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第6話 まずは家を建てて、畑を作ろう! あと来年の田んぼの準備も!

 〈クラット原〉の朝は、草の匂いと湿った土の香りで始まる。初穂の井戸の滑車が鳴り、麦の小楼の影が短くなるにつれ、移住者の荷車が一台、また一台と丘の背を越えてきた。子どもが干し魚の包みを抱え、母親が鍋と皿を包んだ布を押さえ、独り者は鍬と槌を肩に引っ掛ける。


「本日から、区画の割り振りを始めます。仮の家、仮の畑、そして来年の田んぼの下ごしらえ。順にやります」


 紙の札を掲げて声を張ると、皆の目がこちらに集まる。紙の線は引いた。今日からは、泥の線だ。


 まずは家。雨と風をしのぐものがなければ、人は土に居着けない。風見の広場から三筋、西へ並行に街道へ伸びる路地を引き、家々の棟が互いに風を渡せるよう、通りに余裕を取る。石を四つ、角に据えて土台を浮かし、柱を立て、梁を渡す。壁は小舞を編み、切り藁を混ぜた土で塗る。屋根は葦。


「棟木は半寸、上げすぎないで。風、ここから抜ける」


 背中から、澄んだ声がした。振り向くと、陽に褪せた青の頭巾をきゅっと結んだ娘が、こちらの墨縄を指で押さえていた。栗色の髪をひとまとめにして、目は驚くほど涼しい。


「きみは?」


「ノエ。ヤナギの小さな村から来た。葦屋根なら手が速いし、水の具合も見られるよ。お祖父が棟梁で、田んぼはお祖母のしごとだった」


 言い終えるより早く、ノエは荷車から葦束をほどき、棟の端に軽やかに上がった。屋根縄の通りを目で測り、葦を扇のように開く。指が躊躇いなく動き、尾を揃え、斜めに挿し、木釘を打つ。雨筋が落ちる道を、その場で描いているのが分かった。


「ここ、軒の先を一握り長く。風下の家の煙が戻らないように」


「助かる。統率役を頼みたい」


「任された」


 言い方は素っ気ないのに、口元だけが少し笑う。ノエはすぐさま女性たちと子どもに役を割り、切り藁の踏み込みの固さ、土の水加減、壁塗りの順番まで決めていく。彼女の指示は短く、迷いがない。棟が一本、二本と立ち、昼までに三棟の仮の長屋が影を落とした。


 ◇◆◇


 午後は畑だ。今季に間に合う作物は、乾きに強く、短い日数で実るものがいい。麦跡の空いている商人から種を少し分けてもらい、豆、蕪、麻、薬草。畝の向きを南北に取り、西の風で乾きすぎないように、畝と畝の間に浅い溝を切る。溝は行き止まりではなく、路地の端の共同の「水吐き」に繋げる。豪雨で畑が傷むと、ひと季分が死ぬ。


「リオ、畝の肩が立ちすぎ」


 ノエが鍬で畝の頂を軽く崩す。ほろほろ、と土が指先で崩れ、丸い肩が現れる。


「肩が立ってると、晴れたら早く乾きすぎるし、雨だと崩れやすい。丸くすると、呼吸する」


「呼吸、か。忘れない」


「豆は南の列に。北に蕪。麻は端。倒れやすいから、後で縄で軽く押さえる」


 彼女は、花の種も小袋から出した。


「これは?」


「緑肥。土のごはん。花が咲く頃にすき込むと、来年の田んぼの土がよくなる」


「すぐに旨いものにはならないのに、手をかけるのか」


「来年の米は、今年の手から作るんだよ」


 言いながら、ノエは畝の横に細い苗床の線を引いた。田んぼの苗代は秋のうちに場所を決め、土をいったん眠らせ、春に起こす。そのことを、彼女の指はよく覚えている。


 ◇◆◇


 夕方近く。家の影が長くなり、広場の釜戸の煙が白く上がる頃、僕らは堤の内側の凹地に出た。来年の田んぼにする予定の場所だ。足を踏み入れると、じわりと水が沁み、葦の根が絡み合って、ところどころ土が沈む。


「ここを田にする。今日やるのは、三つ。畦を想像で引く、見回り路を決める、入る水と出る水の口を仮に作る」


「畦は想像から。いいね」


 ノエは裾をからげ、泥に裸足を入れた。足が地脈を探すみたいに、ゆっくりと進む。彼女が立ち止まると、そこに杭を一本。杭から杭へ麻縄を渡すと、目には見えない畦が浮かび上がる。曲がりすぎず、真っ直ぐすぎない線。水が好きそうな線。


「見回り路は、ここ。人二人分の幅。畦と畦の間に、手の幅の余裕を。手が入れば、草が抜ける」


「入る水の口は、上流の木樋から。出る水は、下手の古い溝へ。口は大きく作らず、小さく。小さい口を幾つも、だよ」


「なぜ?」


「大きい口は、気持ちが大きくなる。水を入れすぎて、焦る。小さい口は、目で数えられる」


 ノエは笑って指を折る。一本、二本、三本。僕も指を折った。数えることで、焦りが小さくなるのを感じる。


 泥を掻き、葦束で仮の樋を噛ませ、木杭で押さえる。出口は葦の皮で柔らかく包む。畦の外では、子どもたちが小さな魚を追いかけてはしゃいでいる。田になる前の水は、遊び場でもある。


「来月には、苗代の土を作ろう。灰を混ぜて寝かせて、春に水を張って、冷たい夜に布をかける」


「布?」


「夜に冷えすぎると、芽が凍える。布は畑の毛布」


「たしかに、毛布がない夜は嫌だ」


 ノエの笑い皺が、泥の水面に柔らかく映った。


 ◇◆◇


 日暮れ。最初の仮家から、灯りがこぼれた。葦屋根に雨の気配はない。壁の土はまだ柔らかいが、夜露を嫌がらない程度には固まっている。長屋の一角では、鍋がぐつぐつと音を立て、握り飯の香りが漂った。今日は移住の初日。祝いには素朴で温かいものが良い。


「上棟!」


 子どもたちが声を合わせ、棟の小さな飾りに手のひらを打ち合わせる。リズムは少しずれ、笑い声が混じった。麦の小楼の脇で、お年寄りが笛を吹き、誰かが太鼓を叩く。小さな祭り。風見の広場の風は、宴の煙を真っ直ぐに運んだ。


 僕は一息ついて、ノエに水を手渡した。彼女はぐいと飲み、額の汗を袖で拭う。


「リオ男爵。ひとつ頼みがある」


「なんだい」


「女の作業小屋を、早めに一棟。子どもを寝かせる床と、洗う場と、夜でも縫える小窓。鍋が置ける土間。畑と家の間に、女の仕事の場所がないと、人は持たない」


「ああ、分かる。明日、広場の西側に一棟、柱を立てよう。小窓は南に」


「ありがとう」


 ノエは腰の袋から、短い柄を取り出した。手に馴染む栗の木だ。端に小さな刻み模様がある。


「鍬の柄。さっきの畦の線、リオが持ってた鍬の角度が良かった。柄だけ換えれば、疲れない」


「作ってくれたのか」


「畑は手の延長。手に合ってない道具は、仲間じゃない」


 柄を握ると、たしかに肩の力がすっと抜ける。指の節が自然に収まる溝が刻まれていて、鍬が重たく感じない。こんな細やかさは、僕には作れない。


「礼を言う。これはたぶん、明日の汗を救う」


「汗は救わないと、続かない」


 ノエの言葉は、どれも短くて的確だ。ミーナの明るい拍子と違い、ノエは土の深さを測る拍子を打つ。僕の胸のうちの水面が、その拍子で静まっていくのが分かった。


 ◇◆◇


 夜。初穂の井戸のそばで、空を見上げる。星は強く、堤の向こうの水面を白く照らす。遠くで梟が鳴き、近くで赤子が泣いた。泣き声はすぐにやみ、誰かの歌声に飲み込まれた。


 今日、家が三棟、畑が二筋、来年の田んぼの線が見えた。明日は作業小屋と、畝の続きと、苗代の場所に印を付ける。土と木と水が、少しずつ「暮らし」に形を変えていく。その間を、人と声で縫い合わせるのが、僕の役目だ。


 鍵束が腰で鳴る。王宮で渡された黒鉄の重みは、泥の上でようやく形を得た。紙の線は、今日、初めて息を吸った気がする。


「リオ」


 背中から、ノエの声。振り返ると、彼女は細い布を持って立っていた。


「苗代の毛布。今夜は井戸のそばの道具小屋に置いとく。朝露で湿らないように」


「もう準備を?」


「準備の準備からが、準備だよ」


 言って、ノエは小さく笑い、闇に溶けた。足音は軽く、葦の葉がわずかに揺れた。


 来年の米は、今日の手から始まる。まずは家を建て、畑を作り、田んぼの準備をする。小さな順番が、季を越えて大きな順番になる。僕は鍬の新しい柄を握り直し、明日の最初のひと掬いを心の中で練習した。


 風が頬を撫で、広場の灯が一つ、また一つと落ちていく。〈クラット原〉の夜は、ようやく自分の匂いを持ち始めた。


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