定理36:ミームの汚染を食い止めたい!(後編)
王都第一公衆浴場『テルマエ・ギア』の巨大な蒸気扉が開くと、そこには文明の排熱が作り出した「白銀の迷宮」が広がっていた。天井を這う無数の真鍮製パイプからは、地脈から汲み上げられた魔力混じりの熱水が唸りを上げて流れ込み、浴室全体が心地よい重低音に震えている。
「……フム。この湿度は、肺胞を直接洗浄するような論理的な快感だねぇ」
エラーラ・ヴェリタスは、タオル一枚という極めて「非防御的」な姿でありながら、その知性の輝きは一切衰えていなかった。彼女は浴室の壁面を走る配管に聴診器を当て、内部を流れる熱水の振動を読み取っている。彼女にとって、風呂とは単なる洗浄の場ではなく、流体力学と熱力学が織りなす真理の実験場なのだ。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん! あそこの電気風呂、電圧が虹色に揺れてるよ!」
グリッチ・オーディナルが、白髪を揺らしながら浴室の奥へと走り出す。彼女の赤目は、未知の物理刺激を求めて怪しく光っていた。
「こら、グリッチ。走ってはいけませんわ。転んでバグが増えては元も子もありませんわよ」
アリシア・ヴェリタスが、優雅にその後ろを歩く。彼女の金髪ウェーブは湯気に濡れてさらに輝きを増し、その絶世の美貌は、浴室内の全女性を平伏させるほどの神々しさを放っていた。彼女にとって、この喧騒さえも愛すべき家族の団欒の一部なのだ。
一方、洗い場の一角。ナラティブ・ヴェリタスは、低い椅子に座りながら、隣のブースに視線を固定していた。彼女の赤目は、獲物を狙うそれと全く同じ鋭さを持っていた。
「……あたしは今、歴史的瞬間に立ち会っているのかもしれないわ……」
ナラティブの視線の先には、同じく洗い場に陣取るアスナ・クライフォルトがいた。アスナは、細縁眼鏡を曇らせながら、曇ったレンズをちまちまと手拭いで拭きながら、丁寧に体を洗っていた。
アスナの背中から伸びる、立派な竜の尻尾。それが、お湯を浴びるたびに艶やかに輝き、先端の房毛が水分を含んで重たげに床を叩いている。ぺたん、ぺたん。その無防備な音を聞くたびに、ナラティブの心拍数は跳躍的に上昇していった。
(……信じられないわ。あの極太の鱗。熱気でほんのりと赤みを帯びた、あの質感を……あたしは今、至近距離で見ている……!)
ナラティブの手の中で、石鹸がミシミシと音を立てていた。彼女は、その場で尻尾に飛びかかりたい衝動を抑え込んでいた。
だが、その時。平和な浴場に、異変が起きていた。
浴室の隅にある「超高圧魔導ボイラー」の排気口から、どろりとした漆黒の液体が溢れ出してきたのだ。
それは単なる汚れではない。長年蓄積された魔力の残滓が、浴室内の湿気と人々の「リラックスした思念」を喰らって実体化した怪異『魔導ヘドロ・ゴースト』だった。
その正体は、昼間に探偵事務所の前で爆発した「ノイズ」の成れ果てである。
何百人もの市民が、リチウムフラワーという些細なきっかけに託して放出した、身勝手な主張と承認欲求。それらは書類として受理された瞬間に「公的なデータ」という重みを持ち、王都の地脈を逆流した。
本来なら霧散するはずだった彼らの「叫び」は、お風呂場の高圧蒸気という触媒を得て、物理的な質量を持つ怪物へと跳躍を果たしたのだ。
それはまさに、数時間前にナラティブたちが相手をした「騒がしい群衆」の、無言な影法師であった。
その怪異は、魔力を持つ者にとっての天敵だった。周囲の魔素を急激に吸収し、魔術師の神経を麻痺させてゆく。
「フム……!? この空気の粘度、論理的に言って……身体自由が、奪われ、る……」
エラーラが膝をついた。魔力出力が異常なノイズに阻害され、指一本動かすのがやっとの状態になる。
「お姉、ちゃ……魔力が、吸い出される……っ!」
最強の矛であるグリッチさえも、その「魔力の真空」に飲み込まれ、床にへたり込んだ。アリシアもまた、その慈愛のオーラを維持できず、壁に背を預けて静かに目を閉じる。
アスナにいたっては、竜人特有の「魔力依存体質」が仇となり、尻尾をだらりと垂らして「はぅぅ……力が入らないですぅ……眼鏡が……重い……」と、スライムのように溶けていた。
『ギ、ギギギ……魔力、美味イ……高純度ノ、知性……愛……狂気……全ブ、喰ラウ……』
漆黒の怪異が、獲物を定めて触手を伸ばす。狙いは、最も濃厚な魔力を持つエラーラだ。絶体絶命の瞬間。
しかし、そこに「異物」が一人。
「……ちょっと、邪魔よ」
ナラティブ・ヴェリタスが、不機嫌そうに立ち上がった。
彼女は今、最高に機嫌が悪かった。なぜなら、アスナの尻尾をじっくりと鑑賞しようとしたその極上の瞬間を、この「わけのわからない背景」に邪魔されたからだ。
ナラティブには魔力がない。ゼロである。ゆえに、この怪異の「魔力吸収」も「神経麻痺」も、彼女にとってはただの「湿った生暖かい風」に過ぎなかった。
「何なのよ、このボロ雑巾みたいなのは。エラーラお母様の新しい掃除用具? それとも最新の垢すりタオルかしら?」
『……!? オレ、視エテ……イナイ……? 魔力、ゼロ……? 餌、デスラナイ……?』
怪異が困惑し、ナラティブに向かって威嚇の触手を振り上げる。だが、ナラティブはそれを「鬱陶しいハエ」を払うような動作で、素手で掴み取った。
「触らないで。あたしのドレス――あ、今はタオルね。とにかく、レディの肌に触れるなら、一流の素材を用意しなさいよ」
ナラティブは、そのまま怪異の本体――ヘドロの塊を、両手でガシッと掴んだ。魔力がない彼女にとって、それはただの「弾力のある大きなスポンジ」でしかなかった。
「ちょうどいいわ。アスナさんの尻尾を洗うためのスポンジを探してたのよ。……お母様、これ、借りていくわね!」
『ギャ、ギャアアア!? 放セ! オレハ、王都ノ、恐怖……ッ!』
「うるさいわね。一流のスポンジは、もっと静かに仕事をするものよ!」
ナラティブは、怪異の本体を雑巾のように力一杯絞り上げた。ミシミシ、という物理的な破壊音が響く。魔力による攻撃は一切通じないはずの怪異だったが、ナラティブの「純粋な物理的膂力」と「容赦のない握力」は、その霊的な結合を無理やり引き剥がしていった。
ナラティブはそのまま、怪異を床に叩きつけ、手近にあった「業務用・超強力魔導洗剤」をドボドボとぶっかけた。
「ほら、シャキッとしなさい! 汚れを落とすのがアンタの仕事でしょう!」
ナラティブは怪異を「タワシ」代わりに使い、浴室のタイルを猛烈な勢いで磨き始めた。
彼女の超高速な腕の動きは、真空の刃を生み出し、怪異の核を物理的に粉砕していく。
『モ、モウダメダ……! 掃除サレル……消サレル……ッ!』
怪異は「王都の恐怖」としてのプライドを完膚なきまでに叩き潰され、ナラティブの「掃除への情熱」に焼き尽くされて、ただの「泡立ちの良い廃材」へと成り下がった。
数分後。
ナラティブが満足げに腰に手を当てて立ち上がると、そこにはピカピカに磨き上げられたタイルと、完全に消滅した怪異の残骸しかなかった。
「ふぅ。少しは綺麗になったかしら」
ナラティブが振り返ると、魔力吸収から解放されたエラーラたちが、呆然とした顔で彼女を見上げていた。
「……フム。ナラ。君は今、王都の魔導災害レベルの怪異を、単なる『労働』で駆逐した自覚はあるかな?」
「え? 怪異? 何の話よ。あたしはただ、落ちにくい汚れを気合で落としただけよ。……あ、アスナさん! 大丈夫?」
「……は、はい……。なんだか、凄まじい風圧を感じましたが……」
アスナは、ぐったりしながらも眼鏡をかけ直し、自分の尻尾が無事であることを確認して安堵していた。
「良かったわ。さあ、仕上げにその尻尾、あたしが磨いてあげる! 一流の輝きにしてあげるから、覚悟しなさい!」
「ひぇぇっ!? 遠慮しますぅぅ! 自分で洗えますからぁぁ!」
アスナの悲鳴が響き渡り、エラーラとアリシアは顔を見合わせて笑った。グリッチは「さすがナラちゃん、お姉ちゃんの次に暴力的だね!」と拍手をしている。
「……それにしても、お母様。あのヘドロ、なんだか最後の方、おじ様たちの声みたいな音で泣いていましたわよ」
「だろうねぇ。あれは王都の『声』そのものだったからね。ナラ、君が物理的にあの怪異を絞り上げたことで、図らずも王都の地脈の目詰まりが解消されたというわけだ。……君の暴力は、時に最高に効率的なデバッグになる」
「……掃除と言ってくださるかしら?」
溢れ出た声が泥になり、その泥が洗い流されて、また新しい明日が始まる。
論理と非論理、真理と誤謬。そのすべてが王都の配管を通り、浄化されていったのだった。




