第5話 開拓地拝領
春季の終わりを告げる鐘が、王都ルベリオンの塔々を順に回って消えていった。玉座の間には緋の絨毯が敷かれ、高窓から入る光が紅玉の紋章を淡く照らす。香が焚かれ、貴族たちは裾を正して神妙に列をなし、玉座の前でこうべを垂れていた。季のあいだの働きを天秤にかけ、功を定める日である。
壇上には、工匠院、穀政院、軍備局の札が並び、侍従たちが次々に巻物を差し出す。淡々と読み上げられる功労者の名、等級、賞典。金一封、良馬の下賜、院への席次加増――名が呼ばれるたび、控えめな拍手と囁きが波のように走る。
やがて、侍従長がひと際大きな巻物を手に取った。金の房が揺れ、場の空気がぴたりと張る。
「功一等――」
息を飲む気配が、列全体で重なった。
「功一等はリオ準男爵とする! 干拓地の水抜き、南城壁の拡張、街道の整備にて大いなる手腕を発揮。よって新たな土地の所有を与える。爵位も男爵とする!」
ざわり、と緋と石のあいだを風が走る。口元を押さえる者、眉を上げる者、頷く者。
「リオ準男爵って誰だ?」
「何者だ?」
「オルド男爵が推薦したヤツじゃなかったか?」
後列から漏れた小声が、思いのほか近く感じられた。指先に汗が滲み、礼服の襟が急に窮屈になる。僕は一歩前に進み出て、定められた角度で跪く。胸の内では、湿原の泥がまだ乾ききらないような気がしていた。
侍従が銀盆を捧げ持つ。朱の封蝋が押された文書が二通、そして小さな黒鉄の鍵束。一通は「封土下賜状」、もう一通は「爵位昇叙状」。鍵は王都の公庫と、拝領地の仮倉のものだという。
「受けよ、リオ・クラット。今日より男爵として名簿に列し、参勤交代の義を継ぐべし。封はコーラ湿原南縁、堤内地第七区画ならびに街道沿い丘陵の一部、計三百町歩。名は暫定、〈クラット原〉と号す」
手がわずかに震えた。受け取った封土状の紙は厚く、指にざらりとした手応えがあった。朱印の紅玉紋章が、光に硬く沈む。
「そして――」
王の声が、広間の石に落ちて広がった。
「夏季はそれぞれの領地の発展に努めよ。今年の税率は例年通り四公六民とする。一度すべてを王に納め、そののち定めに従って給金を支給する。以上」
四公六民。数字は知っている。だが、いまは重みが違った。納める責任、受け取る責任、配る責任。手のひらの鍵が急に重くなる。
列が崩れ、礼が解けて、ざわめきが広間に戻りはじめる。オルド・セルヴィア男爵が笑って近づき、僕の肩をぽんと叩いた。
「よくやったな、リオ。……いや、もうリオ男爵か。肩の広さが要るぞ」
「男爵さまの肩、貸してください。しばらくは借り物で」
「いつでも貸す。最初の一枚目は誰でも借り物だ」
オルドはそれだけ言うと、式の後段の用に戻っていった。振り返ると、ラズリ・ヴォーク子爵がこちらへウィンクを投げ、帽子の羽根を軽く揺らした。遠く、測量三脚の影のそばで、ヴァーミリオン伯爵が目だけで笑った。あの厳しい線の人が、ほんの少し口の端を上げている。
きっと三人が、欠けていた僕の名を、しかるべき紙の上にそっと書き足してくれたのだろう。そんな気がした。僕は深く頭を下げ、三人へそれぞれ別々の角度で礼を返した。
王宮の回廊を出ると、外の明るさが少し眩しかった。緊張がほどけるやいなや、ミーナが駆け寄ってきて、封土状の端をのぞき込む。
「本当に……リオ、男爵になったのね」
「紙の上では」
「紙の上の線は、泥の上の線を動かして初めて意味を持つ。でしょ?」
「言い返されるとは」
軽口を交わすと、ミーナは真顔になって僕の礼服の襟を直した。
「リオ男爵。家名に土地の名がついたの。〈クラット原〉。素敵だわ」
「泥の匂いのする名前だ」
「いい匂い」
奥方レーナも歩み寄り、鍵束の一つをそっと持ち上げた。
「これは仮倉の鍵。収穫の初穂を納めるところね。もう一つは公庫。間違えて使わないように紐の色を変えておきましょう」
「お願いします。色を間違えると首が飛びます」
「飛ぶ前にわたしが止めます」
三人で笑い合ったが、笑いの底には、確かな重みが沈んでいた。
◇ ◇ ◇
午後、工匠院の控えの室で、具体の説明が始まった。院の文官が、堤内地第七区画の地図を広げる。薄い青で塗られた旧湿地、濃い線で描かれた堤、点で並ぶ検査杭。街道側には丘陵地の細長い帯。そこへ小さく赤い丸が打たれている。
「ここが仮の館地。倉と見張り台を兼ねた小楼をまず一棟。街道に面して市場用の空き地を四十間。水場は堤の内側に井戸を一本。人足と移住者の割当はこちら」
文官はさらりと紙をめくり、移住希望者の名簿を見せた。城下の小作、戦役あがりの独り者、職を失った石工、行き場のない子どもを抱えた母親。名と年齢と籍の出どころ。紙の上の文字は乾いているが、その向こうに泥と汗の匂いが透けて見える。
「税は四公六民。初年度は勘定上の免除枠が一部あります。ですが、納める段取りは最初から教えてください。最初に楽を覚えると、二年目に骨が折れる」
「楽は楽の分だけ、あとで高くつきますからね」
言いながら、自分に言い聞かせているのがわかった。文官は目だけで頷き、封土状の読み合わせに戻った。
次に、ヴァーミリオン伯爵のところへ顔を出す。伯爵は机の隅を叩き、すぐに地図を二枚出した。
「街道の枝線を〈クラット原〉の市場まで延ばす。輪距は本線と同じ。路冠を薄く、側溝を片側先行。雨期前に仮橋を一つ入れる。資材の割当は今日中に手配する。現場責任者は――」
「リオ男爵、あなたでいいわよ」
いつの間にか来ていたラズリ子爵が、笑いながら口を挟んだ。
「飾り門は要らないからね?」
「飾りは収穫のあとで」
「それがいい」
三者三様の癖が、紙の上で噛み合う。数字の線と、余白の線と、見栄えの線。どれも要る。どれも単独では立てない。僕は頷き、伯爵から一束の札を受け取った。
「君の札は言葉が短いが、現場でよく通る。明朗であれ。曖昧は土の敵だ」
「肝に銘じます」
◇ ◇ ◇
夕刻、王宮の裏庭で、オルド男爵と腰を並べて座った。薄い風が樫の葉を揺らし、遠くで衛兵の槍が触れ合う音がした。緊張と喜びと不安が、同じ椀に入れた水のように、まだ澄みきらない。
「リオ、紙の上の線をもらったな」
「はい。……重いです」
「重い。だが、持つところを決めれば、持てる。持ち方は、季節ごとに変わる」
「最初の仕事は何から行けばいいでしょう」
「人だ。土より先に、人の場所を作れ。仮でも良い。雨をしのげて、火が使えて、水が近い場所を」
「小楼と市場の空き地と、井戸」
「そうだ。次に約束だ。紙の約束と、口の約束と、手の約束。紙は逃げない。口は忘れる。手は匂いを覚える。三つの約束を揃えれば、人は居着く」
「手の約束」
「一緒に杭を打て。一緒に鍋を囲め。一緒に笑って、一緒に怒れ。それが領主の最初の仕事だ」
「……はい」
肩の重みが少しだけ形を得た気がした。持ち方を決めれば、持てる。そういう種類の重さだ。
オルドは立ち上がり、肩の埃を払った。
「それから、ミーナの料理は人を呼ぶ。市場の最初の炉は、彼女に任せろ」
「同意です」
僕らは笑い、夕日に向けて一礼した。
◇ ◇ ◇
夜。控えの館の一室で、封土状を机に広げる。灯の下で朱印が赤く光り、墨の線がはっきり立ち上がる。紙の繊維のざらつきが、指にまだ新しい。
ミーナが湯気の立つ茶を運んできた。香草の匂いが安心を連れてくる。
「ねえ、リオ。名付け、どうする?」
「名付け?」
「市場の広場とか、井戸とか。みんな呼ぶでしょ。呼び名があると、早く居着くの」
「なるほど。……井戸は初穂の井戸。市場は風見の広場。小楼は麦の小楼。どう?」
「いい。風が見える広場は、誰でも好き」
彼女は紙の余白に、小さく美しい字でその名を写した。薄い線が、土地のどこかに灯をともす。
僕は筆を取り、封土状の端に小さく書き添えた。
「四公六民、忘れるな。先に納めて、あとで配る。楽を先にしない」
言葉は短く、書きぶりは不格好だった。それでも、灯の下で墨が乾いていくのを見ていると、胸の内の水面が、すこしずつ澄んでいく。
窓の外で、王都の夜警の鈴が遠く鳴った。新しい季の初日が、夜の向こうで待っている。鍵束が机に置かれて、月の光を拾った。
きっと、この功は僕ひとりのものではない。湿原の泥に足を取られながら杭を打った人足、雨の中で土嚢を運んだ職人、紙の端を整えた文官、そして、肩を貸し笑ってくれた三人の貴族。彼らがそれぞれに譲って、押して、支えてくれた結果だ。
譲られたものは、次に譲れるように磨いて返す。押してもらった分は、次に押せるように立って返す。支えてもらったぶんは、次に支えられるように太らせて返す。
それが、男爵という名の、最初の仕事だ。
僕は封蝋をもう一度確かめ、鍵束を帯に掛けた。明日、〈クラット原〉へ行く。初穂の井戸に縄を張り、風見の広場に杭を打ち、麦の小楼の土台に石を置く。紙の線を、泥の線に移すために。
窓を開けると、夜の風が香の名残を攫い、遠くの塔の先で星が瞬いた。季は変わる。名も変わった。だが、泥の匂いは同じだ。僕は小さく息を吸い、明日の足音を胸の内に並べた。
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