定理13:推しのアルバムを守りたい!(後編)
「……そこまでですわ」
凛とした声と共に、一人の少女が立ちはだかった。
黒いドレススーツ。手には鉄扇。
ナラティブ・ヴェリタスである。
「ナ、ナラティブさん……!」
アスナが急ブレーキをかける。
「お母様の観測を邪魔する不審な動き……。グリッチ、姉さん、そしてアスナさん。あなたたち、何を隠していますの?」
ナラティブの目は笑っていなかった。彼女にとって、エラーラの知的好奇心を満たすことは最優先事項であり、それを妨害する者は、たとえ家族であっても排除対象なのだ。
「お願いです、そこをどいてください! これは、私の人生がかかっているんです!」
「お断りですわ。お母様が真理を見つけたいとおっしゃっている以上、あたしはその障害を排除するだけです。それに……その端末から漏れ出るお母様の画像、独り占めはずるいですわよ?」
「そっちですか!?」
「さあ、覚悟なさい!」
ナラティブが地を蹴り、鉄扇を翻してアスナに肉薄する。
武の化身であるナラティブに、事務方の官僚であるアスナが勝てる道理など万に一つもない。
アリシアが「防護障壁」を展開しようとするが、ナラティブはそれを読んでいた。
「姉さんの盾は、内側からの衝撃には弱いですわよね?」
ナラティブは障壁の隙間を縫うような鋭い突きを放ち、アリシアを牽制する。愛するお母様のためにという情熱を込めた拳は、家族への甘えを捨てた本気の一撃だった。
「あーあ、ナラちゃんが本気になっちゃった。……アスナさん、もう奥の手しかないよ!」
グリッチが叫ぶ。
奥の手。そんなもの、最強の戦士ナラティブに通用するはずが――。
いや、あった。
アスナは、絶体絶命の窮地で、一つの「真理」を思い出した。
エラーラの定理。『最強の武であっても、本能的な癖という名のバグには抗えない』。
「……わかりましたわ。私の尊厳と引き換えに……道を、開きます!」
アスナは眼鏡を光らせ、恥を捨てた。
教授の寝顔データを守るためなら、竜人の誇りなど安いものだ。
グリッチが煙幕弾を投げ、視界を遮ったその瞬間。
アスナは竜人としての本能を解放し、スカートの下から自慢の極太の尻尾を、勢いよく振り抜いた。
「……なっ!? 尻尾による物理攻撃……!? 甘いですわ、そんな大振りな……ひ、ひぇっ!?」
煙幕の中から飛び出してきたのは、拳でも魔法でもなく……鱗に覆われた太く逞しい竜の尻尾だった。
ナラティブは反射的に鉄扇で受け流そうとした。彼女の動体視力ならば、その軌道を見切ることは造作もないはずだった。
だが、彼女の視線は、アスナの尻尾に釘付けになってしまっていた。
太さ。そして、艶。
ナラティブ・ヴェリタスの脳内に存在する「獣人の極太尻尾フェチ」という致命的なバグが、戦闘プログラムを強制上書きしたのである。
「こ、これは……極太、尻尾……!」
ナラティブの動きがコンマ一秒止まった。
その隙を、アスナは見逃さなかった。
アスナはそのまま尻尾でナラティブの身体を優しく、しかし確実な重量感を持って踏みつけ、地面に固定した。
「失礼しますわーッ!」
「あぐっ!?重……っ!離しなさい、この……!」
ナラティブが抵抗しようとしたその時。
アスナは尻尾の先端を器用に動かし、ナラティブの脇腹、首筋、そして耳の裏をくすぐり始めたのである。
「あ、あふぅ!? ちょっと、やめ……そこは、その、あ、あたし……あは、あはははは!」
王都の広場に、最強の戦士の情けない笑い声が響き渡る。
「ら、らめぇ!獣人の、極太の、尻尾の感触がぁ……直接、脳に……! あははははは! お母様ぁ、助けてぇ、ごめんなさい、あたし、もう、理性が……ダメぇぇぇ!」
ナラティブは一瞬で戦闘不能に陥った。鉄扇を取り落とし、涙目になって地べたを転げ回るその姿は、気高い王女の威厳など欠片もなかった。
最強の相棒が、尻尾のくすぐり一発で完封されたのである。
「す、すごい……。ナラちゃんが、あんなに幸せそうな顔で白目を剥いてる……」
グリッチが感心したように呟く。
「アスナさん、お見事ですわ。ナラティブの弱点をここまで的確に突くなんて……。さあ、今のうちに!」
アリシアが指示を出す。
三人は、恍惚とした表情を浮かべたまま卒倒したナラティブを置き去りにし、サーバー室へと続く扉へ突入した。
その数秒後。
白衣を翻したエラーラと、息を切らせたカレルたちが現場に到着した。
「フム。……ナラティブが倒れているねぇ。外傷はないが、極度の興奮状態による脳のオーバーヒートか。……興味深い」
エラーラは倒れているナラティブをまたいで、先を急ごうとする。
「おい待てエラーラ!娘が倒れてるんだぞ!少しは心配しろ!」
カレルがナラティブを抱き起こす。ナラティブはうわ言のように「尻尾……最高……」と呟いていた。
「大丈夫だよカレル君。彼女は満足して倒れている。それより、ウイルスの発生源はこの先だ!」
ルルがスレートを見ながら叫ぶ。
「……信号、消失寸前。……サーバー室で、物理的な介入が行われようとしている」
「急ぐよ!私の美しい観測データが、闇に葬られようとしている!」
エラーラたちがサーバー室に飛び込んだのと、アスナがメインコンソールの「全消去」ボタンを拳で叩き込んだのは、ほぼ同時だった。
「消えなさいぃぃぃッ!!」
ドォォォォォン!!
アスナの拳がコンソールを破壊し、物理的な火花と共に、サーバー内のデータが光の粒子となって霧散していく。
掲示板に表示されかけていたエラーラの寝顔写真は、ノイズと共に消滅した。
「ああっ!私のデータが!」
エラーラが叫ぶ。
アスナは肩で息をしながら振り返った。眼鏡はズレ、髪はボサボサ、制服は煤けているが、その顔には「やり遂げた女」の清々しさがあった。
「……ま、間に合いましたわ……」
「君たち……一体何をしていたんだい?」
エラーラが、アスナ、アリシア、グリッチの三人を交互に見る。
アリシアが、すかさず前に出て微笑んだ。
「お母様。わたくしたちは、規制局のサーバーに巣食っていた悪質なウイルスを、アスナさんと協力して駆除していたのですわ」
「ウイルス?」
「ええ。おかあさまのプライバシーを侵害する、とてつもなく粘着質なストーカーのデータを、根こそぎ消去しましたの」
アリシアの完璧な嘘に、エラーラは狐につままれたような顔をした。
「フム……。そうか。君たちがそう言うなら、そうなのだろうねぇ」
エラーラは、破壊されたコンソールと、燃え尽きているアスナを見た。
そして、ニヤリと笑った。
「だが、残念だねぇ。そのウイルスの『情熱』だけは、私の研究対象として保存しておきたかったのだが」
夕暮れのヴェリタス探偵事務所。
そこには、嵐が過ぎ去った後の、いつも通りの奇妙な団欒があった。
エラーラはソファでドーナツを頬張り、ナラティブはなぜか頬を赤らめてぼーっとしながら珈琲を淹れている。
隅の方では、アスナがまだ魂が抜けたような顔で、リハビリのように新しいドーナツを口に運んでいた。
「……というわけだよ、カレル君。あの概念的なバグは、私の解析の結果、地脈の残響が見せた一時の幻影という結論に達した。昨日が平和すぎたせいで、地脈が暇を持て余したんだろうねぇ」
「……まったく。自分のアーカイブが漏れただの、幻影だの。昨日の平和を返してほしいぜ」
カレルは呆れながら帽子を被り直した。
「ゴウ、帰るぞ。今日は夕飯の担当はお前だからな」
「うん。……でも師匠、あの『ウイルス』の正体、本当は気づいてるんでしょ?」
ゴウが小声で尋ねると、エラーラは人差し指を唇に当てた。
カレルとゴウ、そして「いいデータが取れた」と満足げなルルとリウたちが去っていく。
静かになった事務所で、エラーラは不意にアスナの方を向き、悪戯っぽく微笑みかけた。
「……アスナ君。君も今回のバグ騒動では苦労したようだね。規制局のサーバー管理、もう少し論理的に見直した方がいいんじゃないかな?」
「……は、はい。予算を増額して、善処いたします……」
アスナは小さくなっている。自分の秘密がバレていないか、心臓が爆発しそうだ。
「フム。まあいいさ。誰かが私のことをこれほどまでに熱心に観測してくれているのなら、私はもう少しこの世界で面白いバグを撒き散らしてもいいかな、と思えてきたよ」
エラーラは立ち上がり、アスナの耳元で囁いた。
「お礼に、明日の朝食の寝癖、もう少し解析しがいのある角度にセットしてこようか? 君の『コレクション』のためにね」
「……ッ!?」
アスナの時が止まった。
バレている。完全にバレている。
いや、バレているどころか、それを「面白い実験」として楽しまれている!
「……ブフォッ!!」
アスナは口に含んだ珈琲を盛大に吹き出し、顔から蒸気を噴き上げながら、幸せな絶望とともにその場に崩れ落ちた。
「あ、アスナさーん!? しっかりしてください!」
「あらあら、アスナさん、幸せすぎてオーバーヒートしてしまいましたわ」
アリシアが甲斐甲斐しく介抱する横で、グリッチが「いい反応だねぇ!」と写真を撮っている。
窓の外には、王都の星空が輝き始めていた。
借金は一ミリも減らず、事件の真相は闇の中。
だがそこには確かに、論理では測れない温かなバグが一つだけ増えていた。
「フム。……これが、愛すべきバグという名の真理だ!」
エラーラの独り言が、夜の王都に溶けていく。
事務所の隅では、まだナラティブが「……あの鱗の感触が……」と虚ろな目で虚空を掴み、それを聞いたアスナが「ひいいっ!許してくださいましーッ!」と夜空に向かって絶叫した。
騒がしくて、愛おしくて、そして少しだけ新しい性癖の扉が開いてしまった夜が、こうして更けていくのだった。




