定理2:ケモノの尻尾を吸いたい!(前編)
リメイク元
「エラーラ・ヴェリタス」短編集3 日常篇
「ナラティブ・ヴェリタス」陰気な母性を取り戻せ
「推しへの執着は、建前をプライバシーで除算した値に比例し、その解は無限大へと発散する」
ヴェリタス探偵事務所の朝は、今日も今日とて「欠乏」から始まった。
先日のゴーレム爆散事件による賠償金請求書が、郵便受けを物理的に破壊するほどの質量で届いたからだ。
「……おかあさま。わたくし、新しい家計の運用ルールを考案しましたの」
リビングのテーブルで、優雅に紅茶を啜りながら、アリシア・ヴェリタスが微笑む。その笑顔は、聖母のように慈悲深く、そして死神のように冷徹だった。
彼女の背後には、暖炉の火すら凍りつくような「絶対零度のオーラ」が見える。
「聞こうか、アリシア君。だが、私のコーヒー豆を減らす案なら却下だよ。あれは私の脳髄の潤滑油だからね」
「いいえ、減らしませんわ。ただ、今後一切の『固形物』の購入を凍結します」
「……フム? 固形物がないと、我々は光合成でもするのかい?」
「ええ。幸い、窓辺の日当たりは良好ですもの」
アリシアは冗談を言っているのではない。本気だ。彼女の瞳孔は、電卓のディスプレイのように冷たく輝いている。
横では、ナラティブ・ヴェリタスが黒いドレスの裾を摘みながら、悲痛な声を上げた。
「姉さん、あたしは戦士よ? タンパク質がないと、この美しい筋肉と、リウを振り向かせるためのフェロモンが枯渇してしまうわ!」
「甘えですわ、ナラティブ。愛があれば空気中のマナをカロリーに変換できます」
「それは生物学的なバグよ!」
「あはは! お姉ちゃんの残り香だけで、ボクはあと三週間は生きられるよー!」
天井の梁からぶら下がったグリッチ・オーディナルだけが、通常運転で狂っていた。彼女は私の白衣の予備を抱きしめ、スーハースーハーと深呼吸を繰り返している。
カオスだ。そして貧困だ。
私が「金になる発明」のアイデアを脳内で検索し始めた、その時だった。
バンッ!!
事務所のドアが、令状という名の物理攻撃で押し開かれた。
「動かないでください! 王都魔導規制局、強制捜査です!」
入ってきたのは、黒髪に細縁眼鏡、そして張り詰めたスーツに身を包んだ私の天敵――アスナ・クライフォルトだ。
彼女は多数の部下を引き連れているが、その表情はいつになく紅潮し、眼鏡の奥の瞳は、獲物を見つけた肉食獣のようにギラギラと輝いている。
「やあ、アスナ君。また会ったねぇ。今日は何の用だい? 私のファンクラブ会報の取材なら、アポイントメントを取ってほしかったな」
「ち、違います! 今日こそは、貴女の事務所に眠る『違法魔導具』の全押収に来たのです!」
アスナは叫びながら、その立派な、あまりにも立派な竜の尻尾をバタンバタンと床に打ち付けた。
竜人は感情が高ぶると尻尾の制御が利かなくなる。あの動きは「威嚇」ではない。「歓喜」だ。私にはわかる。
「ほら、お前たち!エラーラ・ヴェリタスの私室を重点的に捜索しなさい!ただし!」
アスナは部下たちを制止し、声を張り上げた。
「重要な証拠物件……例えば、彼女が書き損じたメモ用紙、使い終わった実験器具、あるいは『寝癖がついたままの枕カバー』などは、高度な魔力汚染の疑いがあります! 決して素手で触れず、私のア……じゃなくて、私が直接管理する『特務証拠品袋』に入れなさい! いいですね!」
「「は、はい! (……全部ゴミじゃないの?)」」
部下たちの困惑を無視し、アスナは私のデスクへと突撃してきた。
彼女の手には、業務用サイズのジップロックが握りしめられている。
「エラーラさん、そこをどいてください。公務です」
「どうぞどうぞ。何も隠すものはないよ。私の知性はオープンソースだからね」
私が椅子を引くと、アスナは食い入るようにデスクの上を物色し始めた。
そして、彼女は震える手で「あるもの」を摘み上げた。
それは、私が昨晩の計算中に噛んでいた、ガムの包み紙だ。
「……はっ! こ、これは……!」
「ああ、それはただのゴミだ。捨てておいてくれるかい?」
「バカなことを! これには貴女の唾液……じゃなくて、思考演算中の『魔力残留思念』が付着している可能性があります! 最重要証拠物件として押収します!」
アスナは顔を真っ赤にしながら、それを丁寧に、まるで聖遺物でも扱うかのように証拠品袋へと封入した。
さらに彼女は、私が飲みかけで放置していたマグカップを見つけ、音もなく息を呑んだ。
「……こ、これもです。魔薬成分の分析が必要です。私が、自宅のラボで、徹夜で分析します」
「君の自宅にラボなんてあったかい?」
「あります!今作りました!」
アスナ・クライフォルト。25歳。
王都の法を守る厳格な官僚にして、ヴェリタス・クロニクル編纂委員会・会員番号001。
彼女の「公務」という名の「推し活」は、法的な権限を後ろ盾にして、今まさに暴走していた。
だが、この部屋で暴走しているのは、彼女だけではない。
もう一人の「変態」が、静かに、しかし確実にその背後へと忍び寄っていた。
「……いい。すごく、いいわ」
ナラティブ・ヴェリタスである。
彼女は鉄扇を手に、アスナの背後に音もなく回り込んでいた。その赤い瞳が見つめているのは、アスナの手元にある証拠品ではない。
スーツのスカートから伸びる、太く、硬く、そして艶やかな鱗に覆われた「竜の尻尾」だ。
アスナが興奮して身を乗り出すたびに、その尻尾は左右に揺れ、ナラティブの鼻先を掠める。
「(……あの太さ。狼獣人のそれとは違う、爬虫類特有の冷ややかな弾力。付け根の筋肉の盛り上がり……まさに、武の結晶だわ)」
ナラティブの呼吸が荒くなる。
彼女は「武の人」であり、屈強な肉体や部位に対して異常なリスペクト(性癖)を持っている。特に「人外の尻尾」は、彼女にとって吸うべき酸素と同義だ。
「な、何ですかナラティブさん! 捜査の邪魔をしないでください!」
背後の気配に気づいたアスナが振り返る。
しかし、ナラティブは気高い王女のような澄ました顔で、鉄扇を広げた。
「あら、奇遇ねアスナ。あたしはただ、そこに埃が落ちていたから掃除をしようとしただけよ。……貴女の尻尾の下に」
「えっ? 埃?」
「ええ。だから少し、持ち上げさせてもらうわね」
ナラティブの手が、稲妻のような速さで伸びる。
それは格闘技の達人が繰り出す「掴み」の技術だ。
ガシッ!
彼女の両手が、アスナの尻尾の付け根付近を、的確に、そして愛おしげにホールドした。
「ひゃうっ!?」
アスナが変な声を上げて硬直する。
竜人にとって、尻尾は急所であり、同時に感覚器官が集中するセンシティブな部位だ。そこを、愛と情熱を込めた手つきで握られたのだから、官僚としての威厳など一瞬で吹き飛ぶ。
「……ああ、硬い。でも、内側には温かい血が流れている。この脈動……ゾクゾクするわ」
「は、離しっ、離してください! 公務執行……んっ、妨害で……!」
「黙って。今、あたしは『対話』しているのよ。この気高き竜の魂と」
ナラティブはアスナの抗議を無視し、あろうことかその尻尾に頬ずりを始めた。
スリスリ、と頬に当たる鱗の感触を楽しみながら、彼女は陶酔の表情を浮かべる。
アスナは顔を真っ赤にして膝から崩れ落ち、手ニ握っていた私のマグカップを取り落としそうになる。
「さ、触るな! 吸うな! 規制局員へのセクハラは重罪ですよぉぉ!」
「セクハラ? 失礼ね。これは『国際親善』よ」
カオスだ。
私はデスクに肘をつき、この地獄絵図を眺めながら、こっそりと引き出しの奥から最後のドーナツを取り出した。
アスナは私のゴミ集めに夢中で、ナラティブはアスナの尻尾に夢中で、誰も私のドーナツには気づいていない。
完璧なステルスだ。これが知性の勝利というやつだね、ノゾミ。
「あらあら。皆様、とても楽しそうですわね」
その時、アリシアの冷たい声が響いた。
彼女は倒れたアスナと、それに絡みつくナラティブを見下ろし、電卓を叩いている。
「アスナさん。捜査にご協力するのは構いませんが、ナラティブが貴女の尻尾をマッサージした技術料、ならびに『希少生物との触れ合い体験料』として、300万クレストを請求させていただきますわ」
「なっ、なぜ私が払うんですか!? 被害者は私ですよ!」
「我が家では、ナラティブに触れられることは『ご褒美』と定義されていますの。……払えませんのなら、代わりにそちらの『押収品』を全て買い取っていただきます」
アリシアが指差したのは、アスナが大事そうに抱えていた「私のゴミ袋」だ。
「そ、それは……! ぐぬぬ……!」
アスナは葛藤した。
300万という不当な請求か、それとも私の使用済みガムか。
彼女の中で「法」と「推しへの愛」が激しく衝突し、ショート寸前の火花を散らしている。
だが、この事務所に訪れる来客は、官僚だけではない。
この混沌とした状況に、さらなる「野生のバグ」が投入されようとしていた。
ドンドンドン! バキャッ!
ノックの音というよりは、ドアそのものを破壊しようとする音が響く。
「おーい! ナラティブー! 遊びに来たぞー!」
「……ナラちゃん、いますか……?」
聞き覚えのある、底抜けに明るい声と、湿り気を帯びた陰鬱な声。
ヴァンクロフト姉妹だ。
「! リ、リウ……!?」
ナラティブが弾かれたように顔を上げる。
その手には、まだアスナの尻尾が握られたままだ。
そして、開け放たれた(壊された)ドアの向こうには、金髪ポニーテールの巨乳狼獣人リウと、その影に隠れるように立つ、黒髪のストーカー妹ルルの姿があった。
二人の腰からは、アスナに負けず劣らずの、極太でモフモフした「狼の尻尾」が揺れている。
「……ッ!」
ナラティブの思考回路が、音を立てて停止した。
目の前には、感触を堪能中のアスナの「竜の尻尾」。
そして入口には、憧れのリウの「陽の尻尾」と、重い愛を向けてくるルルの「陰の尻尾」。
三つの極上の尻尾が、一つの空間に会した瞬間である。
「(……選べない。全部、吸いたい)」
ナラティブの瞳から、理性の光が消えた。
それは、彼女が「武の人」から「ただの変態」へと堕ちる、特異点の瞬間だった。




