式にも等しい休息だった。
隣には息子のゴウ・オータム。彼は父親譲りの常識を持ちながらもエラーラを師と仰ぐ科学少年であり、今日は最新鋭の魔導蒸気機関車『アイアン・レガシー号』に乗れることに目を輝かせている。
「いいか、ゴウ。今回の旅行は完全なる休息だ。事件も爆発も論理的なパラドックスもなし。温泉に浸かり、景色を眺め、美味いものを食う。分かったな?」
「分かってるよ、お父さん。エラーラ師匠もナラティブさんもリウさんもいない。平和そのものだよ」
そう、トラブルメーカーたちはいない。
エラーラは連日のドーナツ過剰摂取が祟り、親知らずの炎症で「私の完璧な歯列がバグを起こしている! デバッグできない痛みなんて非論理的だ!」と転げ回っている。ナラティブはその様子を「お母様の苦しむ顔……一生の宝物として最高画質で記録しなければ」とビデオ撮影に没頭しており、旅行どころではないのだ。
カレルは勝利を確信していた。
「神は俺を見捨てなかった。今日こそ静寂という名の権利を行使する!」
「お父さん、そろそろ改札が開くよ」
カレルは足取り軽く特等車のホームへと足を踏み入れようとした。
その瞬間までは、彼の世界はバラ色だった。
「あら、ごきげんよう。カレル様、ゴウ君」
ホームの蒸気の向こうから、鈴を転がすような涼やかな声。
カレルの心臓が早鐘を打った。幻聴であってくれ。
だが、そこにはレースの日傘を優雅に差した絶世の美少女、アリシア・ヴェリタスが立っていた。エラーラの養子であり、ヴェリタス家の良心を司る聖女、そして絶対管理者。今日は清楚な白いワンピースに麦わら帽子という出で立ちだ。
「あ、アリシア……ちゃん? なぜ、ここに……」
カレルの声が裏返る。だが彼の視線は、アリシアの隣で落ち着きなく揺れている「白い影」に釘付けになった。
「機関車だぁ!鉄の塊だぁ!お姉ちゃん、あれ齧っていい?爆破していい?」
グリッチ・オーディナル。エラーラの婚約者を自称する狂気の科学者であり、王都最強の危険人物。彼女は今にも線路に飛び込みそうな勢いだが、アリシアの静かな視線に射抜かれるたび、見えない首輪で縛られたように足踏みをしている。
「グ、グリッチ……!?」
「ええ。おかあさまとナラティブさんがあのような状態ですので、グリッチさんが家中の家具を分解して食べ始めまして。ガス抜きに連れ出しましたの。奇遇ですわね、ご一緒してもよろしいかしら?」
カレルの休暇計画が音を立てて崩れ去った。断れるわけがない。
「……も、もちろんだとも。ははは……賑やかになって嬉しいよ……」
「一緒だねおじさん!お祝いに靴の中にニトログリセリンを仕込んであげようか?」
「よ、余計なことをするな!」
グリッチが無邪気に叩く背中が、魔力強化のせいで異常に重い。
アイアン・レガシー号の一等客車は、王都の富裕層が利用する走る社交場だ。
真紅の絨毯、クリスタルのシャンデリア。しかし、周囲の乗客は異様だった。通路を挟んだ向かいには巨大なスーツを着たミノタウロス。斜め後ろには全身包帯のネクロマンサー。奥のラウンジでは傷だらけのオークたちがポーカーに興じている。
「お父さん。僕たちの車両、なんだか治安が悪くない?」
「しっ、見るなゴウ。彼らも善良な市民のはずだ……たぶん」
カレルが冷や汗を拭う中、列車は長い汽笛を鳴らして出発した。
「運動エネルギーの塊だねぇ!加速度が脊髄に来るよぉ!」
窓に張り付くグリッチ。
「グリッチさん、お行儀が悪いですわよ」
「はーい」
アリシアの一言で、狂犬は借りてきた猫のように席に戻った。
「さて」
アリシアがメニュー表を手に取った。その瞬間、彼女の纏う空気が「支配者」へと変わった。
「カレル様。この列車には王都随一のシェフが乗車している食堂車のケータリングがありますのよ」
アリシアはニッコリと笑った。
「事務所にいると、おかあさまの食費と賠償金で頭がいっぱいで、わたくし自身は霞を食べて生きているようなものでしたから。……今日は、食べますわ。遠慮なく。徹底的に。胃袋が悲鳴を上げるまで」
給仕のオートマトンがやってくると、アリシアの瞳に鷹のような鋭さが宿った。
「前菜に幻獣サーモンのマリネ。スープは濃厚パンプキンポタージュをボウルいっぱいに。メインは……ドラゴン・ビーフのシャトーブリアンステーキ500グラム。焼き加減はレアで」
「ご、500グラム!?」
ゴウが目を剥く。
「サイドメニューに山盛りポテト・チーズの洪水仕立て。デザートは天空のチーズケーキをホールで。あと最高級のダージリンをポットで。……以上を、わたくしの分として」
オートマトンの計算回路が一瞬フリーズした。
「ボクはねぇ、爆熱・激辛麻婆豆腐とオイルサーディンの缶詰を10個! あと機関車の魔導石炭を少々!」
「お客様、石炭は食用では……」
「じゃあ一番硬いパンでいいや。顎が砕けるくらいの!」
「……俺たちは……コーヒーだけでいい。胃薬と一緒に飲むから……」
カレルは既に固形物を受け付けそうになかった。
数分後、テーブルの上は王侯貴族の晩餐会と戦場が融合した惨状になった。
「いただきますわ」
アリシアは完璧な所作で、しかし猛獣の如き飢餓感でナイフを入れる。
「……んんっ!幻獣の生命力が舌の上で暴れていますわ! 濃厚なカボチャの旨味! これです、この『管理されていない』剥き出しの旨味ですのよ!」
「アリシアお姉ちゃん、すごい勢いだねぇ! 負けてられないよぉ!」
グリッチはカチカチのパンを魔力強化した顎で粉砕し、激辛麻婆豆腐をマグマのように啜る。
「お肉……! わたくしの元へいらっしゃい!」
分厚いドラゴン・ビーフからロゼ色の肉汁が溢れ出す。
「噛み締めるたびにドラゴンの咆哮が脳裏を駆け抜けますわ!圧倒的な弾力! 脂肪という名の愛! これぞ『生』ですわ!」
カレルとゴウは呆然としていた。普段「晩御飯はもやしですわ」と微笑む聖女はいない。食欲に憑りつかれた腹ペコ美少女がいるだけだ。
「今日は誰もわたくしを止められませんわ。わたくしが、わたくしの管理者になるのですから」
だが、その優雅なる暴食の宴は、唐突な暴力で中断された。
ドガァァン!!
後方のドアが蹴破られ、魔導ライフルを持った覆面の男たちが雪崩れ込んできた。
「動くな! 反魔導過激派『ビター・ロースト団』だ! この列車は制圧した!」
天井へ威嚇射撃。だが、ミノタウロスは新聞をめくり、オークは殴り合いを続けている。銃を持った人間など背景に過ぎないのだ。
「……リーダー、無視されてるぞ……」
怯むテロリストは、弱そうなカレルたちのボックス席を人質に選んだ。
「おい嬢ちゃんたち、大人しくしろよ」
男がアリシアの肩に手を伸ばした瞬間、全員の背筋に絶対零度の戦慄が走った。
アリシアはプリンの容器を置き、ゆっくりと顔を上げた。
慈愛の瞳の奥に、至福のデザートタイムを邪魔されたことへの静かなる激怒が渦巻いている。隣のグリッチはニコニコしながら、フォークでテロリストの急所を狂いなくロックオンしていた。
「ひっ……! リーダー、手を出したら俺たちの存在自体が『消化』される気がします……」
「馬鹿な。ただの小娘だぞ!」
恐怖を押し殺すリーダーに、アリシアが微笑むと、リーダーの足がガクガク震え始めた。
カレルが警察手帳を出す。
「王都警察だ。君たちの目的は何だ」
「俺は元々、この先の『ブロンソン・インダストリー』の社員だったんだ!」
「不当解雇か?」
「違う! あそこの給湯室のコーヒーが!不味かったんだよぉ!」
リーダーが血涙を流して絶叫した。
「は……?」
「俺はコーヒー党なんだ!なのに社長が経費削減で謎の豆に変えやがった!だからこの列車ごと本社ビルに突っ込んで、あの忌々しいコーヒーサーバーごと爆破してやるんだ!」
くだらなすぎる動機にカレルが頭を抱える中、ゴウが冷静に指摘した。
「お父さん。あの爆弾、振動制御が入ってないから、この先の急カーブの遠心力で誤作動して爆発するよ」
「な、なんだと!?」
パニックになったリーダーは客車を飛び出し、運転室へ駆け込んでアクセルを最大出力に押し込んだ。
機関車が猛然と加速する。前方には急カーブ、その先には本社ビル。
「まずい! ブレーキが壊された!」
車内が揺れる中、アリシアは深く溜息をついた。
「皆様、お静かに。……少し、教育が必要なようですわね」
そして、ワクワクしているグリッチに告げた。
「グリッチ。停車なさい」
「了解だよぉ! 分子レベルの急ブレーキ、かけちゃうねぇ!」
グリッチが窓枠を蹴って車外へ飛び出した。
「風が気持ちいいよぉ!」
彼女は屋根の上を疾走し、先頭車両の排気口付近へ飛び降りた。
「物理的制動、発動!」
グリッチの全身から紅蓮の魔力が噴き出し、強化した両足を走行中の車輪の側面に直接押し当てた。
ギギギギギギギギッ!!
鼓膜をつんざく金属音と火花。数百トンの鉄塊の運動エネルギーと、グリッチの狂気的な膂力が衝突する。
列車が傾きながらカーブに突入し、脱線しかけた瞬間。
「傾くなら、戻せばいいんだよぉ!」
グリッチがアウトコースへ回り込み、宙に浮いた車両の側面を思い切り殴りつけた。
ドォォォォォン!!
物理法則への冒涜。数トンの車両を力技で線路に叩き戻し、そのまま地面に足を突き立てて最終ブレーキをかける。
悲鳴のような音を残し、列車はブロンソン・インダストリー本社ビルの玄関前、わずか数センチ手前でピタリと停止した。
静寂。テロリストたちは精神的限界で白目を剥いて失神していた。
リーダーは「もうコーヒーには砂糖もミルクもたっぷり入れます……」と虚ろに呟いている。
「ただいまぁ!壊さずに停めたよぉ!褒めて褒めて!」
煤だらけのグリッチが戻ると、アリシアはハンカチで顔を拭い、頭を撫でた。
「ええ。大変よくできましたわ、グリッチさん」
数時間後。目的地の温泉宿。
カレルは夜空を見上げて独りごちた。到着早々、地元の警察と連携して仕事に追われ、温泉に浸かれたのは深夜だった。
「はぁ……。結局、こうなるのか。でも、温泉は気持ちいい……」
隣の女湯からは楽しげな声が聞こえる。
「アリシアお姉ちゃん、背中流してあげるー!」
「くすぐったいですわよ。……ふふ、でも今日はたくさん食べましたわね」
風呂上がり、カレルの端末が鳴った。エラーラからだ。
『やあカレル君。ニュースを見たよ。私の婚約者が列車を素手で止めたそうだね。ところで、私の分の温泉まんじゅうは確保したかね? 限定の激甘マグマ饅頭だよ。カロリーが枯渇しそうだ』
カレルは無言で通信を切り、深く湯に潜った。
翌日の新聞は報じた。
『謎の美少女二人組、テロ阻止!感謝の印として全社員に最高級コーヒー豆支給へ!』
世界は今日も、ギリギリのバランスで平和を保っている。




