定理5:ハードボイルドになりたい!(後編)
バー『奥泉』のカウンター。
一枚板の重厚なマホガニーに肘をつき、カレル・オータムは琥珀色の液体を見つめていた。
「……なぜ私が、こんなにも胃を痛めながら、あいつらの動向を気にかけなきゃならんのだ」
彼は自問し、そして答えを知っている。
全ては、愛する息子・ゴウのためだ。
あの子は今、エラーラ・ヴェリタスという「歩く爆弾魔」のような魔女の元で、助手を務めている。
毎日が命がけだ。実験の爆発、グリッチの暴走、ナラティブの物理的破壊。
親として、止めなかったわけではない。
だが、ゴウは言ったのだ。
『父さん。僕、初めて「世界の仕組み」が見えた気がするんだ』
その時の息子の目は、かつてカレル自身が、正義に燃えて警察官になった時の目と同じだった。
「……止められんよな。男が『道』を見つけちまったんだ」
カレルは苦笑し、グラスを煽った。
危険な場所だ。だが、同時に思う。
あのハチャメチャな連中は、世界を救う力を持っている。
あそこにいれば、ゴウは少なくとも「退屈」で死ぬことはないだろう。
「……ふぅ。腹が減ったな」
その時だった。
隣の席――二つ空けた場所に座ったナラティブが、低い声でオーダーを通した。
「……マスター。フードを。……『牛ほほ肉の赤ワイン煮込み』。バゲットを添えて」
ナラティブは、足を組み直し、ハードボイルドな探偵の顔を作っている。
だが、そのオーダーは、先ほどのウサギ狩りでカロリーを消費した彼女の本能が選ばせた、ガッツリ系メニューだ。
「かしこまりました」
ハママツが厨房へ消え、やがて芳醇な香りが漂ってきた。
濃厚なデミグラスソースの香り。赤ワインの酸味と、バターの甘い匂い。
コトッ、と皿が置かれる。
漆黒のソースの中に、繊維が解けるほど煮込まれた牛ほほ肉が鎮座している。横には、こんがり焼かれたバゲット。
「……いただくわ」
ナラティブはフォークを入れた。
ナイフはいらない。肉は、フォークの重みだけでホロリと崩れた。
彼女はそれを口に運ぶ。
「……ッ!」
ナラティブの眉間がピクリと動いた。
(美味い……! なにこれ、犯罪的よ……! 口に入れた瞬間、肉が溶けて……濃厚なソースの旨味が、暴力的に広がる……!)
彼女は必死にポーカーフェイスを維持しようとしたが、瞳孔が開いているのは隠せない。
彼女はバゲットをソースに浸し、口へ放り込む。
カリッ、ジュワッ。
(ああ、このソースだけでワインが樽ごと空くわ……!)
隣で見ていたカレルは、ゴクリと喉を鳴らした。
美味そうだ。あまりにも美味そうだ。
ナラティブの、あの幸せを噛み殺したような表情。それが何よりのスパイスだ。
「……マスター。私にも、同じものを」
カレルは陥落した。
ハードボイルドな夜には、美味い肉が必要だ。
二人が無言で牛肉と格闘し、至福のため息を漏らしていた、その時。
カラン、コロン。
再び扉が開いた。
「……いらっしゃいませ」
入ってきたのは、黒髪をセミロングにし、スリットの入ったタイトな私服を着こなした女性。
アスナ・クライフォルトだ。
今日の彼女は、いつもの制服ではない。しかし、その知的な細縁眼鏡は健在だ。
むしろ、照明を落としたバーの雰囲気の中で、眼鏡のレンズが鋭く光り、普段の「堅物官僚」とは違う、「都会の夜を泳ぐデキる女」のオーラを放っている。
メイクは薄い。だが、素肌の白さと、仕事終わりの少し緩んだ表情が、妙に艶っぽい。
(……ほう。あれが、あの堅物のアスナか?)
カレルは肉を噛みながら、少し見直した。
普段はギャーギャー喚いている小娘だが、こうして黙って座っていると、確かに規制局のエリートらしい知性と品格を感じさせる。
「仕事帰りのバーで、一人静かにグラスを傾ける知的な美女」。
その絵になる佇まいに、カレルもナラティブも、少しだけ居住まいを正した。
アスナは、カレルの左側――ナラティブとは反対側の端の席に、優雅に座った。
そして、長い指で眼鏡の位置をクイーッと直し、マスターに向かってオーダーを通した。
冷徹な声で、ドライなマティーニでも頼むのかと思いきや。
「……『ストロベリー・フローズン・ダイキリ』を。……生クリーム多めで」
「「……ん?」」
カレルとナラティブの動きが止まった。
今、なんて?
イチゴ? 生クリーム?
「……あと、おつまみは『4種のチーズとドライフルーツの盛り合わせ』で。蜂蜜もつけてください」
アスナは、にへら、と頬を緩ませた。
さっきまでの「デキる女」の仮面が、糖分への渇望で一瞬にして剥がれ落ちた。
彼女は、甘いお酒と可愛いおつまみが大好きな、ただの女の子だったのだ。
「……ふっ」
カレルは吹き出しそうになるのを堪え、ワインを煽った。
(……なんだ。やっぱりいつもの嬢ちゃんだ)
逆に安心した。このギャップこそが、彼女なのだろう。
「お待たせしました」
出されたのは、鮮やかなピンク色のカクテル。グラスの縁にはイチゴが飾られ、上には生クリームがたっぷり乗っている。
アスナは、それをストローでちゅーっと吸い込んだ。
「……んんっ!冷たくて甘ぁい……」
アスナの尻尾が、パタン、パタンと嬉しそうに床を叩く。
眼鏡の奥の瞳が、とろんと蕩けている。
彼女はブルーチーズに蜂蜜をたっぷりとかけ、クラッカーに乗せて齧る。
(ああ、幸せ……! 昼間のエラーラさんのストーキングという激務の疲れが、この甘さで浄化されていくわ……!)
これで、役者は揃った。
中央で肉を貪るカレル。
右で肉を貪るナラティブ。
左で甘味に蕩けるアスナ。
平和な夜だ。
誰もがそう思った。
だが、平和は唐突に破られる。
ナラティブの視線が、一点に釘付けになっていたのだ。
彼女が見ているのは、もはや皿の上の肉ではない。
アスナの背後で、ご機嫌に左右に揺れている、太く、硬く、艶やかな「竜の尻尾」だ。
(……あの動き。あのリズム。……メトロノームのように正確で、かつ生物的な揺らぎ……)
ナラティブの手が、無意識に空を掴むように動く。
彼女の思考回路から「ハードボイルド」というOSがアンインストールされ、「ケモナー」という原始的なプログラムが起動する。
(……触りたい。あの鱗の隙間に指を滑り込ませて、冷やりとした感触を確かめたい。……エラーラお母様にはない、あの圧倒的な「爬虫類感」……!)
ナラティブの視線は熱い。もはや隠そうともしていない。
一方、アスナもまた、ナラティブの熱視線に気づいていた。
(……な、なによ。さっきからジロジロ見て。……私の「デキる女」のオーラに圧倒されているのかしら? ふふん、エラーラさんの娘とはいえ、まだまだ子供ね)
アスナは勘違いし、さらに格好をつけてグラスを傾けた。
そして、そろそろお暇しようと、「デキる女」らしくスマートに立ち上がろうとした。
「……ご馳走様。お会計を」
アスナがスツールから腰を浮かす。
その瞬間。
彼女の緊張と、酔いと、尻尾の制御ミスが重なった。
太い尻尾が、スツールの脚にガゴンッ! と激突したのだ。
「あ……!?」
アスナの体がバランスを崩す。
彼女は眼鏡をずり落とし、無様に後ろへ倒れそうになった。
「チャンス……!」
ナラティブが動いた。
探偵としての反射神経ではない。獲物を狙うハンターの反射神経だ。
彼女は残像を残すほどの速度で移動し、倒れるアスナの体を支える――フリをして。
ガシッ!!
両手で、アスナの尻尾の付け根を、ガッチリとホールドした。
「……確保」
「ひいぃぃっ!? な、なにをするんですかぁぁ!?」
アスナが悲鳴を上げる。
だが、ナラティブは離さない。至近距離で見る尻尾の輝きに、彼女の瞳は怪しく光っていた。
「……いい。すごくいいわ。この重量感。……ねえ、ちょっとだけ噛んでみてもいい?」
「ダメに決まってるでしょ!? 変態! 離して! 変なとこ触らないで!」
アスナが暴れる。
だが、ナラティブの指先が、尻尾の裏側――竜人にとって最も敏感な「逆鱗」に近い部分を、愛おしげに撫で上げた瞬間。
「……あっ、そこ、は……っ! くすぐった……!」
アスナの顔が真っ赤になり、背筋がゾクゾクと震えた。
竜人の生理現象。
極度の興奮、あるいはくすぐったさを感じた時、体内の火炎袋が強制的に活性化する。
「ま、待って、出ちゃう……! 火が……!」
「え? 火?」
ナラティブがキョトンとした、次の瞬間。
「ぶぇっくしょんッ!!」
アスナが、盛大にくしゃみをした。
その口から、可愛らしいくしゃみ音とは裏腹に、超高温の火炎ブレスが一直線に噴射された。
不運なことに、その火炎の先には、マスターがカクテル作りのために置いていた、度数96%のスピリタスの瓶があった。
ボッ!
カッッッ!!!!
引火。
そして、狭い密閉空間でのアルコール蒸気爆発。
ドッカァァァァァン!!!!!
バー『奥泉』の地下空間が、爆音と閃光に包まれた。
「うわあああああああ!?」
カレルが叫ぶ。
衝撃波がナラティブを襲う。
「嘘でしょぉぉぉぉ!?」
ナラティブは、漫画のように綺麗な放物線を描き、カウンターの向こう側、壁に飾られたダーツボードに、鉄扇ごと突き刺さるように吹き飛ばされた。
ズドン!
「……い、いい衝撃だわ……」
ナラティブは壁にめり込み、白目を剥いて煙を吐きながらも、親指を立てた。
ドレスはボロボロだが、彼女自身の肉体は「武」の極致により、かすり傷一つない。
そして、爆心地。
もうもうと立ち込める黒煙の中、一人の影が立っていた。
アスナ・クライフォルトだ。
彼女は爆発の中心にいたにも関わらず、ピンピンしていた。
竜人の鱗は火炎耐性100%、衝撃耐性もSランク。
彼女の服だけがコントのようにボロボロに破け、髪の毛がアフロのように爆発しているが、肌には傷一つなく、ただ眼鏡だけが少しズレていた。
彼女はズレた眼鏡を指でクイーッと直し、呆然と瞬きをした。
「……けほっ。……あ、あれ? 私、生きてる?」
彼女は自分の体をペタペタと触り、無傷であることを確認すると、顔を真っ赤にして叫んだ。
「もー! 何するんですかぁ! びっくりしてブレス出ちゃったじゃないですか!」
「……頑丈すぎだろ、お前ら」
カレルは、煤だらけの顔で呟いた。
そして、恐る恐るカウンターを見た。
「……マスター、店は……」
そこには、無傷のカウンターと、涼しい顔でグラスを磨くマスター・ハママツの姿があった。
彼は爆発の瞬間、熟練の技で「対衝撃防御結界」を展開し、店と酒瓶だけは完璧に守り抜いたのだ。
「……お客様。店内での火気の使用はご遠慮ください」
「す、すみませんんん!」
アスナがアフロヘアーのまま土下座する。
カレルは、深いため息をついた。
爆発しても死なない女たち。
店を守り抜くマスター。
そして、壁にめり込んだまま「……尻尾、吸いたかった……」と呟くナラティブ。
「……なんて連中だ」
カレルは、黒焦げになった自分のビーフシチューを見て、諦めたように笑った。
このコメディのような連中が、世界最強の抑止力なのだ。
呆れると同時に、不思議と頼もしさを感じるのは、きっとこの美味すぎる酒のせいだろう。
「……マスター。お勘定だ」
カレルはずぶ濡れのスプリンクラーの下で、コートを羽織った。
「それと、彼女たちのミルク代と、修理代。……全部、私のツケにしておいてくれ」
「よろしいので?」
「ああ。……息子が世話になってるからな」
カレルは格好つけて店を出た。
背後では、まだナラティブとアスナのギャーギャーという騒ぎ声が響いている。
王都の夜は更けていく。
論理と狂気、そして頑丈すぎる肉体と食欲が入り混じり、最高に騒がしくて愛おしいカクテルとなって、夜の闇に溶けていった。




