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【ヴェリタスの最終定理・コメディルート】  作者: 王牌リウ


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21/52

定理11:If it's beautiful, that's fine(前編)

主題歌:シムーン/美しければそれでいい

https://youtu.be/2nMv4RQ1AMc?si=K9v67-1DNXDXjilA

●リメイク元

「エラーラ・ヴェリタス」成長する天才

「ナラティブ・ヴェリタス」虚無の世界の主人公

「アリシア・ヴェリタス」楽園の崩壊

「未来は変えられる。ただし、その証明式を完成させるためには、過去という毒を飲み干さねばならない」


王都の裏路地、湿った石畳と煉瓦の壁に挟まれたその場所で、男は唐突に世界という名の舞台に吐き出された。

男の意識は、泥のように重く、そして焼き切れるほどに鮮明だった。

男は、自分が死んだのだと思った。あるいは、ついに地獄の底へと落ちたのだと確信した。なぜなら、彼の記憶にある最後の光景は、炎に包まれて崩れ落ちる街と、倒れる隣人たちの山と、そして、自分自身の喉笛を食い破るかつての友の姿だったからだ。


「……あ、ガ……」


男は震える指を石畳に突き立て、身体を起こそうとした。激痛が全身を走り、視界が明滅する。

だが、その視界に飛び込んできたのは、炎でも、瓦礫でも、腐乱した死体でもなかった。

そこには……光があった。

朝焼けに輝く、美しい石造りの壁。

路地の向こう側を行き交う、清潔な衣服を纏った人々。

そして何より、男を戦慄させたのは「音」だった。

悲鳴ではない。怒号でもない。助けを乞う呻き声でもない。

それは、笑い声だった。商人が商品を売り込む威勢の良い声、車輪が石畳を叩くリズミカルな音、遠くで鳴る教会の鐘の音。

男は掠れた声で呟いた。


「……嘘だ」


彼は論理的に思考しようと試みた。これは死後の幻覚か。脳が機能停止する直前に見せる、あまりにも都合の良い走馬灯か。

男は這いずりながら、路地を出て大通りへと顔を出した。

その瞬間、彼は絶望的な悲鳴を上げた。


「ない!……ないじゃないか!」


通りを行き交う人々が、ギョッとして男を見る。血まみれで、腐臭を放つ男が這い出してきたのだから当然だ。だが、男が見ていたのは彼らではなかった。

男が見ていたのは、彼らが立っている「地面」だった。


「死体が……ない!」


男の記憶において、この大通りは足の踏み場もないほどに遺体が積み上げられていたはずだった。

あの山こそが、彼の世界の「結果」だった。

全てを委ね、全てを許され、思考を放棄した者たちが辿り着いた、安らかなる破滅の結末。

なのに、そこには何もない。ただ、綺麗に掃き清められた石畳があるだけだ。


「なぜだ……なぜないんだ?なぜ生きている?なぜ……誰も『縋っていない』?」


男は混乱し、自分の頭を掻きむしった。

彼の周囲に、遠巻きな人垣ができ始めた。

人々の視線には、警戒と憐憫、そして冷静な判断が含まれていた。

男はその視線に耐えられず、震え上がった。

違う。こんな目は知らない。

彼の知る人々は、もっと虚ろで、もっと何かに依存していた。「愛が世界を救う」「祈れば癒やされる」「全てを受け入れよ」。そう呟きながら、互いの傷を舐め合い、そして仲良く腐っていったはずだ。

だが、ここの住人たちは違う。

彼らの目には「自立」の光があった。誰も、空から降ってくる救済など待っていない。自分の足で立ち、自分の頭で考え、この狂人をどう処理すべきかを冷徹に判断している。


「……怖い」


男は嗚咽した。

死体の山よりも、この「生きた人間たち」の方が遥かに恐ろしかった。

彼らは甘えていない。誰もが孤独に耐え、生きるために働いている。

その強さが、その健全さが、男にとっては鋭利な刃物のように感じられた。安易な優しさに包まれて全滅した自分の世界が、完全に否定されているように思えたからだ。


「来るな……!お前たちのその目は、私を責めているのか!?私が間違っていたと言うのか!?私は悪くない、私はただ、教えの通りに……!」


男は錯乱し、近くに落ちていた棒切れを拾い上げた。それは腐った木片だったが、今の彼には唯一の武器だった。

男は棒を振り回し、見えない「健全さ」を威嚇した。

その時だった。


「ワン!」


路地の奥から、一匹の野良犬が顔を出した。

茶色の毛並みをした、どこにでもいる雑種犬だ。尻尾を振り、好奇心に満ちた目で男を見上げている。

その愛らしい姿を見た瞬間、男の喉から、人ならざる絶叫が迸った。


「ヒィィィィィィッ!!!」


男は棒を取り落とし、無様に腰を抜かした。

視界が歪む。

目の前の犬が、突然、巨大な怪物に見えた。

違う。怪物は犬ではない。その牙の先に宿る「病魔」だ。

彼の世界を滅ぼしたのは、慈愛という名の無防備さと、そしてこの獣たちが媒介した狂気だった。

水が飲めなくなる。光が怖くなる。喉が痙攣し、思考が溶け、最後には愛する家族の喉笛に食らいつく。

あの地獄。


「来るな!来ないでくれえええええ!」


男は石畳の上で胎児のように丸まり、激しく嘔吐した。

犬は驚いて後ずさり、悲しげに「クゥ」と鳴いた。

その鳴き声さえも、男には死の宣告に聞こえた。


「ごめんなさい、ごめんなさい……!優しくしたのが間違いだったんだ、撫でてやったのがいけなかったんだ、排除すべきだったんだ、あの日、あの時、一匹残らず殺しておけば……!」


男は泣き叫びながら、汚物と血にまみれた手で顔を覆った。

その時。

群衆が、道を開けた。

静寂が伝播した。それまでのざわめきが、まるでスイッチを切ったように消え失せる。

コツ、コツ、と。

ヒールの音だけが、世界に響いた。

男は、震える指の隙間から、その音の主を見た。

逆光の中、黄金の光を背負って歩いてくる人影。

透き通るような白肌。太陽の糸を紡いだような金色の髪。

そして、慈愛に満ちた、しかし、絶対零度の冷たさを秘めた青い瞳。

男の呼吸が止まった。

心臓が早鐘を打ち、血液が逆流する。

あり得ない。

絶対に、あり得ない。

彼女はかつて、死んだはずだ。

彼女は祈りを捧げながら、光の中に消えたはずだ。

彼女の死こそが、世界の終わりの合図だった。

彼女が残した「無償の愛」という教義だけが、呪いのように残り、人々を無抵抗な死へと導いたのだ。

彼女こそが、世界を愛しすぎて窒息させた独裁者。

彼女がいなくなった瞬間、愛の供給を断たれた赤子のように、人類は泣き叫びながら死滅したのだ。

だが。

彼女は、そこにいた。

炎に焼かれることもなく、病に侵されることもなく。

圧倒的なまでの「生」を纏って、そこに立っていた。


「……あ、あ……」


男の口から、泡が溢れた。

それは恐怖か、歓喜か、あるいは信仰の復活か。

彼は這いつくばったまま、その人影に向かって手を伸ばした。

血にまみれた汚らわしい手を、その高潔な存在へと。


「……生きている!」


男は叫んだ。

喉が裂けんばかりの絶叫だった。

周囲の人々は、この瀕死の男が、奇跡的に助かった自分の命に感謝して叫んだのだと思った。

だが、違う。

男の瞳には、自分自身など映っていない。

彼の瞳孔のすべてが、目の前の「女神」だけを捉えていた。


「生きている!神よ!悪魔よ!……死神よ!」


男の脳内はぐちゃぐちゃだった。

生きていて、嬉しい。会えて、嬉しい。

だが、同時に吐き気がするほどの恐怖が襲ってくる。

彼女がいるということは、ここはまだ「途中」なのか?

これから、あの地獄が始まるのか?

彼女が説く愛が、また世界を殺すのか?

それとも、この世界は彼女が死ななかったからこそ、こうして続いているのか?

わからない。男の論理回路は完全にショートしていた。

「女神」の背後には、白い髪の少女が控えていた。

少女の赤い瞳が、男を冷徹に分析する。

少女の本能が警鐘を鳴らす。

この男は汚染源だ。

「依存という名の絶望」を保菌している。

彼が存在するだけで、この世界の幸福な確率変動が、悪い方へと引っ張られるかもしれない。

殺すべきか?

今ここで、事故に見せかけて処理すべきか?

少女の手が、ポケットの中のナイフに伸びた。

だが、「女神」は止まらなかった。

彼女は男の前で、一瞬だけ足を止めた。

男は期待した。

彼女が跪き、その白い手で自分の汚れた頬を撫で、「可哀想に、愛しています」と囁いてくれることを。

その言葉があれば、自分は救われる。そして同時に、この世界も終わる。

その甘美な破滅を、男は無意識に望んでいた。

……しかし。

「女神」の青い瞳は、男を見下ろしていなかった。

彼女の瞳の奥に、一瞬だけ、激しい動揺と、深い悲しみが走ったのを、誰も気づかなかった。

彼女の魂は理解していた。

目の前の男が、自分の「独りよがりな愛」が生み出した残骸であることを。

自分が全てを許し、全てを与え、全てを背負ってしまったがゆえに、自分がいなくなった瞬間に自立できずに滅んだ世界の末路であることを。

彼を助けることは簡単だ。

手を差し伸べ、傷を癒やし、パンを与えればいい。

だが、それは「同じ過ち」を繰り返すことだ。

彼を再び、自分の愛なしでは生きられない家畜へと戻すことだ。

だから、彼女は選んだ。

冷酷になることを。

愛するがゆえに、突き放すことを。

彼女は、男の血濡れの手が、自分のドレスの裾に触れる寸前で、優雅に身を翻した。

「女神」は、少女に言った。


「……行きましょう」


冷淡な声。

そこには、男が求めた慈愛も、男が恐れた狂信もなかった。

ただ、圧倒的なまでの「行動力」だけがあった。

彼女は男を助けない。

安易な慈悲が何を生むか、彼女は「魂の記憶」で知っているからだ。

目の前の狂人は、自分の死後の姿なのだ。

「女神」は、男を跨ぐようにして通り過ぎていった。


「……え?」


男の手は、空を掴んだ。

指先が震える。

助けてくれないのか?

愛してくれないのか?

見殺しにするのか?

あんなに、あんなに崇めていたのに。

貴女の教えを守って、私は家族を見殺しにしたのに。

貴女は、生きているくせに、私を救わないのか。


「あ……ああ……ああああああああ!」


男は地面に頭を打ち付け、慟哭した。

それは、感謝の涙ではなかった。

見捨てられた絶望と、そして「見捨てられたからこそ、この世界は滅びないのだ」という、残酷な真実への理解だった。

彼女はもう、男の知る「女神」ではなかった。

彼女は、この平和で世界を愛する、「人間」として生きていた。

そして男は悟った。

自分が見捨てられたこの瞬間こそが、この世界が「正解」である証明なのだと。

少女は、通り過ぎざまに一度だけ男を振り返った。

その赤い瞳と、男の狂った瞳が交錯する。

彼女もまた、気づいてしまった「可能性の分岐」を、思考の奥底へと封印した。

考えない。考えてはいけない。

「女神」がいるこの世界だけが、真実なのだから。

けれど、背筋を走る悪寒は消えない。

もし、「女神」がいなくなったら?

この美しい王都も、一瞬であの男が見た地獄へと変わるのではないか?

男は、往来の真ん中で一人残された。

犬が再び近づいてきて、男の顔についた吐瀉物を舐めようとする。

男はもう、悲鳴を上げる気力もなかった。

ただ、眩しすぎる太陽と、冷たすぎる「女神」の背中を見送りながら、壊れた玩具のように笑い、そして泣き続けた。

世界は続く。

彼──哲学者・シュピーゲル博士──が知る破滅の未来を、薄氷の上で回避しながら。

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