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第4話 街道整備は余裕なし

 湿原の水位が落ち着き、堤の芯が白く乾き始めたころ、工匠院から新たな木札が届いた。南東の街道整備が本格化する。干拓で増える荷を通す幹線だという。


「助っ人を頼む。担当はヴァーミリオン伯爵、王都きっての現場巧者だ」


 現場巧者。良い響きだが、同時に胃のあたりが静かに固くなる。巧者という言葉は、甘えが一切通らないことの裏返しでもある。


 南東街道に着くと、まず音に驚いた。工の掛け声ではない。短い鐘、笛、木板の合図が、時刻と区画ごとに正確に鳴る。土盛りの横に掲げられた札には、刻み目盛りと勾配と締固回数。墨は太いのに、線は震えない。


「クラット準男爵か。聞いている」


 赤い外套の男が、測量の三脚から顔を上げた。髪は短く刈られ、無駄がない。彼の周りの地面には、針の穴のように細かい杭が密に打たれている。


「ヴァーミリオン伯爵である。ここは規格道だ。車の輪距、冠水時の通行限界、排水勾配、すべて数で回す。君には、第二区の仮設通行路を今日中に通す役を与える」


「今日中に」


「雲が厚い。積荷の麦が待てない。日没までだ」


 伯爵は地図をすっと差し出し、数字を二つ指で弾いた。路肩から路肩まで十二尺、中央に一分の路冠、側溝は片側のみ先行、仮設の路盤は割栗三寸、転圧は四往復。


「仕様はこれ。逸脱は不可。逸脱は道の敵だ」


「承知しました」


 短い返事をしてから、リオはあえて周囲を一周した。乾いたところ、湿ったところ。人の流れ、荷の置き場、動物の匂い。伯爵の札は完璧だ。だが地面の息は紙に書けない。第二区の真ん中に、鞣した革のように沈む黒土が、一本の筋を成している。昔の湿地の尾根。割栗だけで押し切るには、時間が足りない。


「サノ親方、丸太を束ねてくれ。葦と枝で巻いて、敷きマットにする。割栗はその上に薄めで、転圧は軽い往復だ」


「丸太道かい。伯爵殿は皺を寄せるかもな」


「本設じゃない。沈む前に荷を通すための仮だ。夜に石を足して、明日冠を決める」


 親方の目が光る。丸太は湿原で腐るほど扱った。葦の束で縛り、紐を埋め、敷いたら互いに噛み合わせる。脇には仮の「水吐き」を開け、側溝と細い舌でつなぐ。片側交互の合図役も決める。伯爵の鐘の合図に、こちらの旗の合図を重ねるだけだ。


 作業の手は速い。丸太が二十、三十、四十と敷かれ、割栗が白く走る。転圧の木槌がテンポを刻み、仮通路が蛇の舌のように伸びた。だが、伸ばした先で、鋭い声が飛ぶ。


「誰が丸太を入れろと言った!」


 ヴァーミリオン伯爵が、風の向きを変えたみたいにそこにいた。彼は丸太の端を足で軽く踏み、わずかな沈みを確かめる。


「規格にはない。割栗三寸、四往復。紙にあるのはそれだ」


「伯爵。第二区の芯に黒土の筋が通っています。割栗だけでは沈みが出ます。今、麦の車列が丘の向こうで雨待ちです。仮に丸太で噛ませて、今日通して、夜に石で埋めます」


「沈みは一分まで許容だ。それ以上は規格外。仮のつもりで丸太を許すと、仮が本になる。現場は甘える」


「甘えではなく、余白です。沈む分の逃げ。通すための幅。伯爵の数に、土の呼吸を足したい」


 伯爵は短く息を吐いた。目は冷静で、怒りはない。ただ、判断を早くする人間の目だ。


「十五分やる。渡った車の車輪が十五台、沈み一分以内であれば続行を認める。沈み二分で中止、割栗直。合図は鐘ではなく旗で。責任者は君だ」


「受けます」


 風が変わったのは、ここからだった。十五台が来るまでに、丸太の端をもう一段噛ませ、割栗を薄く足し、転圧の足を増やす。車輪の幅に合わせてマットの継ぎ目をずらし、中央に軽く路冠を作る。側溝の口は深くしすぎず、葦で口を柔らげる。旗手の腕が緊張で固い。ミーナがいつの間にか隣に立ち、短い声で拍子を刻んだ。


「いち、に。はい、いち、に」


 最初の車が入る。麦の香り。車輪が丸太の上で一度鳴り、すぐに白い石の上に移る。沈みは――木尺の目を覗く。一分以内。二台目、三台目。五、七、十。十三。十五。


「十五台、最大沈み一分」


 伯爵の手が、わずかに上に動いた。許可。


 そこからは、道が生き物のように進んだ。車列は間を広めに取り、旗の指示で片側交互。工は側溝を伸ばし、仮の水吐きに葦束を噛ませて流れを柔らげる。丸太の上の石は夕方にかけて厚みを増し、夜には仮から仮本設へと変わる。伯爵の札の横に、リオの小さな札が並びはじめた。余裕、待避、逃げ、止水。数字の間に、言葉が入る。


 日が落ちる前、ヴァーミリオン伯爵が再び現れた。今度は測量棒は持っていない。肩の力が、ほんの少し落ちている。


「十六本の丸太で、一日の遅れを取り戻した。数にも、余白の数字というものがあるらしい」


「丸太は明日の朝、半分は石の下で潰れます。残りは芯の骨になります。潰れる分は、土が食べるぶんです」


「潰れるぶんを、予め用意する。君のいう余白というやつだな」


 伯爵は少しだけ口元をゆるめた。


「では、こちらから一つ。規格の輪距を五寸狭め、路肩の植生帯を広げたい。土埃の抑えと、雨の跳ね返りの減殺になる。だが商隊は輪距の変更を嫌う」


「輪距は商隊ごとにばらばらです。道の輪距を変えるより、輪止めの向きを一本の標準に揃えるのはどうでしょう。車軸の留め木の矢印を街道沿いの札で示す。逆向きは補助金を出さない」


「……そういうやり方もあるか」


 伯爵は遠くの空を見た。薄灰色の雲は、まだ重い。


「明日、第三区に入る。そこは丘の肩を切って通す。土の肩は崩れやすい。控えの松杭を打ち、縄で巻く。君の言う余白は――」


「待避所を一里ごとに。土運びの車が避ける場所です。巡察路にもなります」


「よかろう。札に入れておく」


 短いやり取りが、妙に心地よかった。数字と数字の間に、短い言葉が渡される。渡された言葉が、次の数字を動かす。


 ◇◆◇


 翌朝、第三区は、伯爵の真骨頂だった。丘の肩に墨縄が走り、切土の斜面には、きっちりとした縦の線が入っていく。控えの松杭は千鳥に打たれ、縄が冷たい朝の光を掴む。崩落角と土質と含水率。伯爵の口から出る数字は、現場の土の色と一致している。優秀とはこういうことだ、とリオは素直に楽しくなった。


 楽しさは、突然の土鳶で中断された。切土の肩が一部、いやな鳴き方をした。サノ親方が即座に叫ぶ。


「土が笑ってる!」


 伯爵は一拍で判断した。鐘が鳴り、笛が二度。人が引く。リオは駆け上がり、笑っている土の上に目印を打った。土は、今は崩れない。だが、崩れる準備をしている。杭を一本増やすだけではだめだ。息の逃げ場が要る。


「伯爵、ここ、仮の棚を置いてやり過ごしませんか。丸太で梁を渡して、葦で土の表皮を作る。雨を一度受けて、流れを均します」


「棚は規格外だ」


「崩れたら、規格も何もありません。棚は明日には外します。土に一度呼吸をさせるだけ」


 伯爵は静かに頷いた。もう、会話に余計な前置きはいらない。


「棚だ。丸太は昨日の余り、葦は側溝の束、縄は控えの余り。作業時間は一刻。合図は旗一本で送る」


 棚が置かれ、葦の皮膚が斜面を覆った。雨粒は来なかった。だが、湿った空気だけでも土は呼吸を変える。笑っていた筋が、黙る。葦の表皮がわずかに温度を取り、土の表層の膨張をゆっくりにする。棚は夕方には外された。斜面は、何事もなかった顔で、紋様だけを一つ増やした。


「紙の幅は、泥の幅に広げてからが本当か」


 伯爵の独り言に、リオは笑いながら頷いた。


「泥の幅を、紙に戻すのが伯爵の数字です」


 ヴァーミリオン伯爵は、測量棒を軽く地面についた。


「君の札は、数字の間を埋める。余白は甘えではなく、織り目だった。――クラット準男爵、君の名を札の端に書いておくとしよう」


「端で十分です。真ん中は伯爵の数字ですから」


 伯爵は肩で笑った。


 ◇◆◇


 一週間で、街道の新しい帯は丘の肩を越え、低い湿地を過ぎ、川の手前で古い道と結ばれた。冠は薄く、側溝は素直に走り、待避所は一里ごとに白く光る。日陰には植生帯の緑が滲み、埃は少ない。商隊の車は同じ向きに輪止めの矢印を付け、札に従って整然と通った。


 完成の鐘が鳴る。伯爵は短く祝辞を述べ、札の束から一枚を抜いてリオに渡す。


「現場委任の証。次に呼ぶときは、仕様書の余白も含めて預ける。君は余白を甘やかさない」


「伯爵の数字が骨です。僕は肉をつけるだけです」


「骨と肉なら、皮は誰だ」


「ミーナです。風と陽を読みますから」


 振り返ると、ミーナが笑っていた。風は街道の上を新しく走り、荷車の音は軽い。王都へ伸びる線は、遠くに溶けていく。


 道は数ででき、余白で持つ。伯爵と準男爵は違う言葉を話すが、同じ方向を見ていた。リオは札を折り畳み、腰に挟んだ。次に呼ばれた時、紙の線と泥の線の間に、今日より少しだけ上手い息を入れられるように。


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