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ヴェリタスの最終定理【完全コメディ小説】  作者: ギデオン・ヴァンツ@週刊コロッセオ記者
シーズン1:日常編

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定理8:マスコットを愛でたい!(後編)

「ああ、私の可愛いエラーラさん。今、新しいお洋服を縫いましたのよ。規制局の制服ですわ。これを着て、私のハンコを押すお手伝いをしてくださいまし……」


アスナは、針と糸を手に、うっとりとした表情で机の引き出しに話しかけていた。その隙をついて、エラーラ・ヴェリタスは第一の脱出作戦を決行した。

エラーラは、アスナが給湯室へお茶を淹れに向かった一瞬の隙を突き、机の上に置かれていた修正液のボトルを倒した。円筒形のボトルにまたがり、書類の山で作られた斜面を一気に滑り降りる計画だ。


「行け! 慣性の法則よ、私を自由へと導きたまえ!」


ボトルが転がり出し、加速する。机の端、自由へのダイブまであと数センチ。

だが、戻ってきたアスナの手が、ゴール寸前で彼女を優しく、しかし確実にキャッチした。


「あらあら、お散歩ですか? 危ないですわよ、高所からの落下は骨折の原因になりますからね」


アスナの指が、エラーラの襟首をつまみ上げる。


「うわぁぁ! 離せ! 私はハムスターではないぞ!」


エラーラは、アスナの豊かな胸の谷間にあるポケットへと幽閉された。心臓の鼓動が直接聞こえるほどの密着度。甘い香りと熱気が、エラーラの思考を麻痺させにかかる。


(くっ……! 柔らかい……いや、苦しい! これはハニートラップだ!)


数十分後。カレル警部が再び顔を出した隙に、エラーラはポケットから這い出し、机の上のクリップと輪ゴムを組み合わせた発射台へと走った。


「自らを弾丸として窓の外へ射出する。多少の衝撃は計算のうちだ!」


エラーラは輪ゴムを極限まで引き絞った。


「発射ァ!」


バチンッ! という音と共に、エラーラが空を飛ぶ――はずだった。

しかし、発射の瞬間、アスナが「あ、書類が落ちそう」と何気なく手を伸ばした。その手が、空中のエラーラを見事にインターセプトした。


「まあ!空を飛びたいのですか? 可愛い!」


アスナはエラーラを両手で包み込むと、満面の笑みで彼女を揺さぶった。


「高い高~い! 高い高~い!」


「やめろ……! 三半規管が……! 私は赤ん坊では……」


激しいGに耐えきれず、エラーラはグロッキー状態に陥り、再び机の上の「スイートルーム」へと戻された。


アスナが残業の疲れでウトウトし始めた深夜。エラーラは最後の力を振り絞り、巨大なインク壺を押し倒した。


「インクの奔流に乗り、サーフィンの要領で机の端から脱出する! 汚れなど気にしてはいられない!」


青いインクが机の上に広がる。エラーラは消しゴムをボード代わりに波に乗った。


「見よ!これぞ流体力学の勝利……!」


だが、インクの飛沫がアスナの頬にかかった。


「……ひゃっ!?」


アスナが飛び起きた。そして、インクまみれになって消しゴムにしがみついているエラーラを発見した。


「きゃっ!エラーラさん!?……ああ、なんてこと。汚れてしまって……」


アスナの目が、怪しく光った。


「お風呂に……入れてあげますわ」


「……え? 待て、アスナ君。そのぬるま湯は何だ? そのタオルは? やめろ、私は自分で洗う! 離せぇぇぇ!」


エラーラはマグカップの湯船に強制的に浸かられ、指先でゴシゴシと洗浄され、タオルで簀巻きにされた。


「ふぅ……。綺麗になりましたわね。さあ、もう寝ましょうね」


万策尽きた。

タオルにくるまれ、机の上に転がされたエラーラは、天井を見上げた。

このままでは、私は本当にここで一生を終えることになる。


(……否!私はエラーラ・ヴェリタス!王都最高の頭脳だ!この程度の檻、論理と物理で粉砕してやる!)


エラーラは、机の上に散乱する文房具、書類の山、そしてゴウが忘れていったスーパーボールを見つめた。

全ての要素が、一つの線で繋がる。


「……見える。勝利の方程式が」


それは、史上最大のピタゴラ装置の構築だった。

アスナがお茶を淹れるために席を立った、わずか三十秒。それが勝負の時間だ。

エラーラは、タオルを脱ぎ捨て、疾走した。

本を立て、定規を架け橋にし、クリップを連結する。


「これぞ、ヴェリタス流・因果律崩壊装置!」


装置の全貌はこうだ。

エラーラが修正液ボトルを倒す。ボトルが転がり、ハンコのドミノを倒す。ハンコが倒れる振動で、テープカッターのストッパーが外れる。テープカッターが滑り落ち、その紐に繋がれたスーパーボールが射出される。スーパーボールは書類の斜面を駆け下り、机の端にある「マナ発生装置」のスイッチを強打する。マナを使って元のサイズに戻った私は、颯爽とここを立ち去る!


「完璧だ……。さあ、アスナ君。お茶の時間はおしまいだよぉ!」


ガチャリ、とドアが開く音がした。アスナが戻ってきたのだ。

エラーラは、全身全霊を込めて、最初の修正液ボトルにタックルした。


「喰らえぇぇッ!」


ゴロン。


ボトルが転がる。


パタ、パタ、パタ……。


ハンコのドミノが、小気味良い音を立てて倒れていく。

アスナがお盆を持ったまま、その光景に気づいた。


「……え? 何を……?」


ガシャン!


テープカッターが落下する。


ビュン!


スーパーボールが射出された。

ボールは美しい放物線を描き、書類の山をバウンドしながら加速していく。

その軌道の先には、机の端ギリギリに設置された、スイッチがあった。

だが、アスナの目には、それは全く別の光景として映っていた。

ボールが机の外へ飛び出す。そして、そのボールを追いかけるように、小さなエラーラが走っている。

彼女には見えたのだ。エラーラが、足を踏み外して、机の下へ落下しようとしている幻覚が。


「エラーラさぁぁぁぁぁん!!!」


アスナの理性が蒸発した。

彼女は愛する妖精を救うために、机に向かって決死のダイビングを敢行した。


「行かないでぇぇぇ! 私が! 守りますわぁぁぁ!」


「……は? バカ、やめろアスナ君! その軌道は……!」


エラーラの計算には、「狂った官僚のタックル」という変数は含まれていなかった。

アスナの身体が机に激突する。


ドォォォォォン!!


その衝撃で、スーパーボールは加速し、スイッチをこれ以上ないほど深く押し込んだ。

同時に、机の上のエラーラは宙に浮いた。

閃光。

再構成ビームが発射される。

光の中で、エラーラの身体情報は急速に展開され、元の質量へと復元されていく。

だが、その光の中心へ、アスナは両手を広げて飛び込んでいた。


「捕まえましたわぁぁぁ!」


アスナは目を閉じ、腕の中に飛び込んできた存在を、ありったけの愛と腕力で抱きしめた。


ギュウゥゥゥゥッ!


「ああ……!なんて温かい!なんて柔らかい! それに、なんだか懐かしい匂いと、しっかりとした質量……!」


アスナは、その「妖精さん」に頬ずりをした。

すりすり、すりすり。


「大好きですわ、エラーラさん。もう離しません。一生、私のお人形さんでいてくださいまし……」


「……アスナ君」


耳元で聞こえたのは、可愛らしい妖精の声ではなく、いつものハスキーで、そして呆れ果てた声だった。


「苦しいよ。あと、君の愛情表現は物理的に重い」


アスナの動きが止まった。

ゆっくりと、恐る恐る目を開ける。

目の前にあったのは、拡大された妖精の顔……ではない。

等身大の、そして非常に気まずそうな顔をした、エラーラ・ヴェリタスの顔だった。


「……え?」


アスナの思考が停止した。

腕の中にあるのは、フィギュアではない。生身の人間だ。

自分が今、押し倒して、抱きしめ、頬ずりをして、「一生お人形さんでいて」と愛を囁いた相手は。

憎たらしく、けれど尊敬してやまない、上司でもあり天敵でもある、あのエラーラ・ヴェリタス本人。


「……あ……あ、あ……」


アスナの顔色が、青から白へ、そして瞬時に沸騰したトマトのような赤へと変化した。


「い、いやぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」


ボンッ!!!


アスナの頭頂部から、蒸気機関車のような勢いで真っ白な湯気が噴き出した。

さらに、口からは羞恥のあまり、制御不能になった竜の炎が漏れ出す。


「わ、私、何を、エラーラさんに、すりすりして、抱きついて、あんなことをォォォッ!」


パニックになったアスナは、火を吹きながら後ずさりした。

その時、ドアが少しだけ開いていた。

隙間から、カレルとゴウが、その一部始終を目撃していたのだ。


「……お父さん。これ、入っちゃダメなやつだよね」


「……ああ。見なかったことにしろ。これは、自然災害だ」


二人はそっとドアを閉め、音もなく立ち去った。

執務室には、荒い息をつくアスナと、白衣の乱れを直すエラーラだけが残された。

エラーラは、机の上から降臨し、眼鏡の位置をクイと直した。

そして、真っ赤になってうずくまり、灰になりかけているアスナを見下ろした。


「フム。……結論。愛玩動物としての生活は、カロリー摂取効率においては優秀だったが……」


エラーラは、少しだけ顔を背け、咳払いをした。


「……君のその、重すぎる愛を受け止めるには、やはり等身大の肉体が必要不可欠のようだねぇ」


「ううぅ……もうお嫁にいけませんわ……」


アスナは虫の息で呻いた。

エラーラは、机の上に残っていた、粉々になったドーナツの欠片を指先で拾い上げ、口に放り込んだ。


「……味は、悪くなかったよ。礼を言う」


エラーラは、ニヤリと笑った。それは、いつもの不敵な笑みの中に、ほんの少しだけ、満更でもない色が混じっていた。

王都の夕暮れ。

規制局の窓から、二人の影が伸びていた。

掌の上の真理は元の大きさに戻ったが、官僚の愛の重量は、これからもエラーラを圧迫し続けることだろう。

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