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【ヴェリタスの最終定理・コメディルート】  作者: 王牌リウ


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定理11:If it's beautiful, that's fine(後編)

昼下がりのヴェリタス探偵事務所は、平和という名の気怠さに包まれていた。

事務所の中央、革張りのソファには、黒いドレススーツに身を包んだナラティブ・ヴェリタスが、愛用の鉄扇を丁寧に磨き上げていた。

その向かい側では、狼獣人のルル・ヴァンクロフトがスナック菓子の袋に手を突っ込んでいる。

奥のデスクでは、私――エラーラ・ヴェリタスが、分解されたトースターと格闘していた。


「……ねえ、ナラちゃん」


ルルが、ポテトチップスを齧りながら、唐突に口を開いた。


「ん? なあに、ルル」


ナラティブは手元の鉄扇から目を離さずに応じる。


「タイムトラベルって、あると思う?」


その問いかけに、私の手が一瞬止まった。

ドライバーの先がトースターの基盤を滑り、バチッという小さな火花が散る。


「……藪から棒に、どうしたのよ」


ナラティブは手を止め、鉄扇をパチリと閉じた。その赤色の瞳が、ルルの無機質な黒目と交差する。


「いや、さっきまでやってたゲームがさ。主人公が何度も過去に戻って、ヒロインを救うやつだったから。……現実にあったら、便利だなって」


「フム。時間遡行か。物理学的には極めて非効率だねぇ」


私はトースターから顔を上げ、会話に割り込んだ。


「それに、過去を変えれば、その反動は必ず現在のどこかに『歪み』として現れる。バタフライ・エフェクトというやつさ。朝食のパンを焦がさないために過去に戻ったら、帰ってきたら王都が密林になっていた、なんてこともあり得る」


「……お母様の話はいつも極端ですわね」


ナラティブが苦笑する。


「でも、ルル。あたしはタイムトラベルなんて必要ないと思っているわ。今のこの瞬間が、あたしにとっての最適解だもの」


「……ふーん。ナラちゃんは、幸せなんだ」


「ええ、幸せよ。……だってお母様がいるもの」


ナラティブは立ち上がり、私の元へと歩み寄ってきた。そして、油で汚れた私の手を、汚れることも厭わずに両手で包み込んだ。

彼女の瞳には、狂信的とも言えるほどの、深く重い敬愛の色が宿っている。


「……ねえ、ナラちゃん。前々から気になってたんだけど」


ルルが寝転がったまま、首だけをこちらに向けた。


「エラーラとナラちゃんって、歳、そんなに変わらないよね?なのに、どうして『お母様』なの? 姉妹設定の方が、萌えると思うんだけど」


「ルル、貴女のゲーマー脳で神聖な関係を定義しないでちょうだい」


ナラティブはむっとした表情を見せたが、すぐにその表情を慈愛に満ちたものへと変えた。


「年齢差なんて、魂の結びつきの前では些末な問題よ。……あたしがお母様を『母』と呼ぶのは、生物学的な意味じゃないわ。あたしがこの人の娘になったのは……ここではない、遠い『未来』でのことなのよ」


「未来?」


「そう。……かつて、あたしが居た世界は、今みたいに平和じゃなかった。空は灰色の雲に覆われて、地面は鉄と血の臭いがして……。あたしは瓦礫の中で、ただ死を待つだけの汚れた孤児だった。それを拾い上げ、名前を与え、生きる意味を教えてくれたのが、お母様だったの」


ナラティブの言葉には、まるで見てきたかのようなリアリティがあった。

彼女は私の手を強く握り締める。


「あの時、お母様が差し伸べてくれた手だけが、あの地獄のような世界で唯一の光だった。だから、あたしにとってエラーラ・ヴェリタスは、魂を産み落としてくれた真の母親なの。たとえ血が繋がっていなくても、時間がどれだけ捻じれていても、この真実だけは変わらないわ」


私は、ナラティブの手の温もりを感じながら、静かに頷いた。


「……フム。確かに、あの時の君は酷い顔をしていたねぇ。泥だらけで、猫のように威嚇して。……だが、その瞳だけは、まだ世界を諦めていなかった」


「お母様……。覚えていてくださったのですね」


「忘れるものか。君を拾ったことで、私の食費エンゲル係数が跳ね上がったんだからね」


私が茶化すと、ナラティブは嬉しそうに微笑んだ。

ルルは起き上がり、胡座をかきながらその光景を眺めていた。


「……そっか。未来で拾われたから、母と娘。……複雑な設定だね。でも、エモい」


「でしょう? この尊さが理解できるなら、ルル、貴女も立派なヴェリタス家の信奉者よ」


「……でも、一つ質問」


ルルは無表情のまま、核心を突く問いを投げかけた。

ルルがポテトチップスを齧りながら、悪戯っぽい笑みを浮かべて問いかけた。


「ナラちゃんにとって、エラーラちゃんとアリシアちゃん、どっちがより『好き』なのかなって思ってさ」


空気が凍った。

ナラティブの笑顔が、ピシッという音を立てて固まる。

ナラティブがゆっくりと顔を上げると、その瞳には深淵のような闇と、狂信的なまでの熱が混在していた。


「選べない……!選べるわけがないでしょう!お母様、エラーラは、あたしを絶望の淵から救い出してくれた唯一無二の『母』。アリシアは、この不完全な世界を纏めあげる、尊敬すべき家族の長。それを比較するなんて、できないわ」


「フム。なかなか過激な理論だねぇ」


私はトースターの基盤をいじりながら会話に割り込んだ。


「私としては、そんな二者択一に論理的価値はないと思うよ。愛とは非線形なものだ。比較すること自体が、変数の設定ミスと言わざるを得ないね」


「お母様……!そうですわ!あたしの愛は無限に発散し、収束することなどないのですから!」


ナラティブが感極まった様子で私の元へと歩み寄ってきた。

彼女は油で汚れた私の手を、汚れることも厭わずに両手で包み込んだ。


「お母様がここにいて、アリシアお姉様がいて、皆がいる。この『現在』という解こそが、あたしにとっての唯一の正解なのですわ!」


「……よくわかんないけど、欲張りだね」


「欲張りで結構!愛に貴賎なし、愛に限界なし! あたしは両方手に入れるわ!」


ナラティブが高らかに宣言した、その時だった。

事務所のドアが開き、華やかな声が響き渡った。


「ただいま戻りましたわ、おかあさま」


「お姉ちゃん、ただいまー! 見て見て、最新のセンサー買ってきたよ!」


アリシアとグリッチが帰ってきたのだ。

アリシアは春色のワンピースを身に纏い、その腕には夕食の食材が入った紙袋を抱えている。グリッチは……相変わらず、何に使うのか不明な電子部品の山を背負っていた。


「おや、おかえり。早かったね」


「ええ。市場で良い食材が手に入りましたの。今夜は鴨のローストですわよ」


アリシアが微笑むと、事務所の空気が一気に華やいだ。

だが、ナラティブはまだ先ほどの会話の余韻の中にいたようだ。彼女は、帰ってきた二人を見るなり、ふと真顔に戻って私に問いかけた。


「……ねえ、お母様。さっきのルルの話じゃないけれど」


「なんだい?」


「平行世界や、世界の再構築って……あり得るのかしら?」


その問いは、唐突に、そしてあまりにも鋭利に、事務所の空気を切り裂いた。

ポテトチップスを食べるルルの手が止まる。

グリッチが、背負っていた荷物を床に置く音が、やけに大きく響いた。

ナラティブは、真剣な眼差しで私を見つめている。


「あたしが未来で拾われたという記憶。それがあるなら、別の可能性……例えば、あたしが拾われなかった世界や、お母様がいなくなってしまった世界、あるいは……世界そのものが一度終わって、作り直されたという可能性も、論理的には否定できないのではないかしら?」


私は息を飲み、視線をわずかに逸らした。

その視線の先には、アリシアがいた。

彼女は、買い物袋をテーブルに置いたまま、彫像のように動かなくなっていた。

その美しい背中から、いつもの温かさが消え、絶対零度の冷徹な気配が立ち上る。


「……ナラティブ」


アリシアが、静かに口を開いた。

振り返った彼女の顔には、微笑みが張り付いていた。だが、その青い瞳は笑っていない。


「何を馬鹿なことを言っていますの?世界の再構築? 平行世界? ……そんな話、現実にあるわけがありませんわ」


「で、でも姉さん。あたしの記憶は……」


「それは、貴女がおかあさまを慕うあまりに作り出した、素敵な『物語』ですわ。世界は一つ。歴史は一本の線。それ以外に、あり得ません」


アリシアの声には、反論を許さない絶対的な響きがあった。

それは単なる否定ではない。「そうであらねばならない」という、強烈な意志による確定申告だ。


「……ですよね? おかあさま」


アリシアの視線が、私に向けられる。

それは確認ではない。共犯者への、静かなる威圧だ。


『余計なことを、言うな。』


彼女の瞳が、そう語っていた。

私は、乾いた唇を舐め、いつもの飄々とした調子を装った。


「……フム。アリシア君の言う通りだねぇ。多元宇宙論は数学的な仮説としては面白いが、観測できない以上、存在しないのと同じだ。私たちの世界は、この『現在』だけが真実だよ」


私の言葉に、ナラティブは少しだけ納得いかないような顔をしたが、すぐに引き下がった。

ルルは再びポテトチップスに意識を戻した。


だが。

一人だけ、その空気に騙されない者がいた。

グリッチ・オーディナル。

彼女は、私のすぐ側で、私の顔を見上げていた。

彼女の赤い瞳――狂気と天才が同居するその瞳が、私の一瞬の揺らぎを見逃すはずがなかった。

私は、無意識のうちにグリッチを見ていた。

「かつて」、私のために命を落とした、大切な妹分。

私の瞳に、一瞬だけ、隠しきれない「切なさ」と「懺悔」、そして深い「愛」が浮かんだのを、グリッチは敏感に感じ取ったのだ。


(……お姉ちゃん?)


グリッチの唇が、音もなく動く。

彼女は気づいた。

お姉ちゃんが今、自分を見ていた目は、今の自分に向けられたものでありながら、同時に「ここにいない誰か」に向けられたような、深淵のような色をしていたことに。


その瞬間。

鋭い視線が、私を貫いた。

アリシアだ。

彼女は、私がグリッチに向けた一瞬の「甘え」を見逃さなかった。

彼女は私を睨みつけた。

その瞳は、怒りに燃えていた。

彼女の視線は、雄弁に私を断罪していた。

張り詰めた沈黙。

それを破ったのは、やはり……アリシアだった。

彼女はふっと表情を緩め、いつもの慈愛に満ちた「お姉様」の顔に戻った。


「……ふふっ。でも、もしも世界が作り直されたのだとしたら。……わたくしは、こう思いますわ」


アリシアは、買い物袋から鴨肉を取り出しながら、独り言のように呟いた。


「『前の世界の人間』は、きっと愚かだったのでしょう。でも、作り直された世界の人間は、きっと『学び取って生きる』ことを選んだはずですわ。……痛みも喜びも分かち合って、自分の足で歩くことを」


それは、彼女自身の魂の告白だった。

私は、胸の奥が熱くなるのを感じた。

彼女もまた、許されたいのだ。そして、許しているのだ。


「……でも、わたくしはこう思いますの。時は、一本の線ではなく、川の流れのようなものですわ。何度も渦を巻き、形を変え、枝分かれしながらも……最後には必ず、同じ海へと辿り着く。たとえ途中で岩に砕かれ、姿を消したとしても、魂の引力が私たちをまた引き合わせる。たとえ同じ運命の輪を巡っていたとしても、わたくしたちは必ず、またこの場所で巡り合うのですわ」


アリシアの瞳には、かつての冷徹な独裁者ではなく、家族を慈しむ一人の少女の光が宿っていた。


「希望は、どんな時にでも絶えることはありません。前の世界でできなかったことは、この世界で成し遂げる。手を繋ぎ、笑い合い、共にパンを食べる。それだけで、世界は救われているのですわよ」


「……ああ。そうだね。人間は、学習する生き物だ。……だからこそ、愛おしい」


私が頷くと、アリシアは満足そうに微笑み、キッチンへと消えていった。

後に残されたのは、わけもわからず立ち尽くすグリッチだ。


「……う、うう……」


突然、グリッチの目から大粒の涙が溢れ出した。


「えっ!? グリッチ、どうしたの!?」


ナラティブが驚いて駆け寄る。

グリッチ自身も、自分がなぜ泣いているのかわかっていないようだった。

ただ、胸が苦しい。

でも、痛くはない。

お姉ちゃんが、自分を見てくれた。

その視線の中にあった、膨大な「想い」の奔流に触れて、彼女の魂が勝手に共鳴してしまったのだ。

悲しい未来も、消された過去も、何もかもわからないけれど。

今、自分が愛されているという事実だけが、理屈を超えて彼女を震わせていた。


「わかんない……わかんないけど……お姉ちゃん、大好き……っ!」


グリッチはしゃくり上げながら、私に抱きついた。

私は、彼女の小さな頭を優しく抱きしめた。

その髪の感触は、確かにここにある。幻ではない。


「……私もだよ、グリッチ。大好きだ」


私は彼女の背中を撫でた。これは、かつて守れなかった約束への、遅すぎる履行だ。


「ちょ、ちょっと!なんですのこの展開!ずるいですわ! あたしも! あたしも混ぜなさいよ!」


ナラティブが、涙目のまま叫んで飛び込んできた。

彼女には、今の空気の意味は半分も理解できていないだろう。

だが、彼女は、今この瞬間がとても重要であることを敏感に察知していた。


「はいはい、ナラ君もおいで」


私がナラティブもまとめて抱きしめようとした、その時だ。

キッチンから戻ってきたアリシアが、ナラティブを背後からぎゅっと抱きしめた。


「えっ? 姉さん?」


ナラティブが素っ頓狂な声を上げる。

アリシアは、ナラティブの肩に顔を埋め、震える声で囁いた。


「……貴女もですわ、ナラティブ。貴女がいてくれて、本当によかった。……貴女が生きて、こうして笑っていることが、わたくしの……わたくしたちの、救いですのよ」


アリシアの腕には、いつもの余裕や気品とは違う、必死な力が込められていた。

それは、ただの「姉」として、妹の存在を確かめるような抱擁だった。


「……姉さん?よくわからないけれど……なんだか、すごくあったかいわ」


ナラティブは戸惑いながらも、アリシアの手に自分の手を重ねた。

意味はわからない。

論理的な説明もつかない。

だが、ナラティブの魂が震えていた。

体の奥底に眠る「かつての記憶」が、この抱擁をずっと待っていたのだと、本能が告げていた。

ルルは、ポテトチップスの袋を空にして、指についた塩を舐めながら、その団子状態の四人を見つめていた。


「……ん。尊い。……これ、写真撮ってリウお姉ちゃんに送ろ」


スレート端末のシャッター音が、静かに響く。

その写真の中の彼女たちは、過去も未来も、並行世界の悲劇も関係なく、ただ今日を生きる「家族」として、幸せそうに絡まり合っていた。

アリシアは二人を包み込むように抱きしめ、私を見て微笑んだ。


「さあ、泣くのはおしまいですわ。窓の外を見てください。こんなに光が溢れていますもの」


アリシアの言葉通り、開け放たれた窓からは春の陽光が濁流のように流れ込み、事務所の隅々までを白く輝かせていた。

埃が光の粒となって舞い、私たちの不格好で焦げ付いた日常を祝福するように照らしている。


「……フム。アリシア君。君の言う運命の川は、確かに美しい計算式だね。だがね、私は学の人だ。確定した定数など、私の辞書にはないんだよ」


私は瞳を強く見開き、アリシアの手をしっかりと握り返した。


「たとえどんな絶望的な未来が訪れようとも、あるいはどんな残酷なバグが世界を覆い尽くそうとも……私がアリシアと共にいる限り、そのすべての結末を書き換えてみせようじゃないか」


アリシアは一瞬驚いたように目を見開き、そして今までで一番眩しい、一人の少女としての笑みを浮かべた。


「ええ、おかあさま。わたくしも同じ思いですわ。わたくしがおかあさまと共に歩む限り、どんな暗闇が来ようとも、そこを光り輝く希望の地へと変えてみせます。わたくしたち二人で、この世界を何度だってデバッグして差し上げますわ」


時は流れ、形を変えても、私たちはまた巡り合う。

絶望の瓦礫の中からでも、私たちは何度だって希望を見つけ出し、新しい物語を書き始めることができる。

私は目を細めた。これから先、どんなバグが世界を襲い、どんな困難が立ち塞がろうとも、私たちはこの光の向こう側へと進んでいける。

希望へと向かう道は、いつだって私たちの足元にあるのだ。

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