定理37:ぽっちゃりイラストレーターと付き合いたい!(前編)
「恋愛の定義は、胃袋の充実度と種族間の言語変換において致命的なバグを抱えている」
王都中央警察署の片隅。
ヴェリタス探偵事務所の出張デスクで、ゴウ・オータムは絶望していた。
彼の視界を占拠しているのは、真っ赤な数字。百五十億クレスト。
それはエラーラ・ヴェリタスという「バグの体現者」が積み上げた、純然たる負債の質量だった。
「……あ。また利子が。今、瞬きした瞬間に三万クレスト増えました」
「フム。経済とは流動的なものだね。止まった水が腐るように、動かない数字に価値はないよ」
ゴウの抗議を、エラーラは『蒸気焼きモルテンドーナツ』の爆発的な甘さで受け流した。
「ん〜っ!脳が焼けるねぇ!この暴力的なまでの糖分と脂質。これが私の思考演算を支える燃料なのだよ」
エラーラは、一口で莫大なカロリーを摂取し、瞬時にそれを魔力へと変換してみせる。
ゴウはふと気づいた。
「……師匠。もしかして、強い人って……」
「ん?」
「いえ。なんでも……」
バァァァン!!
事務所の扉が、物理法則を無視した音を立てて粉砕された。
そこには、太陽の光をそのまま肉体にしたような少女――リウ・ヴァンクロフトが立っていた。
「よお少年!腹、減ってないか!?」
「リウさん!扉!扉の修理代がまた借金に……!」
「あはは!そんなの、美味いもん食えば忘れるぜ!」
リウは金髪のポニーテールを跳ねさせ、極太の尻尾を勢いよく振った。
リウの手には、王都の屋台『鉄錆屋』の人気メニュー、『魔導燻製ベーコンの極太串』が握られていた。
「見ろよこの脂の照り!炭火と魔力でじっくり炙り出された、豚の魂の結晶だ!ほら、半分やるよ!」
リウは、肉厚なベーコンを素手で引きちぎり、ゴウの口に突っ込んだ。
「はむっ!?……っ、うわ、すごい!」
「王都の蒸気の香りが鼻を抜ける!脂が舌の上で踊ってるぜ!」
リウ自身も、残りの肉を豪快に口に放り込んだ。
ゴウは確信した。リウのあの異常な身体能力、銃弾さえも風圧で逸らす圧倒的な「力」の源泉。
それは、この一切の迷いがない食事にある。
彼女たちは、食べることで「自分はここに生きている」と世界に宣言しているのだ。
「美味い……。なんだか、悩んでるのが馬鹿らしくなってきました」
「いい傾向だ!腹がいっぱいなら、世界征服だって簡単だぞ!」
「それはエラーラさんの野望です!」
「フム。エネルギー充填は完了したようだねぇ」
エラーラが最後の一口のドーナツを飲み込み、不敵に笑った。
「さて、ゴウ君。リウ君。借金返済という名の、レクリエーションの時間だ」
目的地は、ジャンク街『歯車通り』。
そこは、捨てられた機械の部品と、安価なスパイスの香りが混じり合う、王都で最も生命力の強いスラムだ。
リウは立ち並ぶ屋台に目を輝かせ、尻尾をパタパタと左右に振った。
エラーラは歩きながら、屋台の『地脈揚げポテト』を袋ごと買い占め、リウと分け合いながら進む。
「このポテト……ピリ辛の魔法粉末が効いてて、止まらねえ!」
「あはは、リウさん。口の周りが粉だらけですよ」
三人が辿り着いたのは、廃墟となった旧王立魔導大学の地下倉庫。
『幽霊金庫』と呼ばれる、情報の淀み。
そこには、一人の老紳士の幽霊が、空中に浮かぶ数式に絶望していた。
『……完璧な……解が……出ない……。論理が……枯れている……』
幽霊は半透明の指で、数式を書き直しては消している。
「彼は、数学的に完璧な美を求めて死んだ『執着のバグ』だ」
エラーラがポテトを咀嚼しながら解説する。
「胃袋のない幽霊には、新しいエネルギーが供給されない。だから彼の論理は、数百年前から一点も進歩していないのだよ」
「論理なんてどうでもいい!じいさん、あんたの絵は白黒でつまんないよ!」
リウが前に出る。
彼女は腰のポーチから極彩色の絵具――『爆発性魔導インク』を取り出した。
「芸術ってのは、内側から溢れ出すエネルギーの爆発なんだ!喰らえ!」
リウが絵具の瓶を叩き割ると、地下室に鮮やかな色彩の嵐が吹き荒れた。
幽霊の書いた数式が、リウの「情熱」という名の暴力によって塗りつぶされていく。
リウは笑いながら、魔導インクが飛び散った筆を振るった。
その動きは、先ほど食べたベーコンのエネルギーを、そのままキャンバスにぶつけるような、圧倒的な生命の躍動。
ゴウは、その「食から変換された力」を、魔導センサー越しに観測し、震えた。
「……すごい。リウさんの魔力波形、さっきベーコンを食べた瞬間から、正確に十五%上昇してる」
『……あ……。これは……。……暖かい……』
幽霊が呟いた。
リウがぶちまけた極彩色の絵具が、空中の数式と融合し、黄金色の光を放つ。
それは、理屈ではない。
ただ、「腹を空かせた生者が、力いっぱいに描いた」という、圧倒的な事実。
ゴコンッ、という重厚な音が、金庫の奥から響いた。
扉が開く。
そこには、金銀財宝ではなく、棚を埋め尽くすほどの『ソースコードの石碑』が眠っていた。
「……やった。これがあれば、お母様の借金も……!」
「へへっ、いい汗かいたぜ! 少年! いい運動だった! 腹が減ったぜ!」
リウは煤けた顔で笑い、尻尾を満足げに振った。
そこへ、地上から呑気な足音が近づいてくる。
エラーラ、アリシア、ナラティブ、そして規制局のアスナ・クライフォルトが到着した。
「お見事だねぇ。リウ君の熱量と、ゴウ君の制御。まさに情報の新陳代謝だ」
エラーラが拍手をする。
アスナが電卓を手に、部屋を埋め尽くす石碑の山を鑑定し始めた。
「……この石碑の売却益は……概算で百億クレストに達します!」
「百億!?」
ゴウと、駆けつけたカレル警部が歓喜の声を上げた。
「やった……!これでお父さんの胃薬も減る……!」
だが、アスナの電卓は止まらなかった。
彼女の指は、加速し、摩擦で煙を上げ始める。
「……しかし。魔導爆発による環境汚染。歴史的建造物の不法侵入。そして、魔導絵具による、重要文化財の深刻な汚損……」
アスナが眼鏡をキラリと光らせ、判決を下した。
「修復費用および罰金。差し引き、九十九億九千万クレストのマイナスです」
「…………え?」
ゴウの時間が止まった。
「実質的な返済額は、一千万クレストになります。お疲れ様でした」
「一千万……。……一千万……」
ゴウは膝から崩れ落ちた。
百億稼いで、九十九億九千万の罰金。
それが、この事務所が抱える「不条理」という名のバグだった。
「フム。一千万か。……今月の最高級晩ごはん代としては、十二分だねぇ!」
エラーラは、全く動じることなく微笑んだ。
・・・・・・・・・・
僕、ゴウオータムはその日の夜、ヴェリタス探偵事務所で、今日という一日をスレートに記録していた。
今回の事件で、僕はある「生物学的な、あるいは魔導的な仮説」を立てるに至った。
それは、この事務所を取り巻く女性陣の「強さ」と「胃袋」、そして「体型」に関する、あまりにも非論理的で、しかし絶対的な相関関係についてだ。
まず、僕の師匠であるエラーラ・ヴェリタス。
彼女は間違いなく、この王都で最強の魔導師の一人だ。彼女は、僕が知る限り、この事務所で最も「食べる」。
朝から晩までドーナツを咀嚼し、高カロリーな魔導飲料を喉に流し込む。その結果として、彼女の白衣の下のお腹は……控えめに言っても「出ている」。
対照的なのが、ナラティブさんとグリッチだ。
二人はヴェリタス家の実戦部隊であり、その体型は驚くほど引き締まっている。
ナラティブさんは「戦士は常に飢えていなければならない」とか言って、常にお腹を空かせては何かを食べている。
グリッチはグリッチで、何でも食べる。鉄屑から魔力ポーションまで、文字通り何でもだ。でも、彼女たちは太らない。食べた端からすべてを破壊衝動と熱量に変えて消費してしまうからだ。
「……あう。ゴウ君……、おかわり……ある?」
ソファで丸まって寝ているルルさんが、寝言で僕の裾を引く。
彼女もまた、この仮説を補強する重要なサンプルだ。
ルルさんは引きこもりで運動不足、その上、リウさんが持ってくる高タンパクな肉料理を際限なく食べる。だから、彼女のお腹もまた、師匠と同じように「ぽっちゃり」と出ている。
普段は陰気で弱々しいけれど、彼女が本気でハッキングを始めた時の集中力と、地脈を逆流させる魔力の太さは、あのお腹に蓄えられた栄養があってこそだろう。
そして、アスナさん。
王都魔導規制局の厳格な官僚である彼女もまた、僕たちの事務所に「捜査」に来るたび、アリシアさんに高額な茶菓子を振る舞われ、それを一つ残らず完食していく。
竜人である彼女は、食べれば食べるほど鱗の硬度が増し、お腹も出て、その魔力出力は跳ね上がる。
では、管理者のアリシアさんはどうだろう。
彼女はこの家で唯一、常に完璧な体型を維持している。そして、最も「食べない」。
皆に食事を振る舞い、管理することに全力を注ぎ、自分は薄いクラッカーと紅茶だけで済ませてしまう。
だからだろうか、アリシア姉さんは戦闘力という点では、この家で最も「弱い」。
もちろん、管理能力や威圧感は最強だけれど、物理的な「出力」という面では、摂取量の少なさがそのまま反映されているように思える。
最後に、リウさんだ。
彼女は「よく食べる」。師匠ほどではないが、野生の獣のように豪快に、そして美味そうに食べる。
その体型は、ナラティブさんのような「研ぎ澄まされた細さ」ではない。
適度な筋肉の上に、美味しそうに蓄えられた「ハリのある肉付き」。
まさに「健康的なぽっちゃり」の極致だ。
ここで、僕は一つの「真理」に突き当たった。
スレートのペンを持つ手が、震える。
……お腹が出ている人ほど、魔力の貯蔵量が多い。
……そして、お腹が出ている人ほど、その……「おっぱい」が、驚くほど、でかい!
エラーラ師匠しかり。ルルさんしかり。アスナさんしかり。
あのお腹の柔らかな膨らみと、比例するようにして存在感を主張する胸の質量。
それは魔導師としての、あるいは生物としての「豊穣」の証だ。
「フム。ゴウ君、深夜に何をそんなに熱心に計算しているんだい?」
背後から、ぬるりと、ドーナツの匂いと共にエラーラ師匠が現れた。
白衣の下には、彼女の柔らかそうなお腹がある。
そしてその上には、もはや重力に抗うことを放棄したかのような、圧倒的な質量の「真理」が鎮座していた。
「あ、いえ!……師匠。師匠は、もっとたくさん食べるべきだと思います!」
「珍しいねぇ。いつもは健康管理がどうのと言って、私のチョコドーナツを取り上げるくせに」
「いえ、それが真理だと気づいたんです。師匠が食べれば食べるほど、この世界は平和になります!」
「よく分からないが、肯定的なのは良いことだ。夜食に奥泉のラーメンでも出前させようか」
「はい!喜んで!」
僕はスレートを閉じた。
「定理……お腹の膨らみは、夢の膨らみである。……これも、記録しておこう」




