定理6:幻のグルメを食べたい!(後編)
カウンター席で四人が死んだ魚のような目でメニューを見つめていると、マスターのハママツが、カクテルをシェイクしながら低い声で言った。
「……お探しのお店なら、この壁のすぐ真裏、お隣の物件ですよ。一度路地へ出て、最初の角を右に曲がったすぐの場所です。煤けた暖簾が掛かっているはずですよ」
ナラティブは、手に持っていたビールの瓶を、危うくカウンターに落としそうになった。アスナは、外していた眼鏡を指が折れそうなほどの勢いで装着し、壁を見つめた。竜の尻尾が、驚きのあまりピンと水平に伸びる。
「……マスター。そんな、冗談はやめてください。私は魔導規制局のデータベースを隅々まで照合したんです。あそこの物件は、長年放置された空き家か、せいぜい不法占拠された倉庫のはずです。そんな場所に、王都中が熱狂する美味の真理があるなど、論理的にあり得ません!」
アスナが鼻息を荒くして身を乗り出す。その眼鏡の奥の青い瞳は、公務員としての自尊心を守るために必死に否定の根拠を探していた。ナラティブも、その隣で不機嫌そうに喉を鳴らす。
「そうよ。あたしたち、さっきそこを通ったわよ。あそこにあったのは、今にも崩れそうなボロ屋と、不潔極まりない煤けた布きれだけ。あんな場所で食事をするなんて、一流のレディの美学に対する冒涜だわ」
しかし、二人の猛烈な抗議とは対照的に、リウ・ヴァンクロフトがその極太の尻尾をゆらりと揺らした。彼女の赤い瞳が、怪しく輝きを帯びる。
「……いえ、ナラ様。私の狼としての本能が、あの壁の向こうから放たれる圧倒的な『圧力』を感じ取っております。あれは、計算や法律では決して測れない、剥き出しの生命の咆哮。あそこには、間違いなくこの王都のどの場所よりも濃密な『実体』が存在しますわ。私の鼻が、既に真理の尻尾を掴んでおりますの」
「……あの、私もわかります。あそこ、隠しエリアの入り口みたいな、特有の魔圧が漏れてます……。テクスチャはゴミですけど、中身はSSR確定演出が出てます……。私のゲーマーとしての勘が、セーブポイントだって囁いてます……」
ルルまでもが、ポテトサラダを口に含んだまま、確信に満ちた声で呟いた。獣人たちの持つ理屈を超えた嗅覚と直感。それは、情報の海で溺れていたナラティブや、理論の鎖に縛られていたアスナが見落としていた、あまりにも原始的で強力な「正解」を指し示していた。
「……ええい、わかったわよ! リウやルルがそこまで言うなら、確かめてやろうじゃないの! 行くわよアスナ! 規制局の看板が泥にまみれるか、それともあたしの胃袋が宇宙を掴むか、決着をつけようじゃないの!」
「……望むところです! 秩序を乱す非論理的な幻想を、この目で粉砕して差し上げます! これはあくまで、実態調査ですからね!」
四人は、会計を済ませるのももどかしく、バーを飛び出した。冷たい夜の空気が火照った顔を撫でる。ハママツに教えられた通り、最初の角を右に曲がると、そこにはやはり、先ほど無視して通り過ぎた煤けた暖簾があった。
ナラティブが意を決して、隙間の空いた引き戸をガラリと開ける。
瞬間、四人の視界を、白く濃厚な紫煙が埋め尽くした。
「……ッ、ゴホッ! 何ですのこれ、火災報知器を鳴らしますよ!? 換気効率がマイナスを振り切っています!」
アスナが悲鳴を上げながら、真っ白な眼鏡を必死に拭う。その煙の向こう側から、パチリ、とタバコの灰が落ちる乾いた音が響いた。
そこは、まるで爆撃を受けたかのような廃墟だった。壁紙は剥がれ落ち、むき出しになった柱は黒ずみ、魔導ラジオからは砂嵐混じりのジャズが、死にかけの心臓のようなリズムで流れている。そしてカウンターの奥には、およそ「神」とは程遠い、くたびれた男が立っていた。咥えタバコの灰は今にも落ちそうで、その煙がまな板の上の魚を燻している。
「……食うのか」
男の低い、掠れた声が店内に響く。ナラティブは眉をひそめ、鉄扇で鼻を覆った。
「いただくわよ。でも、あんた、料理人として最悪ね。客を迎える準備もなければ、タバコを吸いながら握るなんて言語道断だわ。商売を舐めているとしか思えないわよ」
「……うるせえな。俺は商売なんかしてねえよ」
男はタバコの煙を天井に吐き出した。
「俺は、ただ握ってるだけだ。……極めるためにな」
その瞬間、リウ・ヴァンクロフトが息を呑んだ。
「……ナラ様、わかりますか? 彼は『売る』ことなど最初から放棄しておりますわ。彼はただ、『作る』こと、いえ、『極める』ことだけに魂を捧げているのです。この荒廃した空間、無視された衛生観念、それら全ては、彼が寿司以外の全てを捨て去った証拠……。ここは寿司屋ではありませんわ。これは、孤独な芸術家のアトリエであり、退廃芸術の個展なのです!」
「芸術……? ただの汚い店にしか見えないけれど」
ナラティブは不信感を露わにしながらも、出された最初の一貫を凝視した。歪で、生々しく、タバコの香りが微かに纏わりついている。それは、高級店のショーケースに並ぶ宝石のような寿司とは対極にある、野生の塊だった。
ナラティブは、覚悟を決めてその一貫を口に運んだ。
瞬間。
彼女の脳内で、王都の全ての情報のノイズが、一瞬で消え去った。
「……っ!? ……何、これ。美味いとか、そういう言葉じゃ足りないわ。あたしの、あたしの全感覚が、この一貫に記述し直されていく……!」
それは、タバコの苦味と酢飯の酸味、そして魚の旨味が、互いの領域を侵食し合いながら、口の中で完璧な「不完全さ」を奏でる味だった。この劣悪な環境というマイナス要素が、舌の上で奇跡的な化学反応を起こし、寿司の味を極限まで際立たせている。
「素晴らしい……! 視覚、味覚、聴覚、嗅覚、触覚……! すべてで味わえる芸術が、ここにありますわ! たとえ視覚や嗅覚を失おうとも、あるいは四肢をもがれようとも、この一貫さえあれば魂は震えますわ! これぞ究極の芸術……料理とは、命の彫刻なのです!」
リウが感涙にむせびながら、ポニーテールを激しく揺らした。
「……あ、これ……わかります……。大将さん……ステータス振りが異常です……。衛生とか接客とか……全部捨てて、『味』だけに極振りしてる……。……こんなの、PvPで当たったら絶対勝てない……。最強のビルドです……」
ルルも、隅の席で幸せそうに身体を丸め、その目に尊敬の念を浮かべていた。
ナラティブは、リウの芸術論もルルのゲーム理論もよくわからなかった。だが、舌に残る感動だけは真実だった。
「……悔しいけど、認めざるを得ないわね。一流の味は、一流の場所にあるとは限らない。……あんたのその独りよがりな狂気、あたしの胃袋が承認したわ」
ナラティブは、震える手で次の一貫を求めた。
そして、その横では、アスナ・クライフォルトが、すでに思考を放棄していた。
「おかわり! 次! 大トロ! サーモン! 全部持ってきてください! 早く! 私の胃袋がブラックホールになっていますのよ!」
アスナの背中の竜の尻尾が、バタンバタンと床を叩き、古い店の床板をへし折ろうとしていた。公務員の矜持も、衛生観念への文句も、圧倒的なカロリーの前には無力だった。彼女はただ、口に放り込まれる芸術を、燃料として燃やし尽くす焼却炉と化していた。
店内に漂う紫煙。剥がれた壁紙。愛想のない店主。
それら全てが、この奇跡的な美味を構成する不可欠な要素だった。
四人は、王都の誰も知らなかった「実体」を、その身をもって証明したのだった。
「……ふぅ。食ったわね」
店を出ると、外は静かな王都の夜だった。相変わらず、遠くの街角では存在しない伝説を求めて彷徨う人々の虚しい声が聞こえてくる。だが、ナラティブたちはもう、その声に耳を貸すことはなかった。
「……帰りましょう。お母様に、報告しなきゃね。……『真理は、案外、薄汚れた路地裏の、一番身近な壁の向こう側にあったわよ』って。……あ、でもアスナのこの姿は、ちょっと報告できないわね」
アスナは、幸せそうに「おかわり……タバコ味のウニ……」と寝言を言いながら、ナラティブの肩に寄りかかっていた。




