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【ヴェリタスの最終定理】  作者: ギデオン・ヴァンツ@週刊コロッセオ記者
Phase1

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定理8:マスコットを愛でたい!(前編)

●リメイク元

「エラーラ・ヴェリタス」短編集1 怪奇篇 第9話 大きな世界!

「ナラティブ・ヴェリタス」飼い慣らされる探偵

「効率とは、労力に対する成果の比率であり、労力がゼロに近づいた時、存在も圧縮される」


事の発端は、王都の空が鉛色の雲に覆われた、気怠い月曜日の午後のことだった。ヴェリタス探偵事務所の主、エラーラ・ヴェリタスは、ソファーの上で、テーブルの上のコーヒーカップを恨めしそうに睨みつけていた。


「……遠い」


彼女の指先からカップまでの距離は、わずか三十センチメートル。だが、その距離は今の彼女にとっては絶望的な彼方だった。連日の徹夜研究による疲労と、生まれ持った極度の怠惰が、彼女の運動機能を完全に停止させていたのだ。


「フム……。腕を伸ばし、筋肉を収縮させ、重力に逆らってカップを持ち上げ、口元へ運ぶ。この一連のプロセスに消費されるカロリーと時間を計算すると、私がカフェインを摂取するメリットを上回る可能性があるねぇ。実に非効率だ」


エラーラは白衣のポケットから、怪しげな銀色のストローを取り出した。先端に複雑な魔導回路が刻まれたその筒は、彼女がこの瞬間のためだけに開発した「空間圧縮ストロー」だった。


「空間座標を折り畳み、カップの中の液体を直接、私の口腔内へと転送する。これぞ、怠惰という名の真理への到達点だよ」


彼女はストローをくわえ、空間圧縮の術式を起動した。だが、彼女は一つだけ致命的な計算ミスを犯していた。現在の彼女の魔力残量が、徹夜明けで極端に低下しており、空間を固定するだけの「アンカー」としての質量が足りなかったのだ。

ジュポッ、という間の抜けた音が事務所に響いた。

次の瞬間、ストローが吸い込んだのはコーヒーではなく、エラーラ自身の「存在確率」だった。世界という巨大なキャンパスの上で、彼女の座標定義がバグを起こし、シュルシュルと音を立てて圧縮されていく。


「おや……? 視界のパースがおかしいねぇ。天井が高く……いや、私が小さくなっているのか!?」


エラーラの身体は見る見るうちに縮んでいき、ついには身長十五センチメートル、愛らしい掌サイズの人形へと変貌してしまった。


「フム。……体積だけが減少したか。これはこれで興味深い現象だが、コーヒーがさらに遠くなったのは計算外だね」


小さくなったエラーラにとって、住み慣れた探偵事務所は、突如として死地へと変貌した。

地響きと共に現れたのは、普段は足元にまとわりついてくるだけのネコだった。だが今のエラーラにとって、それは巨大な毛むくじゃらの怪獣だった。


「ニャゴ」


「ひっ!待て、ネコ君!私はキャットフードではないよ! そのザラザラした舌で舐めるのはやめたまえ!」


ネコの愛情表現から命からがら逃げ出したエラーラを待っていたのは、さらなる絶望だった。

轟音と共に、巨大な掃除機を操る黒い影が迫ってくる。ナラティブ・ヴェリタスだ。


「あら? 何かゴミが落ちてますわね。……うわっ、大きな虫!?」


「ナラ君!私だよ!お母様だよ!」


「きゃああっ!喋った!」


ナラティブの構える掃除機のノズルが、ブラックホールのようにエラーラを吸い込もうとする。エラーラは必死にテーブルの下をくぐり抜け、部屋の隅に積まれていた宅配用の段ボール箱へと飛び込んだ。


「ハァ……ハァ……。私の家が、こんなに危険な場所だったとは……」


エラーラは膝を抱えて震えた。このままでは、実験の失敗データとして記録される前に、物理的に消滅してしまう。生き延びるためには、安全地帯へ避難しなければならない。

最も清潔で、最も秩序が保たれ、そして何より、私を「虫」として扱わない人物の元へ。

エラーラは箱の宛名ラベルを書き換えた。震える手で記した行き先は、王都魔導規制局。受取人は、アスナ・クライフォルト。


「アスナ君なら、その真面目さゆえに、私を丁重に扱うはずだ。……頼んだよ、王都の物流システム!」


エラーラは自らを梱包し、集荷に来たゴーレム便の荷台へと揺られていった。

一方、その頃。王都魔導規制局の執務室は、陰鬱な空気に支配されていた。

アスナ・クライフォルトは、山のように積まれた未決書類の塔に埋もれながら、死んだ魚のような目でペンを動かしていた。


「……承認、承認、却下、承認……。ああ、もう……世界なんて爆発すればいいのです……。ドーナツの海で溺れたい……。エラーラさんの淹れた苦いコーヒーが飲みたい……」


彼女の精神は限界を迎えていた。カレル警部から押し付けられた「エラーラ・ヴェリタスによる公共物破損報告書」の処理が、彼女の理性を削り取っていたのだ。


「いっそ、私がバグになって、この書類の山を消滅させたい……」


そんな呪詛を吐いていた彼女の元に、局内郵便のゴーレムがやってきた。


「荷物デース。重要物品、取扱注意デース」


「はいはい……。どうせまた、新たなトラブルの報告書でしょう……」


アスナは気怠げに箱を受け取り、カッターで封を切った。

中から、小さな、本当に小さな銀髪の「妖精」が顔を出した。不機嫌そうに腕組みをし、眼鏡の位置を直しながら、その妖精は言った。


「フム、アスナ君。緊急避難だ。私を保護したまえ」


アスナの動きが止まった。

時が止まった。


「……え?」


アスナは眼鏡を外し、目をこすり、もう一度箱の中を見た。

そこにいるのは、エラーラ・ヴェリタス。あの日々彼女を悩ませ、振り回し、そして心の底から敬愛してやまない天才魔導師。それが、掌に乗るサイズになって、自分のデスクの上にいる。


「か……神よ」


アスナの瞳に、急速にハイライトが戻った。いや、戻ったのではない。狂気的な輝きが宿ったのだ。


「これは……激務の果てに、神が私に与えたもうた究極のボーナス……?エラーラさんの、フィギュア……?」


「フィギュアではないよ、アスナ君。実験に失敗してね。元のサイズに戻るための解析が終わるまで、ここで匿ってほしいのだが」


エラーラの言葉など、アスナの耳には届いていなかった。彼女にとって、目の前の存在は「守るべき尊い命」であり、「愛でるべき至高の存在」へと即座にカテゴリ変換された。

アスナは音もなく立ち上がり、無言でオフィスのブラインドを全て下ろした。そして、執務室のドアに二重、三重の施錠を施した。


「……アスナ君? なぜ鍵をかけるんだい? 空気が薄くなるよぉ」


アスナは震える手でエラーラを掬い上げた。その手つきは、壊れ物を扱うよりも慎重で、そして熱っぽかった。


「ああ……!私の、私だけの妖精さん……!」


アスナはエラーラを頬ずりした。竜人の高い体温と、甘い柔軟剤の香りが、エラーラを包み込む。


「ちょ、苦しい! 圧が強いよ、アスナ君!」


「ああ、ごめんなさい! 潰してしまいそうでしたわ! さあ、ここへ! ここがあなたの新しいお家ですわ!」


アスナは、机の一番下の引き出しを勢いよく開けると、中身を躊躇なくシュレッダーに放り込んだ。そして、自身の鞄から最高級シルクのハンカチと、予備の新品ストッキングを取り出し、ふかふかのクッションを作り上げた。


「さあ、どうぞ! ここなら誰にも邪魔されませんわ!」


エラーラは呆気に取られながらも、その柔らかな寝床に着地した。


「フム……。国家機密の上に寝るというのは背徳的だが……悪くない感触だねぇ」


「お腹は空いていませんか? 喉は渇いていませんか?」


アスナは、実験用のスポイトで極上のコーヒーを吸い上げ、エラーラの口元に運んだ。さらに、ピンセットで一つまみした高級ドーナツの欠片を、まるで小鳥に餌を与えるように差し出す。


「はい、あーんしてくださいまし!」


「……扱いが愛玩動物そのものだが……。パクッ。……フム、美味い」


エラーラはシルクの寝床に寝転がりながら、冷静に損得勘定を始めた。

衣食住は完全に保証されている。外敵であるネコもここにはいない。移動が必要なら、アスナ君が喜んで運んでくれるだろう。

これは、私が求めていた「究極のエネルギー効率」ではないか?


「アスナ君、もう少し空調を弱めてくれたまえ。あと、ドーナツのシュガーコーティング部分だけを削り出してほしい」


「はい! 喜んで! ああ、なんて我儘で可愛いのでしょう!」


アスナは恍惚とした表情で、エラーラの要求に応え続けた。

官僚としての職務放棄。私物化。横領。数々の規則違反を犯しながら、彼女はこの小さな楽園を守る守護者となった。

だが、その平穏は長くは続かなかった。

コンコン、とドアがノックされた。


「アスナ君? いるかね? 追加の資料を持ってきたんだが」


カレル警部の声だ。

アスナは一瞬で現実に引き戻されたが、すぐに「守護者」の顔になった。


「い、いますわ! 今、少し取り込み中で……!」


「鍵が開いていないぞ。……入るよ」


カレルは合鍵を使って無遠慮に入ってきた。後ろには、物珍しそうな顔をしたゴウもいる。


「うわぁ、資料の山だね。アスナさん、生きてる?」


「い、生きてますわ! ……用件は何ですの!?」


アスナは机の引き出しを背中で隠すように立ちふさがった。


「ああ、明日までの緊急案件だ。エラーラ君が行方不明になっているらしくてね。探偵事務所がパニックになっているそうだ」


カレルが無慈悲に書類タワーを積み上げる。

普段なら「ふざけないでください!」と火を吹くアスナだが、今は違った。彼女の背後、引き出しの中には「行方不明のエラーラ」が眠っている。この背徳的な秘密が、彼女に余裕を与えていた。


「ええ、わかりましたわ。全て処理します。……だから、早く帰ってくださいまし」


聖母のような微笑みで了承するアスナに、カレルは戦慄した。


「……アスナ君がついに壊れたか。……ゴウ、帰るぞ。刺激してはいけない」


「うん……。でもお父さん、アスナさんの尻尾が、机の下ですごい勢いでとぐろを巻いてるよ。何かを守ってるみたい」


「……見なかったことにしろ」


二人が去った後、アスナはへなへなと座り込んだ。そして、愛おしそうに引き出しを開けた。

そこでは、エラーラが呑気に寝息を立てていた。

アスナは、その寝顔を見つめながら、魔導スレートを取り出した。

画面には、彼女が密かに書き溜めていた設計図が表示されている。

タイトルは『エラーラちゃん専用・永住型ドールハウス』。


「ふふふ……。もう、外の世界なんて危ないですものね。私が、一生守ってあげますから……」


アスナの瞳が、暗く、重く、濁った愛の色に染まっていく。

その呟きを、寝たふりをしていたエラーラは聞いてしまった。

背筋に、氷のような戦慄が走る。


(……マズい。これは、非常にマズいぞ)


エラーラの科学者としての本能が警鐘を鳴らした。

このままでは、私は「真理の探究者」から、ただの「アスナ君のコレクション」になってしまう。


「……それは、論理的に却下だ!」


エラーラは、カッと目を見開いた。

脱出しなければならない。この、あまりにも居心地が良く、そして恐ろしい「愛の監獄」から。

だが、身長十五センチの身体では、机の上から飛び降りることすら自殺行為だ。

エラーラは、机の上に散乱する文房具と、カレルが置いていった書類の山を見上げた。


(フム……。物理法則は、サイズが変わっても平等だ。私の知能があれば、ここにあるガラクタを組み合わせて、奇跡を起こせるはず……!)


エラーラの瞳に、知性の光が戻った。

これは、天才魔導師エラーラ・ヴェリタスによる、史上最小にして最大の脱出作戦の幕開けだった。

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