定理7:バグで世界を救いたい!(前編)
●リメイク元
「エラーラ・ヴェリタス」短編集1 怪奇篇 第5話 完璧な美少女!
「エラーラ・ヴェリタス」未来を守る探偵
「ナラティブ・ヴェリタス」密告者たちの青春
「法とは冷徹なアルゴリズムであるが、そこに慈悲が介入した時、初めて『正義』へと昇華される」
王都の夜は、秋雨前線の停滞によって分厚い雲に覆われ、街全体が巨大な水槽の底に沈んだかのような湿気に満ちていた。ヴェリタス探偵事務所の窓ガラスを、冷たい雨粒が絶え間なく叩いている。
「フム……。カレル君。君の持ち込む事件は、いつも私の知的好奇心を刺激するには塩分が足りないねぇ」
エラーラ・ヴェリタスは、白衣の腹部にドーナツの砂糖を雪のように積もらせながら、カレル警部が持ち込んだ捜査ファイルをパラパラと捲っていた。
「そう言わんでくれ、エラーラ君。被疑者の少女はまだ子供だが、やったことは凶悪だ。白昼堂々、王都の路地裏で同級生に向けて致死性の冷却魔法を放ち、被害者の少女を氷像に変えた挙句、金目の物を奪って逃走。……現場の魔力痕跡と目撃証言は、残念ながらクロだと言っている」
カレル警部が疲れ切った顔で煙草を取り出そうとし、アリシアの視線に気づいて慌ててポケットに戻した。そのアリシア・ヴェリタスは、散らかり放題だったデスクを「聖域化」という名の清掃活動で片付けていた手を止め、一枚の写真に見入っていた。
「おかあさま。……このファイル、少し拝見してもよろしいかしら?」
「フム、アリシア。写真の制服が気になるのかね? 聖アフェランドラ学園。君の母校だねぇ」
エラーラはそう言いながら、手近なネコの頭を無造作に撫でた。ネコは「その撫で方は論理的ではないですよ」と言いたげに尻尾でエラーラの手を叩いた。
アリシアは、ファイルに記された被疑者の少女――と、その行動記録、そして何より写真に写る被疑者の少女の瞳を、彼女の持つ最強の管理者としての直感で読み解いていった。被疑者の少女はエルフ族の少女で、怯えたような、しかし芯の強い瞳をしていた。
「おかあさま、……正式にわたくしの直感という名の演算結果を申し上げます。この被疑者の少女は無実ですわ。……彼女の瞳は、悪意を抱くにはあまりにも透明すぎますもの」
「おいおい、アリシアさん。気持ちは分かるが……感情論で捜査を捻じ曲げるわけにはいかんよ。財布を持って逃げているのは事実なんだ」
カレルが困惑したように頭を掻く。エラーラも同意するように頷いた。
「そうだねぇ。それに、財布を奪ったということは、背後に金銭を要求する組織がいる可能性も否定できない。ここは彼女を泳がせて、アジトを特定するのが論理的な捜査手順だよ」
それは、あまりにも正しく、大人の理屈だった。だが、アリシアはその言葉を聞いた瞬間、手にしていたティーカップをソーサーに置いた。カチャン、という硬質な音が、雨音よりも大きく響いた。
「……泳がせる? 今すぐ保護しなければならない子供を、泳がせる、とおっしゃいましたの?」
「アリシア? どうしたんだい、そんなに殺気立って。彼女は魔法を使えるんだ、そう簡単に野垂れ死にはしないさ」
「そういう問題ではありませんわ! 今すぐ、一秒でも早く彼女を見つけ出して保護しなければ、取り返しのつかないことになります!」
アリシアは立ち上がった。その聖母のような微笑みは消え、代わりに鬼気迫る形相がカレルとエラーラを射抜く。
「カレル警部、直ちに全捜査員を動員して彼女を捕まえてください! 彼女を『保護』するのです!」
「だ、だから無理だと言っているだろう。この雨だ、魔力痕跡も薄れているし、広域捜査には手続きが……」
エラーラの言葉に、アリシアは絶望したように首を振った。彼女の目には、頼りになるはずの「知性」と「常識」が、今だけは人の命を軽んじる冷徹な壁に見えた。
「……わかりました。あなた方に頼ったわたくしが愚かでしたわ。論理? 手順? ……そんなもので、あの子の未来が守れるものですか」
アリシアは、カレルとエラーラに背を向けた。そして、部屋の隅でニヤニヤと笑っている、この家で最も危険で、最も純粋な「狂気」に向き直った。
「グリッチ」
「なぁに? アリシアお姉ちゃん。……誰か殺す? それとも壊す?」
グリッチ・オーディナルが、待ちきれないといった様子で跳ね起きた。
「いいえ。……連れてきてほしいのです。今すぐ、被疑者の少女を。……王都の時計塔が零時を告げる前に、必ずこの事務所へ。エラーラお姉ちゃんにも、おじさんにも、あの子は見つけられない。……でも、あなたなら見つけられますわね? あなたのその最強の力、わたくしのために使ってくださいますわね?」
グリッチは、アリシアの瞳を見た。そこにあるのは、いつもの穏やかな慈愛ではない。焦燥と、恐怖。グリッチには、アリシアがなぜそこまで焦るのか、その論理的な理由は理解できなかった。だが、アリシアが「本気」であること、そして今動かなければアリシアが泣くことだけは、直感で理解した。
「アリシアお姉ちゃんの……お願い! ……あはは、了解だよぉ! お姉ちゃんが悲しむ未来なんて、私が一瞬で一点突破して、粉砕してあげるねぇ!」
グリッチの瞳が狂気的な歓喜に染まった。彼女にとって、アリシアの信頼こそが最大の魔力触媒だ。グリッチの全身から不可視の魔力センサーが展開され、王都全域の魔力波形を瞬時にスキャンし始める。
「ターゲット、特定……。スラムの境界線……。雨に濡れて、震えてるねぇ。……今すぐ、デバッグしにいくよぉ!」
ドォォォン!!
事務所の窓が衝撃波でガタガタと鳴り、グリッチの姿は光の粒子となって夜空へと射出された。その後ろ姿を見送りながら、ソファで惰眠を貪っていたナラティブ・ヴェリタスが、ようやく気だるげに身を起こした。
「……全く、グリッチにあんな命令を出すなんて、アリシア姉さんも大概だわ。あたしたちの家の矛は、加減を知らないのよ?」
ナラティブはあくびを噛み殺しながら、デスクに置かれた捜査ファイルを手に取った。
「で? 何がそんなに急ぎなんですの? たかが子供の家出でしょう?」
エラーラは、グリッチが去った後の割れた窓ガラスを見つめ、不機嫌そうに珈琲を啜った。
王都の北端、生活排水と雨水が流れ込む巨大な地下水道。
被疑者の少女は、汚れたコンクリートの片隅で膝を抱えていた。彼女の手には、被害者の少女のものと思われる血のような色の革財布が握りしめられている。
彼女はガタガタと震えていた。寒さのせいだけではない。数時間前、親友と言い争いになり、感情の高ぶりと共に魔力が暴走し、被害者の少女を氷漬けにしてしまった光景が、フラッシュバックして消えないのだ。
(ごめんなさい、ごめんなさい……! 死なないで……! 私は……私は大変なことをしてしまったの? 警察が来る。捕まる。……嫌だ、怖い……!)
パニックの中で親友の財布を握りしめたまま逃げ出してしまった自分。その行動が、さらに自分を犯罪者という物語に閉じ込めていることを、彼女は痛いほど理解していた。
(もう、終わりにしよう。私がいても、みんな不幸になるだけだ……)
被疑者の少女が、自らの残った魔力を練り上げ、自分自身を凍らせようとした、その時。
バッシャァァァン!!
地下水道の汚水が爆発したかのように跳ね上がり、凄まじい水しぶきの中から、白い影が飛び出した。
「見ぃつけた!」
白髪を乱し、赤目を怪しく輝かせたグリッチ・オーディナルが、水面を滑るように着地した。
「なっ……誰!? 来るな! 私は、私は大変なことをしたんだ! 近づいたら、あなたも氷漬けにしちゃう!」
被疑者の少女が絶叫し、防衛本能だけで最大出力の冷却魔法を放った。
冷却魔法の球がグリッチを包み込み、その衝撃で彼女の服は激しく焦げ、煙が上がった。
だが、グリッチは避けなかった。
彼女は、真正面からその魔法に突っ込んだ。
ドスッ!
グリッチは、焦げた袖から覗く手で、呆然とする被疑者の少女を優しく抱きしめた。
その体温は、驚くほど高く、そして人間臭かった。
「もう寂しくないよ。……私が捕まえたから、君はもう、一人で震えなくていいんだよ」
最強の狂気を持つ少女は、その実、誰よりも「痛み」を知っていた。彼女の狂気は、大切な人を守るための鎧であり、その内側には、傷ついた誰かに寄り添える純粋な魂があった。
「あ……あぁ……」
被疑者の少女の瞳から、涙が溢れ出した。
自分を怪物としてではなく、ただの寂しい子供として抱きしめてくれた。その事実が、彼女の凍りついた心を溶かしていく。
「確保ぉ! ……さあ、帰ろうねぇ。お姉ちゃんたちが待ってるよ!」
グリッチは被疑者の少女を背負うと、再び壁を蹴って加速した。
一方、ヴェリタス探偵事務所。
ナラティブがファイルを読み進め、ある一点で指を止めた瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。
「……嘘。……ちょっと、お母様! おじ様! これ、見て!」
ナラティブが悲鳴のような声を上げた。
「……何だい、ナラ君。騒々しいねぇ」
「日付よ! この子の誕生日! ……生年月日を見て!……まだ,気付かないの!?」
エラーラとカレルが、怪訝な顔でファイルを覗き込む。
そこには、被疑者の少女の生年月日が記されていた。
新暦九十三年、十一月三日。
カレルが、自分の腕時計を見た。
現在時刻、二十三時五十分。
今日の日付は、十一月二日。
「……あ」
カレルの喉から、間抜けな音が漏れた。
十一月三日。それは明日。いや、あと十分後に訪れる日付。
そして、この国の法律では、十五歳になった瞬間に少年法の保護は消滅し、成人と同様の極めて過酷な社会的責任が問われることになる。
もし、彼女が零時を過ぎてから逮捕されれば。
適用されるのは、この国で最も重い法的制裁のみ。
「……まさか、アリシアは……」
エラーラが、青ざめた顔でアリシアを見た。
アリシアは、窓の外の雨を見つめたまま、静かに、しかし断固とした口調で言った。
「……そうですわ。あと十分。あと十分で、あの子は法的に『大人』として裁かれ、取り返しのつかない社会的抹殺の対象となります。……背景に何があったとしても、法は情状酌量を認めないでしょう」
アリシアは振り返り、二人の大人を軽蔑の眼差しで見据えた。
「あなた方が『泳がせろ』と言った時間は、あの子の『命の時間』だったのです。……わたくしは、法があの子を断頭台へ送る前に、彼女を子供として保護したかった。……それだけですわ」
エラーラは、持っていたドーナツを落とした。
カレルは、吸いかけの煙草を握りつぶした。
二人は、自らの愚かさに愕然とした。論理? 手順? そんなものを優先した結果、一人の少女を、あと少しで取り返しのつかない運命へと追い込むところだったのだ。
「……私は……なんてことを……」
「……警察官失格だ……」
二人の大人が、己の無力さと非情さに打ちひしがれる中、時計の針は無慈悲に進んでいく。
二十三時五十七分。
「……間に合わない……」
ナラティブが呻いた。
その時。
ドォォォォォン!!
再び窓ガラスが粉砕され、服を焦がした死神が帰還した。
「ただいまぁ! ……連れてきたよぉ、アリシアお姉ちゃん!」
グリッチが、背中の被疑者の少女を床に降ろした。被疑者の少女は気を失っているが、外傷はない。
だが、グリッチの服はボロボロで、所々から煙が上がっていた。
「グリッチ!? キミ、大丈夫なのか!?」
エラーラが駆け寄る。
「ううん、全然大丈夫だよぉ。……あはは!」
グリッチは笑って嘘をついた。被疑者の少女が罪悪感を持たないように。
その人間性の高さに、エラーラは言葉を失った。
カレルが震える手で、被疑者の少女の手首に手錠をかけようとした。
カレルが腕時計を見る。
零時、三分。
壁の時計を見る。
零時、三分。
「……ああ……」
カレルが膝をついた。
間に合わなかった。
逮捕時刻は、十一月三日、零時三分。
彼女は、十五歳。
法的保護の、喪失。
事務所に、絶望的な沈黙が落ちた。
アリシアが、唇を噛み締めて俯く。
エラーラが、天を仰ぐ。
だが。
カレルは、ゆっくりと立ち上がった。
「……おい、エラーラ君」
カレルの声は震えていたが、そこには確固たる意志があった。
「俺の時計は壊れていたようだ。……今、何時だ?」
エラーラは、カレルを見た。
そして、ニヤリと笑った。彼女は懐中時計を取り出し、その針を魔力でねじ曲げた。
「フム。……私の『正確』な原子時計によれば、現在は二十三時五十九分五十秒だねぇ。……カレル警部、君の時計は少し進んでいたようだ」
「……そうか。なら、間に合ったな」
カレルは、被疑者の少女の手首に手錠をかけた。
「二十三時五十九分。被疑者確保」
それは、警察官としての誇りを捨て、一人の人間としての正義を選んだ瞬間だった。
アリシアの瞳から、涙が溢れた。
彼女は、二人の大人の、不器用で温かい「人間性」に泣いた。
だが、問題はまだ残っている。被害者の少女は動かないままだ。罪の事実は消えない。
その時、事務所の扉が乱暴に開かれた。
「ぜぇ……はぁ……! 待たせましたわね……!」
そこに立っていたのは、泥だらけで、ドレスをビリビリに破いたナラティブ・ヴェリタスだった。
そして、彼女の背中には、氷漬けになっていたはずの被害者の少女が背負われていた。
「ナ、ナラ君!? なぜ被害者の少女がここに!?」
「うるさいですわね! ……現場に行って、溶かしてきましたのよ!」
ナラティブは被害者の少女をソファに放り投げた。被害者の少女は青ざめているが、確かに息をしている。
「魔法も使えない君が、どうやって解凍を!?」
「根性ですわッ!!」
ナラティブは叫んだ。
実際には、彼女は現場で氷像となった被疑者の少女の友人を抱きしめ、自らの体温と、持ち込んだ大量のカイロ、そして物理的な摩擦熱だけで、魔法的凍結を強制解除したのだ。魔力を持たない彼女の、物理と気合による奇跡。
被害者の少女が咳き込み、目を覚ました。
「……う、うぅ……。あの子……? 私の財布、持ってっちゃって……あの中に、貸してたお金の借用書が入ってたのに……」
「……はい?」
全員が固まった。
被害者の少女は、朦朧としながら続けた。
「魔法の使い方の議論で……喧嘩して……私が先に手を出して……そしたらあの子の魔法が暴発して……。財布は、私が『これ預かってて』って渡したやつで……」
強盗でも、殺人でもなかった。
ただの、子供の喧嘩と、不幸な事故。
数日後。
被疑者の少女は無罪放免となった。
財布の件は「貸借の誤認」、傷害については「双方の過失」として処理された。
雨上がりの王都。
探偵事務所の窓辺で、アリシアは紅茶を淹れていた。
グリッチは新しい服を買ってもらってご機嫌だ。
ナラティブは新しいドレスのカタログを見ながら、筋肉痛を訴えている。
カレルとゴウは、始末書の山と格闘している。
誰もが、人間性を持っていた。
そして、その人間性を信じ、引き出したのは、魔力を持たない最強の聖女、アリシア・ヴェリタスだった。
「……今回は、私の負けだねぇ」
エラーラが、コーヒーカップを掲げた。
アリシアは、聖母のような微笑みで、それに答えた。
「いいえ、おかあさま。……全員の勝利ですわ」




