定理12:不条理なゲームを攻略したい!(後編)
王都中央広場の地上は、もはやお祭り騒ぎどころの騒ぎではなかった。それは暴動に近い熱狂であり、呆れるほど巨大で重たい「愛」だった。
上空三十メートルに浮かぶ透明な檻、魔導キューブ。そこから放たれていたはずの死のトラップが、エラーラたちの手によって次々と講義室やティールームへと変貌していく様を見て、市民たちの不安は、いつしか自分たちに何ができるかという強い連帯の意志へと書き換えられていた。
そして、その先頭に立っていたのは、王都魔導規制局の精鋭官僚、アスナ・クライフォルトだった。彼女は規制局のジャケットを脱ぎ捨て、ワイシャツの袖をまくり上げ、顔を涙でぐしゃぐしゃに濡らしながら、広場の中心で絶叫していた。
「もっと布団を持ってきなさい!羽毛布団じゃなきゃダメですわよ!クッションの角度は計算しましたの!?リウさん、そこのマットレス、あと三ミリ右ですわ!」
アスナの背後にある極太の竜の尻尾が、焦燥感で地面を激しく叩き、周囲の石畳に亀裂を走らせている。彼女は泣いていた。ボロボロと大粒の涙を流しながら、それでも的確に、数千人の市民に指示を飛ばしていた。
「アスナ、泣くなよ。化粧が落ちてパンダみたいになってるぞ」
褐色肌の画家、リウ・ヴァンクロフトが、重さ数十キロはある高級ダブルベッド用のマットレスを軽々と担ぎ上げながら笑った。彼女の極太の狼の尻尾が、興奮でブンブンとプロペラのように回転している。
「うっ、うるさいですわね!これは汗ですわ!だいたい、あの人たちが勝手に捕まって、勝手に危機に陥って……!許せませんわ!全員、説教部屋行きですわよ!」
「はいはい。……ルル、誘導はどうなってる?」
「……かんぺき。地脈Wi-Fiをジャックして……周辺の家具屋の在庫状況……全確保……。ナラティブたんの着地予想、風速を計算して……スカートが捲れない角度を……完璧にシミュレート……。ナラちゃんの一流の着地を汚させはしない……」
ルル・ヴァンクロフトが、積み上げられたマットレスの山頂に陣取り、驚異的な速度で魔導端末を操作していた。彼女の光のない黒い瞳には、上空のナラティブを絶対に傷つけさせないという純粋な執念が宿っている。
「よし!これで受け入れ態勢は万全だぜ! おいみんな!トラブルメーカーたちが帰ってくるぞ!受け止める準備はいいか!」
リウが拳を突き上げると、広場を埋め尽くす市民たちが地鳴りのような歓声を上げた。
その頃、広場の喧騒から離れた古い時計塔の裏道では、既に一つの決着がついていた。地下道へ逃走しようとしていた黒いマントの男、仮面の犯人は、今や地面に這いつくばり、冷たい手錠の感触を味わっていた。
「バカな……。私の完璧な計算が……。なぜだ、なぜあの四人は恐怖しない!? なぜ市民はパニックにならない!?」
泥に塗れた顔で呻く犯人を見下ろしながら、カレル・オータム警部は静かに魔導リボルバーをホルスターに収めた。
「あんたの計算式には、変数が足りなかったんだよ。エラーラたちはな、『恐怖』なんて感情はとうの昔に捨てちまった連中だ。それに……」
カレルは、広場から聞こえてくる大歓声に視線を向けた。
「この街の連中は、あんたが思うよりずっとタフで、ずっとあの四人に毒されているのさ。……ゴウ、署に連絡を。この男を連行する」
「……お父さん!見て!キューブが!」
ゴウ・オータムが空を指差した。
上空三十メートル。破壊され、粉砕され、さらにシステムダウンした魔導キューブの残骸の中で、エラーラ・ヴェリタスは眼下に広がる光景を見下ろしていた。
「フム……。壮観だねぇ。まるで色とりどりのキノコの森だ。……いや、あれは全部クッションか。実に非論理的な光景だ」
エラーラは白衣のポケットを探ったが、もうドーナツの在庫は尽きていた。彼女は少し残念そうに唇を尖らせ、それから懐から小型の魔導浮遊装置を取り出した。
「さて、帰るとしようか。この重力制御ユニットを使えば、我々四人の質量をゼロにして、羽毛のように優雅に着地できる。グリッチ、私の腰を掴みたまえ」
「はーい!お姉ちゃんと空中散歩だねぇ!」
グリッチ・オーディナルが無邪気に抱きつこうとしたその時、待ったをかけたのは意外な二人だった。
「お待ちになって、お母様」
ナラティブ・ヴェリタスが、鉄扇でエラーラの浮遊装置を軽く押さえた。彼女はドレスの裾を翻し、地上を見据えた。
「……機械の力で降りるなんて、無粋ですわ」
「あらあら、ナラティブさん。素直じゃありませんわね」
アリシア・ヴェリタスが、聖母のような微笑みを浮かべてナラティブの言葉を継いだ。
「おかあさま。わたくしたちが魔法で降りてしまっては、彼らの『愛』が無駄になってしまいますわ。せっかく、わたくしたちを受け止めようとしてくれているのですもの。その想いに身を委ねるのが、愛される者の務めではありませんか?」
エラーラは、二人の娘の言葉に目を丸くし、そして地上で必死に手を振るアスナやリウたちの姿を観測した。
「……フム。確かに、これだけの質量を持った『善意』を無視するのは、エネルギー保存の法則に対する冒涜かもしれないねぇ。……よろしい。採用だ」
エラーラは浮遊装置をポケットにしまった。
「重力に身を任せるのも、たまには悪くない。……行くよ、みんな!」
エラーラが壊れた扉の縁に立った。ナラティブが髪をかき上げ、アリシアがスカートを押さえ、グリッチが万歳をする。
四人の体が、空中に躍り出た。三十メートルの落差。風が頬を打ち、重力が内臓を押し上げる。だが、誰一人として悲鳴を上げなかった。彼女たちの瞳に映っていたのは、迫りくる地面の硬さではなく、自分たちに向けられた無数の腕と、色鮮やかなクッションの海だったからだ。
一方で、彼女たちを拘束していた魔導キューブは、既にナラティブとグリッチによって動力源を破壊されていたため、浮力を維持できなくなっていた。
破壊された配管からは、可燃性の魔導ガスが白煙となって漏れ出している。
衝撃は、驚くほど柔らかかった。
アスナが、リウが、ルルが、それから名もなき市民たちが積み上げた何層ものマットレスとクッションが、四人の運動エネルギーを優しく吸収し、温かな揺り籠となって受け止めたのだ。
「……フム。悪くない着地だねぇ。アスナ君、君の構築したショックアブソーバーは及第点だよ」
エラーラがクッションの山から顔を出した瞬間、視界が影に覆われた。
「エラーラさぁぁぁぁぁん!!」
ドスッ!という重い音と共に、アスナがエラーラにタックル気味に抱きついた。
「ぐぇっ!?ア、アスナ君!? 苦しい、肋骨が……!」
「無事で!無事でよかったですわぁぁぁ! バカ! バカ!もう、大バカものですわ!あんな高いところから!もし死んじゃったら!私、私、どうしていいか……!」
アスナはエラーラの白衣を涙と鼻水で濡らしながら、子供のように泣きじゃくった。普段の冷静な官僚の仮面はどこへやら、今の彼女はただの、一人の恋する乙女だった。
「もう!大好きですわ!愛してます!だから死なないでくださいましぃぃぃ!」
一瞬、周囲の空気が凍りついた。アスナの絶叫は、広場の歓声が一瞬止んだ隙間に、あまりにも鮮明に響き渡ってしまったのだ。
「……え?」
アスナが、自分の発した言葉の意味を理解する前に、周囲から爆発的な歓声が上がった。
「生還おめでとうー!!」
「ヴェリタス万歳!」
「やっぱりこの街にはあんたたちがいないとな!」
人々が雪崩のように押し寄せ、四人をもみくちゃにした。「痛い痛い! ドレスがシワになりますわ!」と叫ぶナラティブ。「あはは、くすぐったいよぉ!」と笑うグリッチ。「皆様、落ち着いて。順番にご挨拶いたしますわ」と微笑むアリシア。
エラーラは、泣き止まないアスナの頭を不器用に撫でながら、夕焼けに染まる王都を見渡した。
「……フム。相変わらず騒がしくて、非論理的で、カオスな街だね。……だが、捨てたもんじゃないよ。この熱量は、どんな数式でも表せないね……」
王都は、彼女たちを受け入れた。これからも難事件は起こるだろう。だが、この街にヴェリタス探偵事務所がある限り、絶望が入り込む隙間など一ミリもないのだ。
騒ぎが一段落し、人々が宴の準備を始めた頃。
リウがニヤニヤしながら、まだエラーラの袖を掴んで離さないアスナに近づいた。
「よお、アスナ。熱烈だったなぁ、さっきの」
「へ?何のことですの?」
アスナはキョトンとして、涙で曇った眼鏡を拭いた。
「何って、お前。『愛してます!』って叫んでたじゃねえか。広場中の全員が聞いてたぞ?」
「……は?」
アスナの動きが止まった。脳内でリプレイされる自分の声。
『大好きですわ! 愛してます!』
ボッッッッッ!!!
アスナの顔が、熟れたトマトよりも赤く、いや、マグマのように赤熱した。
「あ、あ、あ、あたし、私、そ、そんなこと……!」
「あら~?アスナさん、意外と情熱的ですのねぇ。あたし、見直しましたわよ?」
ナラティブが、意地悪な笑みを浮かべてアスナの背後に回り込んだ。
「普段は堅物な官僚様が、公衆の面前で愛の告白……。うふふ、これは一生のネタにさせていただきますわ」
「ち、違いますわ! あれは、その、友愛的な意味で! 尊敬の念が昂ぶって!」
「そうですの~? でも, 尻尾は正直ですわよ?」
ナラティブの手が、アスナの極太の尻尾に伸びた。アスナの尻尾は、恥ずかしさでピーンと硬直し、微かに震えている。
「ちょ、ナラティブさん!触らないで!」
「あら、硬い。でも、根元の方はどうかしら?」
ナラティブの指先が、尻尾の敏感な付け根を、ワシャワシャと撫で回した。
「ひゃうっ!? ら, らめぇぇぇ!」
その瞬間、長年の付き合いであるグリッチとアリシアは、動物的な勘で察知した。『危険信号』を。
「お姉ちゃん!逃げるよ!」
「皆様、ごきげんよう!」
グリッチがエラーラの手を引こうとしたが、エラーラはまだ状況を論理的に解析しようとしていた。
「フム?なぜアスナ君の体温が急激に上昇しているんだ? これは魔力暴走の前兆……。ま、まさか、背後のガス濃度と、アスナ君の放射熱量が臨界点で結合すると……?」
エラーラが気づいた時には、もう遅かった。
「よせ!ナラ君!アスナ君の耐熱限界を超えて……!」
「へ?何をおっしゃって……」
ナラティブがキョトンとした顔を上げた瞬間。アスナの口から、羞恥心とくすぐったさが限界突破した結果として、物理的な「竜の炎」が噴射された。
「もぉぉぉぉぉ! 恥ずかしいですわぁぁぁぁぁーーーーッ!!」
ボォォォォォッ!!!
噴射された炎は、まっすぐに背後のキューブ残骸から漏れ出るガスへと引火した。
「「あ」」
ズゴォォォォォォォォォォン!!!!!
広場の一角が、太陽が生まれたかのような大閃光と爆音に包まれた。
見事なまでの大爆発。キノコ雲が上がり、市民たちは慣れたもので、「おっ、花火か?」と歓声を上げていた。爆煙が晴れると、そこには顔中煤だらけになったエラーラとナラティブが立ち尽くしていた。
「……ゲホッ。……フム。これが、愛の熱量というやつかねぇ……。計算外の破壊力だ」
「……お母様……。あたしのドレスが……煤だらけですわ……。アスナ……あんた、後で覚悟なさい……」
二人は真っ黒になりながらも、その中心でしゃがみ込んでいるアスナを見下ろした。アスナは、自分が引き起こした爆発に呆然とし、小さくなっている。
「ご、ごめんなさい……私……また……」
アスナが謝った時、エラーラは煤だらけの腕で、アスナを力強く抱きしめた。
「ありがとう、アスナ君。キミがいてくれてよかった。キミのその、不器用で熱すぎる愛のおかげで、私たちはこうして生きて帰ってこれたんだ」
「エラーラさん……」
「あはは!お姉ちゃんたち、真っ黒こげだねぇ!」
「あらあら、皆様ご無事で何よりですわ。お風呂が待っていますよ」
王都の夜空に、平和な爆発音と、温かな笑い声がこだまする。
そこへカレル警部が重厚な封筒を手に歩み寄ってきた。
「……おい、エラーラ……君が壊したキューブ、あれは、王立魔導学院の国家機密資産だったそうだ……」
エラーラが震える手で請求書を確認した。
「フム……?……桁が多すぎないかね?じ、十五億!?……増えている!?私の借金がトータルで百六十五億クレストになっているじゃないかぁぁぁ!!」
「……これが真理だ、エラーラ。……また馬車馬のように働いてもらおうかね」
王都の夕闇に、エラーラの悲痛な叫びとアリシアの穏やかな笑い声がいつまでも響き渡っていた。




