定理1:最強探偵事務所へようこそ!(前編)
●リメイク元
「ナラティブ・ヴェリタス」探偵と作家
「エラーラ・ヴェリタス」物語の文脈へ
「愛の総量は、胃袋の空腹度と反比例して増大する」
王都の朝は、ホワイトボードに書き殴られたデタラメな数式から始まった。
ヴェリタス探偵事務所。
貴族街の煌びやかなレンガ造りの舗道と、スラム街の泥濘んだ路地が交差する境界線に建つこの古びたビルは、築年数不詳の違法建築である。窓の外では、新暦108年の魔導産業革命を象徴する蒸気とマナの排煙が空を灰色に染め、接触不良で点滅する魔石灯が、まだ眠い目をこするような頼りない明かりを路面に落としていた。
「……お母様。その数式は、今の私たちの惨状を物理的に解決してくれるのかしら?」
呆れを含んだ、しかし透き通るような美しい声が部屋に響く。
声の主は、ナラティブ・ヴェリタス。艶やかな黒髪を長く伸ばし、喪服のようにシックな黒のドレススーツに身を包んだ彼女は、優雅な手つきで愛用の鉄扇を磨き上げていた。その立ち居振る舞いは深窓の令嬢そのものだが、彼女が磨いている鉄扇は、昨日スラムの暴漢を三メートルほど吹き飛ばした凶器であり、今はトーストをひっくり返すための調理器具として機能している。
ホワイトボードの前で白衣を翻した私は、愛用の金色の聴診器――魔導診断ツール『真理の眼』を首にかけ直し、厳かに振り返った。
「ナラ君よ、これは真理だ。現に私の腹は減りすぎて、隣人の不幸すら蜜の味に感じるほど倫理観が低下している。即ち……ドーナツが必要だ。それも、ミスター・マジックの新作、トリプル・ハニーグレイズがね」
私は白衣のポケットを探った。しかし、そこにあるはずの茶色い紙袋の感触はなく、代わりに指先に触れたのは、冷たい金属製の部品――昨日分解した懐中時計の歯車だけだった。
「あら、残念ですわね、おかあさま」
キッチンの方角から、部屋の空気を二度ほど下げるような、冷たくも甘美な声が降ってくる。
湯気を立てるフライパンを手に現れたのは、アリシア・ヴェリタスだ。透き通るような白肌に、金色のウェーブヘア。日替わりで仕立てられる深紅のドレスは、彼女がこの貧乏事務所の住人であることを忘れさせるほど高貴に輝いている。
彼女は絶世の美少女であり、同時に、我が家の経済という名のライフラインを握る絶対的な管理者だ。
「今月の我が家のエンゲル係数は、既に限界突破しておりますの。原因は、先週おかあさまが実験で吹き飛ばした公園の噴水の賠償金と、ナラティブがゲームセンター『グリモワール』の筐体を破壊した弁償金、そしてグリッチさんが『お姉ちゃんの寝顔を高画質で保存したい』と購入した業務用の魔導サーバー代ですわ」
アリシアは慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら、テーブルにドン、と皿を置いた。
そこに乗っているのは、鮮やかな緑色をした物体。
「……ですので、本日の朝食は、王都中央公園で摘んで参りました『タンポポとオオバコのフリット~虚無の塩を添えて~』になります」
「ざ……雑草じゃないか」
「緑黄色野菜ですわ」
「アリシア姉さん、あたし、これじゃあ力が……」
「お黙りなさい、ナラティブ。貴女には特別に、昨日リウさんから頂いた謎の干し肉を添えてあげましたわよ」
「リウが!? ああ、なんて愛おしい……!」
ナラティブは頬を紅潮させ、干し肉を宝石のように見つめた。彼女の片思いの相手である狼獣人のリウ・ヴァンクロフトが、恐らくは何かの魔獣を狩って作ったであろうその物体は、私から見れば……バイオハザード一歩手前の代物だが、恋する乙女のフィルターを通せば極上のステーキに見えるらしい。
「いただきまーす!お姉ちゃんの残りカスは私のものー!」
天井のダクトから、白い影が降ってきた。
グリッチ・オーディナル。ボサボサの白髪に、狂気を孕んだ赤い瞳。小柄な体躯に似合わぬダボダボのパーカーを着た彼女は、着地と同時に私の皿の上の雑草……いや、フリットを素手で掴み取ろうとする。
「こら、グリッチ。行儀が悪いよ」
「えへへ、だってお姉ちゃんと同じものを食べて、同じ栄養素で身体を構成したいんだもん! ねぇお姉ちゃん、今日の私のセンサー、感度良好だよ? お姉ちゃんの脈拍、体温、血圧、今朝トイレに入っていた時間まで全部ログ取ってるからね!」
「うん、ありがとう。後で全部消去しておくようにね」
私はグリッチの頭を適当に撫でながら、フォークで草を刺した。
これが、新暦108年、魔導産業革命の最先端を行く王都の片隅にある、ヴェリタス探偵事務所の日常だ。
借金総額150億クレスト。原因は私の実験による器物破損が九割。
魔法という名のバグだらけのOSに支配されたこの世界で、私たちは今日も、論理と物理と狂気と愛の狭間で、ギリギリの生存競争を繰り広げている。
その時だった。
事務所のドアが、ノックもなしに乱暴に開け放たれたのは。
「確保ーッ! 確保です! 魔導法第3条、不正魔力放出の現行犯で逮捕します!」
入ってきたのは、黒髪のセミロングに、知的な細縁眼鏡をかけたスーツ姿の女性。
そのスカートからは、立派な、あまりにも立派な太い尻尾が伸びており、怒りに合わせてバタンバタンと床を叩いている。
アスナ・クライフォルト。王都魔導規制局のキャリア官僚であり、私の天敵だ。
「やあやあ、アスナ君。朝から元気だねぇ。また私のファンクラブ会報の取材かい?」
「ち、違います! 今日こそ貴様を法の下に裁くために来たのです! 先ほど、この周辺で未登録の魔力波形が観測されました。震源地はここでしょう、エラーラ・ヴェリタス!」
アスナは叫びながら、私の目の前に分厚い書類の束を突きつけた。
その拍子に、彼女の鼻がヒクヒクと動く。
「……っ、くしゅん! は、早くその不潔な猫たちをどうにかしてください!」
事務所の棚やソファの上には、無数の猫たちが鎮座している。彼らは地脈のノイズを感知する優秀なモニターなのだが、重度の猫アレルギーであるアスナにとっては、致死性の生物兵器に等しい。
彼女は涙目になりながらも、決して撤退しようとはしない。
「残念ながら、今日の私はまだ何も爆発させていないよ。アリシア君の監視が厳しくてね」
「嘘をおっしゃい! ならばその口元についている白い粉は何ですの!?」
「……ッ!」
私は反射的に口元を拭った。
しまった。隠しておいた非常食、ミスター・マジックの『シュガー・スノー』の痕跡か。
「没収です! それは証拠品として没収します!」
「待て、これは私の生命維持に必要な……」
「問答無用! ……あ、新作のドーナツ……」
アスナは私の白衣のポケットから強引にドーナツの包みを引き抜くと、一瞬だけ瞳を輝かせ、すぐに「コホン」と咳払いをして懐にしまった。
彼女もまた、ここのドーナツには目がないのだ。規制局のデスクの引き出しが、私からの押収品……という名目のおやつで埋め尽くされていることは、私の情報網には筒抜けである。
「あら、アスナさん。いらしたのなら、お紅茶でもいかが?」
アリシアが優雅にティーカップを差し出す。
「い、いえ、私は公務で……ですが、アリシアさんが淹れた紅茶なら、少しだけ頂こうかしら」
「まあ、嬉しい。茶葉は出がらしですけれど」
アスナはチョロい。そして、この事務所の空気に毒されすぎている。
ナラティブが、アスナの揺れる尻尾を熱っぽい視線で見つめていることに、彼女は気づいていないのだろうか。
「……いい太さね。弾力も申し分ないわ」
「ひ!?な、何ですかナラティブさん、その目は! これは公務員の尻尾ですよ、触ったら公務執行妨害で……」
「触らないわよ。ただ、吸いたいだけ」
「もっとダメです!!」
ギャーギャーと騒がしい朝だ。
私はため息をつき、コーヒーを啜った。泥のような味がする。
ふと、窓の外を見る。
いつものオンボロ映画館『光座』の看板が見える。今日は名作『昨日へと遡る銀色の魔導車』の上映日だ。この騒ぎが収まったら、アスナでも誘って観に行こうか。彼女もあの映画の主人公の、融通の利かない生き方が好きなはずだ。
だが、私のささやかな逃避願望は、物理的な衝撃によって打ち砕かれた。
ズシン、と。
地脈が震え、事務所の床が跳ね上がった。
「きゃっ!」
アリシアが悲鳴を上げ、ティーカップを取り落とす――直前、グリッチが超反応でそれを受け止めた。
「セーフ!アリシアお姉ちゃんの悲しむ顔は見たくないからね!」
「な、何事です!?」
アスナが尻尾を逆立てて窓に駆け寄る。
私もまた、『真理の眼』を耳に当て、窓の外へと視線を向けた。
そこには、王都の日常茶飯事にして、私の借金の主因となる光景が広がっていた。
街路樹をなぎ倒し、蒸気を噴き上げながら進む巨大な影。
それは、王都の清掃局が運用している自律型魔導ゴーレム『クリーン・キーパー』だった。しかし、その姿は異様だ。本来ならゴミを回収するためのアームが肥大化し、周囲のポストやベンチ、逃げ惑う魔導車までもを「ゴミ」として認識し、体内に取り込んでいる。
「……フム?どうやら、断捨離の定義ファイルが破損したようだねぇ」
私は聴診器を窓ガラスに押し当て、ゴーレムの駆動音を聞いた。
不協和音。論理の矛盾。
あれは単なる暴走ではない。周囲の空間情報すらも「不要なデータ」として削除しようとしている、一種の空間浸食バグだ。
「アスナ君、アレの管轄は?」
「せ、清掃局ですが……あの規模だと、規制局の特務案件になります! くそっ、どうして私が非番の日に限って!」
「運命だね。諦めたまえ」
私は白衣を翻し、真理を告げる。
「総員、出動だ。あれを放置すれば、私の愛する映画館まで『粗大ゴミ』として処理されてしまう。それは私の余暇に対する重大な侵害であり、即ち世界の損失だ」
「了解ですわ、おかあさま。……本日の夕食代、あれの部品を売却して稼がせて頂きます」
アリシアが冷徹に計算機を弾く。
「行くわよ、お母様。あたしの鉄扇で、あのガラクタをスクラップにしてあげる」
ナラティブがドレスの裾を翻し、鉄扇を展開する。
「ヒャッハー! お姉ちゃんの命令なら、世界ごとフォーマットしちゃうよー!」
グリッチがどこからともなく物騒な工具を取り出し、窓枠に足をかけた。
「待ちなさい!勝手な戦闘行為は許可しませんよ!私の指揮下に入りなさい!」
アスナが叫びながら、その後を追う。
私は最後に、一口だけ残っていた冷めたコーヒーを飲み干した。
さあ……仕事の時間だ。
論理と狂気で、あのバグだらけの世界を修正してやろうじゃないか!




