定理10:雪山をサバイブしたい!(後編)
上下左右の感覚すら消え失せる白い地獄を、一行は進んでいた。風速は五十メートルを超え、体感温度はマイナス四十度を下回る。王都の冬など、ここでは児戯に等しい。
隊長率いる獣人部隊が、雪をかき分けながら先導していたが、その歩みは次第に重くなっていた。
「総員、停止!……くそっ、これ以上は進めない!」
中腹の岩陰で、隊長が叫んだ。彼の屈強な身体が小刻みに震えている。寒さではない。山頂から吹き降ろす魔力の風が、鋭敏なサメの感覚神経を直接ヤスリで削るような苦痛を与えているのだ。
後ろを見れば、女性兵士も耳を塞いでうずくまり、偵察員は吐き気を堪えるように口元を押さえている。
「すまねぇ……情けない話だ。地元の俺たちが、ここまでしか行けないとはな……」
隊長が悔しげに拳を雪壁に叩きつける。その背中を、エラーラがポンと叩いた。
「十分だよ、隊長。ここから先は、魔術的な汚染区域だ。生物としての正常な機能を持つ君たちには荷が重すぎる。……逆に言えば、ここからは我々のような異常者の領域だ」
エラーラはゴーグルを調整し、三人の娘たちに目配せをした。その瞳には、少しの迷いもない。
「ナラティブ、前衛。物理的な障害を排除しろ。グリッチ、センサー全開。私の脳とリンクしてナビゲートを頼む。そしてアリシア」
「はい、お母様」
「君が司令塔だ。君の声だけが、この嵐の中で唯一汚染されない正解になる。頼んだよ」
「お任せください。……さあナラティブさん、右前方へ三十度。風の切れ目がありますわ」
「了解ですわ、姉さん! オラオラオラァッ!」
ナラティブが叫び、鉄扇を一閃させる。本来なら扇ぐための道具が、彼女の怪力によって凶器となり、積雪を物理的な衝撃波で吹き飛ばして道を作った。
その背中を見送りながら、隊長は呟いた。
「……頼んだぞ、ヴェリタス一家。死ぬなよ」
獣人たちが姿を消すと同時に、エラーラたちは「死の領域」へと踏み込んだ。
そこは、物理法則がねじ曲がった世界だった。雪が下から上へと降り、重力がランダムに変化し、色彩さえもが反転して見える。
「お姉ちゃん、三時の方向から高エネルギー反応!質量、推定四トン!来るよ!」
グリッチの警告と同時に、吹雪が爆ぜた。
現れたのは、山のような巨体を持つ、漆黒の熊だった。
クロウ・オブ・マウンテン。この山の主であり、今は過剰な魔力によって変異した魔獣。全身からは紫色の瘴気が噴き出し、咆哮だけで雪崩を引き起こすほどの圧力を放っていた。
「グルルルゥゥ……ッ!」
「ヒッ、お母様! あれは物理攻撃が通じませんわ! あたしの鉄扇が滑ります!」
ナラティブの一撃が、熊の纏う魔力障壁に弾かれる。物理無効。魔法も霧散する。難攻不落の要塞だ。生物としてのコードが書き換えられ、破壊衝動だけのループ処理に陥っている。
「お母様、下がっていてくださいまし!あんな理性のかけらもない獣、あたしが……」
「いいえ、ナラ君。あれは君の物理攻撃じゃ分が悪い。交代だ」
エラーラが止めるよりも早く、白銀の影が飛び出した。グリッチだ。
彼女は嬉々として、その狂気に満ちた赤い瞳を見開いた。
「お姉ちゃんの休暇を邪魔するなんて、本当に悪い熊さんだね!その存在、コンパイルエラーとして強制終了しちゃうよ!」
グリッチのリュックが展開し、規格外の魔導アームが出現する。この世界の技術体系を完全に無視したオーバーテクノロジーの塊だ。
「出力制限解除。オーバーフロー攻撃開始!」
閃光が走った。
グリッチが放ったのは、魔力の奔流ではなく、純粋なエネルギーの飽和攻撃だった。熊の魔力障壁など紙切れのように引き裂き、その巨体を物理的に、そして概念的に粉砕していく。
それは戦闘というよりは、一方的な削除作業だった。
「すご……い……」
ナラティブが呆然と呟く中、熊は断末魔を上げることもなく、光の粒子となって消滅した。
後に残ったのは、晴れ渡った青空と、雪洞の中で震える小さな影だけだった。
「姫様!」
アリシアが駆け寄る。姫は意識が朦朧としており、身体は氷のように冷たかった。
魔獣は倒したが、姫の命の灯火は消えかかっている。
「低体温症の末期だね。通常の加温じゃ間に合わない。心停止まであと数分といったところか」
エラーラは冷静に診断を下すが、その表情は焦りを見せていた。
ここで魔法を使えば、弱りきった姫の身体にショックを与えてしまう。かといって、焚き火程度では手遅れだ。
「……論理的に考えろ、エラーラ。熱伝導率、表面積……」
彼女はブツブツと呟き、そして一つの結論に達した。
「アリシア、上着を脱ぎなさい」
「……はい?」
「君の魔力を持たない無垢な肉体こそが、最も効率的な熱交換器になる。私の魔力で君の代謝を極限まで上げ、その熱を直接、姫に伝えるんだ」
「分かりましたわ、お母様」
アリシアは躊躇なく防寒具を解き、肌着姿になって姫を抱きしめた。
エラーラがアリシアの背中に手を当て、慎重に魔力を流し込む。
ナラティブも、風よけになるようにその大きな背中で入り口を塞いだ。
「……うぅ……」
姫が微かに呻く。体温は戻りつつあるが、意識は混濁している。エネルギーが足りない。
「何か、消化が良く、即座にカロリーになるものは……」
エラーラがポケットを探るが、あるのは粉々になったドーナツのカスだけだ。
その時、姫のポケットからカサリと音がした。ナラティブが取り出すと、それは封の切られていないインスタント・コーンスープの袋だった。
「これですわ!でも、お湯がありません!」
「僕に任せて!」
グリッチが雪洞の外へ飛び出した。彼女は両手一杯に綺麗な新雪を掬い上げると、金属製のシェラカップに入れる。そして、指先から青白い炎――超高熱の指向性プラズマ――を噴射した。
「即席魔導ボイリングだよ!」
シュゥゥゥッ!
一瞬で雪が沸騰したお湯に変わる。グリッチはそこにスープの粉末を入れ、スプーンで手早くかき混ぜた。甘く、温かい香りが極寒の空気に広がる。
グリッチは、それを慎重に雪洞の中へ運んだ。
「はい、お姫様。あーんして」
アリシアに抱かれたまま、姫はゆっくりと目を開けた。目の前には、白衣の女、筋肉質の美女、そして機械仕掛けの少女がいる。夢か現かも定かではない状況で、彼女は差し出されたスプーンを口に含んだ。
「……おい、しい……」
その一言が、勝利の合図だった。
熱狂的な愛と、常識外れの科学力が生み出した一杯のスープ。それはどんなエリクサーよりも尊く、彼女の命を繋ぎ止めたのだ。
「よかった……本当によかったですわ」
アリシアの瞳から涙がこぼれ、姫の頬を濡らす。
その光景は、どんな魔法よりも美しく、論理的な愛の証明だった。
下山した彼女たちを待っていたのは、ロッジが揺れるほどの大歓声だった。
「あんたたち、本当に生きて戻ってくるとはね!」
女性兵士が豪快に笑い、エラーラの背中を叩く。その衝撃でエラーラは珈琲をこぼしかけた。
偵察員と地図製作者も、涙目でナラティブたちの無事を喜んでいる。
「……見事だ、ヴェリタス一家」
隊長が歩み寄り、エラーラに右手を差し出した。
「俺の負けだ。あんたたちの論理は、この吹雪よりも強かった。……そして、その温かさもな」
隊長の言葉に、エラーラは少しだけ照れくさそうに鼻を鳴らした。
「フム。勝敗を競った覚えはないがね。ただ、私の計算通りになっただけだよ」
エラーラはニヤリと笑い、そのザラザラした手を握り返した。
「さあ、湿っぽい話はここまでだ!姫様も無事だ、今日は俺の奢りだ!飲んで食って、身体を温めろ!」
隊長の号令と共に、ロッジは祝宴の場へと変わった。
次々と運ばれてくるのは、フロストガルドの名物料理たちだ。
「うわあ!見てください姉さん!この氷雪猪の厚切りロースト!脂身が甘くて、口の中で溶けますわ!」
ナラティブが皿に山盛りになった肉にかぶりつく。その横には、女性兵士と偵察員が座っており、彼女を挟み撃ちにしていた。
「ほらほら、ナラティブちゃん。もっと食べなよ。細いんだから」
偵察員が極太の尻尾をナラティブの膝に乗せる。
「はひぃ!?……ああ、神よ。肉の旨味と毛皮の感触……五感が……五感が幸せでオーバーフローしています……」
ナラティブは至福の表情で白目を剥きかけている。
「これ、すごく美味しいですねぇ。チーズがとろとろで……」
姫もすっかり顔色を良くし、アリシアに介抱されながら岩魚と根菜のチーズフォンデュを頬張っていた。熱々のチーズが絡まったホクホクのジャガイモを食べる姫の姿は、見ているだけで幸せな気持ちになる。
「お姉ちゃん、あーん!」
「はいはい、グリッチ。……フム、この地酒、発酵プロセスに特殊な菌を使っているね。面白い」
エラーラもまた、地図製作者と酒を酌み交わしながら、リラックスした表情を見せていた。
外の吹雪は止み、窓からは満天の星空が見える。
暖炉の火がパチパチと爆ぜ、人々の笑い声が響く。そこには、種族も身分も関係ない、ただ生還を祝う温かな一体感があった。
これこそが、エラーラが求めたハッピーエンドの形。
誰も死なず、誰も悲しまず、ただ美味しいものを食べて笑い合う。
そのために彼女は、論理と狂気を武器に戦うのだ。
しかし、その幸福な時間は長くは続かなかった。
数日後、王都の探偵事務所に戻ったエラーラを待っていたのは、一枚の封筒だった。
差出人は、フロストガルド観光協会。
「……なんだあ、これは」
震える手で封を開けたエラーラは、そこに書かれた数字を見て、絶叫することになる。
それは、山の地形変形による生態系修復費用として三千万クレスト、ロッジの備品損壊及びクリーニング代として五百万クレスト、そして祝宴における飲食代の一千五百万クレストが並ぶ、悪夢のような一覧表だった。
隊長が支払ったのは酒代のみであり、それ以外の全てが、救助の代償としてヴェリタス家に降りかかったのだ。
合計、五千万クレスト。
「隊長ォォォォ!奢りの定義を、もう一度論理的に議論しようじゃないかァァァッ!」
ヴェリタス探偵事務所に、今日も平和な悲鳴がこだました。
借金は減るどころか増え、エラーラの借金返済への道はまた一歩遠のいた。
だが、机の上に飾られた、雪山での全員の笑顔が写った写真を見れば、この赤字も必要経費として処理できるのかもしれない。
「……まあ、悪くない休日だった、ということにしておこうか」
エラーラは冷めた珈琲を啜り、そっと写真立てを伏せた。




