定理17:最強のヴィランを倒したい!(前編)
●リメイク元
「エラーラ・ヴェリタス」吐きだめの魔獣
「ナラティブ・ヴェリタス」役者の意義
「ナラティブ・ヴェリタス」襲来する支持率
「ナラティブ・ヴェリタス」顔のない悪魔
「隠蔽された嘘のエネルギー保存則は存在しない。真実は必ず、エントロピーの増大と共に流出する」
ヴェリタス探偵事務所の汚れたリビング。
「……おかしいねぇ。私の知性は宇宙の真理を解き明かしているはずなのに、なぜ通帳の数字は、加速的に負の値へと滑落していくのか」
エラーラ・ヴェリタスは、百五十億クレストという天文学的な数字が記された督促状を指先で弄びながら、冷めた珈琲を啜った。
「ねえナラ君。……そろそろ、世界征服でもしようかな。全人類を私のデバッグ対象にして、この不完全な社会構造を根底から書き換え、負債という概念そのものをフォーマットしてしまうんだ。そうすれば、私のドーナツ代も実質的に無料になるよ」
「寝ぼけたこと言ってないで、早くそのドーナツの燃えカスを片付けなさいな、お母様!」
「あらあら、おかあさま。また不穏なことを」
ナラティブが呆れ顔で返答し、アリシアが嗜めるように微笑んだ。
「借金は返せば減りますけれど、『世界征服』は『維持』が大変そうですわ……。さあ、お母様もこれ以上ナラティブを困らせないでくださいましね」
「……手厳しいね。だが、いつか、『この世界の不条理をすべてデバッグ』してあげるとも」
エラーラは白衣を翻し、再び計算機へと向かった。
そんな事務所の喧騒を背後に、ナラティブは気高く、かつ必死な足取りで街へと繰り出したのである。
王都の休日は、蒸気機関の排気音と、人々の活気ある喧騒に包まれていた。
空には巨大な広告飛行船が影を落とし、地上では最新式の魔導車と、時代遅れの馬車が交差する。この混沌とした風景こそが、魔導産業革命の最中にある王都の「正常」な姿だった。
その一角、オープンカフェ『ル・シエル』のテラス席にて。
ナラティブ・ヴェリタスは、人生最大のミッションに挑んでいた。すなわち、片思いの相手である狼獣人、リウ・ヴァンクロフトとの「デート」である。
「リウ、あそこのケーキ、とても美味しいそうですわよ。……よろしければ、一口いかが?」
ナラティブは頬を赤らめ、フォークに乗せたイチゴを差し出した。黒のドレススーツを完璧に着こなし、鉄扇を膝の上に置いた彼女は、いつもの戦士の顔ではなく、恋する乙女の顔をしていた。
だが、対面に座るリウは、豪快にステーキサンドを頬張りながら、金髪のポニーテールを揺らした。
「んぐ、もぐ……うん!ありがとね、ナラティブ!でもあたし、甘いもんはパスかな!それより見てよ、あの雲! 今にも弾け飛びそうな形をしてる!」
「……そうですわね。とても前衛的な形ですこと……」
リウの見た目は尻尾の生えたワイルドなお姉さんだが、中身は少年のように純粋で……そして、絶望的に鈍感だった。ナラティブのフォークは行き場をなくし、空を切る。
さらに、テーブルの端では、もう一人の尻尾の者が黙々とパフェを食べていた。
「……ん。美味しい。……ナラちゃん、これ経費で落ちる?」
「落ちるわけないでしょ!ま……今日は奢りなんだから、感謝して食べなさいよ、ルル!」
「……あう。ごめんなさい……」
黒髪ロングの狼獣人、ルル・ヴァンクロフト。リウの妹分であり、ナラティブのゲーマー仲間でもある彼女は、普段の引きこもり生活から無理やり引っ張り出され、今はパフェという要塞の攻略に専念していた。
ナラティブは深いため息をついた。これではデートではなく、単なる「ランチ」である。
『落ち着け、あたし。リウのこの鈍感さもまた、魅力の一つ……』
ナラティブが自分を慰めようとした、その時だった。
アスファルトを揺らす地響きと共に、カフェの平和な空間が、唐突に引き裂かれた。
ズドォォォォン!!
悲鳴と共に、客たちが逃げ惑う。
土煙の中から現れたのは、二つの異形だった。
一体は、薄汚れた灰色の着ぐるみを纏ったような巨体。顔には片目の欠けた「コアラ」の仮面を被り、その手には身の丈ほどもある巨大な解体用ハンマーを引きずっている。
もう一体は、ボロボロのピンク色の毛皮を纏った小柄な影。顔には耳の折れた「ウサギ」の仮面を被り、両手には身長と同じ長さの、凶悪なギザギザがついた巨大な棒ヤスリを握りしめている。
『ハンマーコアラ』と『ヤスリウサギ』。
その出で立ちは遊園地のマスコットのようでありながら、全身から放たれる気配は、生物としての温かみを完全に欠落させていた。
「……なんだあれ? 新手のサーカス?」
リウがステーキサンドを飲み込み、目を細める。
だが、次の瞬間、その認識は修正を余儀なくされた。
コアラの怪人が、進路にあった街灯を、無造作にハンマーで叩いたのだ。
まるで粘土を潰したような音と共に、鋼鉄の街灯が紙のように「平ら」になったのだ。物理的な強度を無視した、概念的な圧縮。
「……歪み。……直す」
コアラの仮面の奥から、少女のような声が漏れた。
「……ザラザラ。……磨く」
ウサギの怪人が、逃げ遅れた紳士の背中を、棒ヤスリで一撫でする。
一瞬の出来事だった。紳士の着ていた高級スーツが繊維の一本も残さず削り取られた。
紳士が白目を剥いて倒れる。
二体の怪人は、周囲の悲鳴など聞こえていないかのように、ただ一点を見つめていた。その視線の先にいたのは、カフェの奥で震えていた一人の美しい女優だった。
怪人たちが女優に向かって直進する。その進路上にあるテーブルも、椅子も、逃げ遅れた人々の服も、全てが「平ら」にされ、「削り」取られていく。
「ナラティブ!危ない!」
怪人たちの進行方向に、ナラティブがいた。
リウの瞳が鋭く光る。
「あたしのナラティブに手出しはさせないよ!姉貴分として、いいとこ見せてやるんだから!」
リウは獣人の身体能力を全開にし、ヤスリウサギの目の前へ瞬間的に肉薄した。彼女の拳は、岩をも砕く威力を持っている。
「オラァッ!」
リウの拳が、ウサギの仮面を捉える――はずだった。
ウサギが、ぬらりと動いた。
棒ヤスリの側面で、リウの拳を受け流したのではない。「摩擦係数ゼロ」の動きで、リウの拳をヤスリの表面に滑らせたのだ。
「うわっ!?」
リウの拳が一瞬でツルツルになった。さらに、その勢いのままウサギがヤスリを振り上げる。
「……邪魔。……ザラザラ」
「ちょ、タンマ!あたしの拳がツルツルに……って、うわぁぁぁ!」
ウサギの下から上へのカチ上げ攻撃。リウの身体はゴルフボールのように宙を舞い、そのままカフェの屋根を突き破って、彼方へと消えていった。
「リウーッ!」
ナラティブが絶叫する。
その横で、ルルが震えながらスレート端末を取り出した。彼女は武器を持たない。その代わり、ハッカーとしての技能で援護しようとしたのだ。
「……あう。リウお姉ちゃんが……。許さない。……解析、開始」
ルルの指が高速で画面を叩く。街の防犯システムと魔導スキャンをリンクさせ、怪人たちの弱点構造を探ろうとする。
だが、画面に表示されたのは「エラー」の文字だけだった。
「……データが……存在しない?」
ルルが呆然とする間に、コアラがハンマーを振りかぶった。その距離、二十メートル。物理的に届くはずがない。
しかし、コアラがハンマーを地面に叩きつけると、衝撃波が地を這い、ルルの足元の地面だけがボコォッと「隆起」して彼女を弾き飛ばした。
「……あうぅぅッ!お尻がぁぁぁ!」
ルルもまた、姉貴分の後を追って星になった。
「ルル!リウ!……よくも!」
ナラティブは鉄扇を開き、ドレスの裾を翻して戦場の中央へと躍り出た。
リウを一撃で葬り、ルルの解析を無効化した怪物たち。だが、今のナラティブには恐怖よりも、愛する者たちを傷つけられた怒りが勝っていた。
「あたしの鉄扇は、貴女たちのそのふざけた玩具とは年季が違いますわ!覚悟なさい!」
ナラティブが踏み込む。その速度は、先ほどのリウを凌駕していた。
彼女は「武の人」。魔力を持たない代わりに、肉体の可能性を極限まで研ぎ澄ませた戦士だ。
ナラティブは鉄扇でコアラのハンマーを「受け流し」、その回転力を利用してウサギのヤスリを「弾いた」。
ガガガガッ!
火花が散る。
重い。異常なほどに重い。
コアラの一撃は、単なる質量攻撃ではない。「対象を地面に縫い付ける」ような、重力の呪い。
ウサギの斬撃は、鋭さではない。「存在を削り取る」ような、概念的な浸食。
『魔法生物?キメラ兵器?い……違う。魔力を感じない。これは、もっと別の、純粋な……執着の塊……!』
ナラティブはバックステップで距離を取りつつ、冷や汗を流した。
彼女の直感が告げている。こいつらは、生物ではない。「現象」そのものだと。
だが、引くわけにはいかない。ここで引けば、背後で腰を抜かしているルミが殺される。
ナラティブは呼吸を整え、構えを変えた。ヴェリタス流護身術、対巨獣用カウンター。
「そこっ!」
コアラの大振りを誘い、その懐に飛び込む。鉄扇の先端を、コアラの仮面の隙間――視界の死角に突き入れる。
決まった。
誰もがそう思った瞬間。
コアラの拳があり得ない角度で伸び、ナラティブの腹を殴打した。
「ガハッ……!?」
呼吸が止まる。
怯んだナラティブの背後に、いつの間にかウサギが回り込んでいた。音もなく。気配もなく。ただ「そこに在る」だけの絶望として。
「……仕上げ」
ウサギのヤスリが、ナラティブの背中を、優しく、しかし無慈悲に撫でた。
特注のドレスが、まるで薄紙のように削り取られ、宙に舞う。そして、その下の皮膚に、冷たい鉄の感触が食い込んだ。
「あぁぁぁぁッ!」
ナラティブの身体が、ハンマーの一撃で真横に吹き飛ばされた。
彼女はカフェの壁を突き破り、瓦礫の中に埋もれた。意識が明滅する。鉄扇を取り落とし、指一本動かせない。
「……リウ……ルル……」
薄れゆく視界の中で、ナラティブは見た。
二体の怪人が、自分には目もくれず、再びルミに向かって歩き出す姿を。
彼女たちにとって、ナラティブという戦士は「障害物」ですらなかった。ただの「削りカス」として処理されたのだ。
「キャァァァッ!来ないで!誰か、誰か助けて!」
女優の悲鳴が響き渡る中、遠くからパトカーのサイレンが近づいてくるのが聞こえた。
ヴェリタス探偵事務所。
重苦しい沈黙が、部屋を支配していた。
ソファには、全身包帯だらけのナラティブが横たわっている。アリシアが痛ましげな表情で、彼女の額に冷えたタオルを当てていた。
リウとルルは、幸いにも獣人特有の頑丈さが取り柄だったため、軽傷で済んでいたが、プライドをへし折られたショックで部屋の隅で体育座りをしている。
「……状況は、極めて深刻だ」
王都中央警察署のカレル警部が、帽子を目深に被り、テーブルに資料を叩きつけた。
「ハンマーコアラとヤスリウサギ。王都騎士団も出動したが、手も足も出ない。物理攻撃は無効化され、魔法障壁も破られる。あいつらは、ただひたすらに、あの女優を追いかけ、その道中にある全てのものを破壊している」
「師匠、分析結果が出ました」
助手席に座っていたゴウが、スレート端末を操作しながら口を開いた。彼の顔色は青ざめている。
「現場に残留していたエネルギー痕跡……これは『魔力』じゃありません。もっと原始的で、強固な……『呪詛』に近いエネルギーです……」
エラーラは、いつもの白衣姿で、しかしドーナツには手を付けず、金色の聴診器を弄んでいた。
彼女の青い瞳は、ゴウの提示したデータを冷徹に見つめている。
「フム。つまり、彼女たちは『物理法則』で動いているわけではない、ということだね。彼女たちは『概念』だ。歪みを正すという『ルール』に対して、暴力で対抗しようとしても意味がない」
「じゃあ、どうすればいいんだ!このままじゃ、王都は更地になっちまうぞ!ルミさんは今、局長が保護しているが、時間の問題だ」
カレルが叫ぶ。
エラーラはゆっくりと視線を上げ、壁に貼られた王都の地下配管図を見た。
「……消滅させるしかない。……カレル君、王都の地下には、旧文明時代に作られた高純度魔力パイプラインが走っているね?」
「ああ。王都の全エネルギーを供給する大動脈だ。まさか……」
「その『まさか』さ」
エラーラは立ち上がり、地図の一点を指差した。
「怪人たちを、このパイプラインの合流地点――『魔力焼却炉』へ誘導する。いかに概念存在とはいえ、依り代が原子レベルで分解されれば、活動は停止するはずだ」
「バカな!失敗すれば王都が大爆発だぞ!それに、あんな化け物どもを、どうやって誘導するんだ!」
「囮を、使うのさ」
エラーラは、テレビ画面に映る、警察に保護されながら涙を流す女優を指差した。
「彼女を餌にする。……そして、その護衛という名目で、私が指揮を執る。ゴウ、爆破シークエンスの計算を頼む」
「は、はいっ!……でも、師匠。本当にそれでいいんですか? あの怪人たち、ただの暴走した魔物には見えません。まるで、何かを訴えているような……」
ゴウの言葉に、エラーラは一瞬だけ目を伏せた。
彼女の脳裏には、ナラティブの身体に残された傷跡が焼き付いていた。その痕跡は、まるで、何かを必死に伝えようとするメッセージのように、執拗に、そして丁寧に刻まれた傷だった。
「……それも含めて、確かめる必要があるねぇ。彼女たちが本当に『悪』なのか、それとも……」
その時、事務所の扉が開いた。
入ってきたのは、王都魔導規制局の職員、アスナだった。彼女の腕には、埃を被った古いファイルが抱えられている。
「エラーラさん!間に合ってよかった……!規制局の地下アーカイブから、とんでもないものを見つけました!」
アスナは息を切らしながら、そのファイルをテーブルに広げた。
表紙には、『秩序と純潔の家・集団失踪事件』と書かれていた。
「怪人の正体……そして、彼女たちがなぜあの女優を狙うのか。その全ての答えが、ここにあります」
エラーラがファイルを手に取る。
ページをめくる指が、次第に強くなる。
「……なるほどね。これが『起源』か」
エラーラは顔を上げた。その瞳には、先ほどまでの冷徹な計算ではなく、静かな、しかし激しい怒りの炎が宿っていた。
「カレル君、作戦変更だ。……作戦名は変わらない。『怪人討伐』だ。ただし、倒すべき怪物は、あの二人じゃないかもしれないねぇ」




