定理9:完璧なステーキを食べたい!(後編)
ヴェリタス探偵事務所のキッチンは、今や王都のどの一流レストランよりも過酷な論理的戦場と化している。エプロンをきつく締め直し、細縁眼鏡を曇らせながらフライパンを振るアスナ・クライフォルトの背中には、もはや官僚の硬さは微塵もなかった。あるのは、エラーラの緑色のスライムという名の冒涜を上書きし、完璧な美食を家族の胃袋にインストールするという、執念にも似た情熱だ。
「エラーラさん、口を動かす暇があるなら、そのドーナツの粉を白衣から払い落としてください!ナラティブさん、お皿の余熱は!?コンマ五秒の遅れも許されませんわよ!」
アスナの指揮は苛烈を極めた。彼女は竜人の強靭な体力をフルに活用し、四つのコンロを同時に操り、ソースを煮込み、肉を焼き、付け合わせの野菜を絶妙なタイミングでソテーしていく。
「わ、わかってるわよ!一流のレディに皿洗いをさせるなんて、あんたも大概ね!でも、この手際の良さ……認めざるを得ないわ。あたしの鉄扇による換気効率が、あんたの調理速度を最大化している結果ですわね!」
ナラティブ・ヴェリタスは、不平を言いながらも、アスナの神がかった手際に圧倒されていた。彼女の鉄扇は、今は立ち上る湯気を効率よく換気扇へと送る一流の魔導扇風機として機能しており、調理場の空気循環を最適化している。
「あはは!全員のバイタルサインが急上昇してるよぉ!特にアスナお姉ちゃんの魔力出力、過去最高記録を更新中だねぇ!私のセンサー、このステーキの表面温度が分子レベルで均一化されていくのを観測してるよぉ!」
グリッチ・オーディナルが、自らのセンサーをフライパンの温度計代わりに使いながら、狂気的な歓喜と共に報告する。キッチンの空気は、まさに沸騰していた。
「ナラ!見てくれよこのソースの色彩!まるで夕暮れの王都を煮詰めたような、官能的な琥珀色だ!これにあたしの魂の筆致、芸術的に刻まれたパセリを加えれば、まさに不朽の名作の完成だぞ!」
リウ・ヴァンクロフトが、筋肉質な腕で巨大な泡立て器を回しながら絶叫する。彼女の褐色肌には、調理の熱気で美しい汗の粒が光っていた。
「……ジャガイモ、剥いた。あとはデバッグ待機……。お腹空いた。寝て待つ……」
ルル・ヴァンクロフトは、床に座り込み、剥き終えたばかりの完璧なジャガイモの山を背に、既に半分夢の中にいた。彼女の極太の尻尾は、アスナの気迫に押されて床をパタパタとリズムよく叩いている。
平和で、やかましくて、知的で、そしてどうしようもなくヴェリタス家らしい光景。エラーラは、そんな彼女たちの非論理的な熱狂を、膝の上で喉を鳴らすネコと共に眺めていた。彼女の脳内では、先ほど自分が生み出した緑色のスライムの失敗データと、今目の前で構築されている正解が、激しく火花を散らして照合されている。
「フム……。素材のメイラード反応、スパイスによる嗅覚へのハッキング、そして作る者の自己犠牲。アスナ君、キミの記述している数式には、私の理論にはない情動という名の定数が含まれているようだねぇ」
だが、その称賛が完成へと繋がる寸前、予期せぬバグが発生した。
「仕上げですわ!この、私が規制局の証拠品保管庫から……いえ、私物として持ってきた極限抽出スパイスを……あ、あぅっ!?」
アスナが最後の一振りを加えた瞬間、彼女の足元にいたネコがその尻尾にじゃれついた。バランスを崩したアスナの手から、瓶の中身が全て鍋へと吸い込まれた。そのスパイスは、魔力反応を数千倍に増幅させる、王都では取扱注意の劇物だったのだ。
「エラー、エラー!物理法則の崩壊係数が臨界点を超えたよ!」
グリッチの叫びと同時に、キッチンの中心で太陽が生まれたかのような閃光が走った。
ドォォォォォォォォォォォォン!!!!!
凄まじい爆音。爆風。だが、それは建物を壊すものではなく、調理された全ての食材を情報の嵐へと変える衝撃波だった。真っ白な煙が晴れた後、そこには煤で顔を真っ黒にし、自慢の髪を逆立たせたアスナが、力なく膝をついていた。
「……終わりましたわ。私の、私のフルコースが……。失敗、です。また、爆発オチ……。私は、無能ですわ……」
アスナの瞳に、絶望の涙が浮かぶ。テーブルの上には、爆風によって無惨に飛び散ったように見える、真っ黒に焦げ、あるいは形を失った何かが転がっていた。ナラティブもリウも、あまりの惨状に言葉を失い、グリッチですら「これは流石にデバッグ不能だよ……」と肩を落とした。
しかし。
「……フム。アスナ君。キミは、自分の失敗という名の演算結果を、まだ正しく観測できていないようだねぇ」
エラーラが、静かに立ち上がった。彼女はゆっくりとテーブルに歩み寄り、煤を被った一塊の、もはや炭にしか見えない物体を手に取った。
「エラーラさん、やめてください!そんな、失敗作を食べさせるなんて……!」
「……黙って見たまえ。真理の探求者は、外見という名のインターフェースに惑わされないのだよ」
エラーラは、一切の躊躇なくその黒い塊を口に運んだ。
静寂。
次の瞬間、エラーラの銀髪が逆立ち、知的好奇心の奴隷である彼女の脳内に、宇宙の誕生にも匹敵する論理爆弾が投下された。
「…………ッ!!な、なんだぁ、この情報の奔流は……!?外側は魔力反応による急速炭化で凝縮された旨味の膜、そして内部は……爆発の衝撃波によって細胞レベルで均一化された、極限の柔らかさ!完璧だ、不完全なミスが生み出した、計算不能な奇跡じゃないか!」
エラーラは震える手で皿を掴み、叫んだ。
「これが真理だ!」
「えっ……?うそ、……美味しい?」
ナラティブが半信半疑で、その黒い肉片を口にした。その瞬間、彼女の赤目が驚愕に大きく見開かれた。
「……!なんですのこれ!表面の焦げが、最高の香ばしさと苦味のアクセントになって……中から溢れ出す肉汁の物語が、あたしの味覚を完全に支配しているわ!」
「あはは!本当だぁ!爆発のエネルギーが、ソースの成分を原子レベルで素材に叩き込んでる!アスナお姉ちゃん、これ、天才的なバグだよ!」
グリッチが歓喜の叫びを上げ、リウは「この味、まさに破壊と再生のコラージュだな!」と絶叫した。ルルに至っては、寝ぼけ眼のまま皿を奪い取り、無言で頬張っている。
「……本当……ですか?私、間違えて、爆発させたのに……」
アスナが、煤けた顔で呆然と呟く。エラーラはそんな彼女の元へ歩み寄ると、自分の白衣の裾を使い、アスナの煤けた眼鏡を丁寧に、ゆっくりと拭い始めた。
「……フム。アスナ君。人間という種が犯すエラーこそが、この退屈な世界を彩る最高のスパイスなのだよ。キミの失敗が、私の計算を超えた福音をもたらした。誇りたまえ、キミのその不器用な情熱を。私は、キミのこういう……論理を超えたところが、嫌いではないよ」
エラーラのハスキーな声が、いつになく優しく響いた。エラーラは不器用に、けれど確かに、アスナの震える肩に手を置き、その健闘を讃えた。
「……エラーラさん。ありがとうございます。……でも、なんか、恥ずかしい、です……」
アスナは、煤で汚れた顔を一瞬にして真っ赤に染めた。眼鏡をかけ直した彼女の瞳は、宿敵であり憧れでもあるエラーラに向けられた、甘美な親愛の情で揺れていた。
「……おや。アスナお姉ちゃん、お姉ちゃんにデバッグされて、完全にプログラムが書き換えられちゃってるよぉ。……これって、いわゆる……いい雰囲気ってやつだねぇ!」
グリッチがニヤニヤしながら、指をさしてツッコミを入れた。その瞬間、隣の席からパチッ!と鉄扇が開く音がした。
「ちょっと!お母様!何を勝手に、あたしの助手を口説いているんですの!?そのアスナの煤を拭く権利は、雇用主であるあたしにあるはずよ!あたしを差し置いて、何がいい雰囲気になってるのよ!あたしにだって、その白衣の裾を使わせてくれてもいいじゃないの!」
ナラティブが、顔を真っ赤にして立ち上がった。彼女の瞳には、明らかな嫉妬の炎が燃え盛っている。お母様が自分以外の誰かを、それもあのアスナを特別扱いするのが、マザコンの彼女には耐えられなかった。
「フム、ナラ君。キミの嫉妬心は、タンパク質の変性よりも激しいねぇ。だが、主役はキミではない。……この、失敗から生まれた最高の奇跡だ」
エラーラは飄々と受け流し、再び肉を口に運んだ。失敗してもいい。間違えてもいい。その先にある人間讃歌という名のバグこそが、ヴェリタス家の食卓を繋ぐ真理なのだから。
「あらあら、おかあさま。わたくしが帰るまで、待てなかったのですわね?」
事務所のドアが開き、アリシア・ヴェリタスが、聖母のような微笑みを湛えて立っていた。彼女の手には、お口直しのための最高級の紅茶が握られている。
「アリシアお姉ちゃん!お帰り!アスナお姉ちゃんが爆発して、お姉ちゃんが負けて、お肉が空から降ってきたんだよぉ!」
「まあ、楽しそうですわね。アスナさん、その煤けたお姿も、一生懸命に家族のために尽くしてくださった証拠ですわ。わたくし、感動いたしました」
アリシアの完璧な善性に満ちた微笑みが、カオスな事務所を瞬時に浄化していく。結局、爆風を免れた全ての料理を全員で囲み、エラーラの講釈を聞きながら、賑やかな、あまりにも賑やかすぎる夕食が始まった。
失敗を恐れず、バグを愛し、不完全なまま互いを肯定する。
王都の夜は、今日もどこまでも非論理的で、そして、とびきり美味しい救済に満ち溢れていた。




