表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

第3話 城壁拡張は余裕をもって

 コーラ湿原の仮締切は二重になり、排水路の木樋は低く鳴いた。水位は日ごとに指一本ずつ下がり、土の匂いに米の未来が混じり始める。穀政院の役人は満足げに頷き、紙の上の線は城下の外周にも伸びていった――ただし工事の遅れている箇所もあった。


 王都ルベリオンの南東城壁拡張工事である。


「クラット準男爵、南東の城壁拡張現場の応援に回ってくれぬか」


 工匠院の使いが、木札の図を抱えてやってきた。城壁拡張線は市場の外れをかすめ、古い御用溝を斜めに横切っている。紙の上では、すべてが真っ直ぐで、ぴったりだ。


「任せてください」


 リオは湿原の段取りをサノ親方に預け、石工隊と合流して南外縁へ向かった。乾きかけの土を踏むと、遠くに仮門が見える。旗がひらひらし、華やかな声が近づいた。


「きみが噂の準男爵かね」


 羽根付きの帽子、磨き上げた長靴。笑顔だけは立派な男が、両手を大きく広げた。


「ラズリ・ヴォーク子爵だ。城壁拡張総括を拝命している」


 周囲を見れば、積み石は大きさが揃っておらず、砂置き場は雨除けもなくて湿り気を帯び、石灰桶のふたは開けっ放し。石工と土工と木工が同じ列で指示を待ち、車は狭い仮道で向かい合ってにらみ合っている。


「総括閣下、資材置き場の位置が重なっています。あれでは車が回れません」


「いやいや、ぴったり詰めるのが美しいのだよ、クラット君。余裕は怠けの別名だ。壁も工程も、ぎゅっとやるのが肝心だ」


 言い切る声だけは威勢がいい。リオは内心でため息をつき、足元の土を一掬いした。湿り気。表土は乾いているが、その下は粘って重い。地中に古い水の道がある。


「子爵。御用溝がここで古い枝流に分かれてます。基礎の下を水が横切る形になります。控え壁を一本増やして、幅も人ひとり分、内側に巡察路の余裕を取りましょう。石は粗くも良いので大きさを揃え、石灰は今日は寝かせ直し――」


「待った。壁に余裕? 巡察路? 紙の幅は決まっている。わたしは図面どおりに進めたい。第一、壁に穴だの路だの、弱くなるではないか」


「弱くするためではなく、強くするための余裕です。水の逃げ道と、人の逃げ道。それがないと、崩れるときは一気です」


「うむ……あとで検討しよう。とりあえず、この門型の飾りからだ。見栄えが大事だ」


 飾り門。リオは胸の奥がもやっとした。見栄えに意味がないわけではない。でも、見せるものは根っこがあってこそだ。


「サノ親方、仮の資材置き場を西に移して、回転の余白を作る。砂は天幕の下へ。石灰は水を足して蓋を。石は七寸と九寸を仕分け。墨縄を張って、御用溝に平行な排水仮溝を一本」


「うけた」


 親方たちは目配せ一つで散り、怒鳴り合っていた車方がほっと息をついた。リオは子爵へ向き直る。


「お許しを。飾りは後回しに。基礎が寝るまで三日、その間に控え壁の位置だけ打ちます」


「……三日? そんなに寝かせるのか」


「寝かせたぶん、後が楽になります」


 不満げな顔。だが子爵は人前では大声を出さない術を心得ているようで、「任せよう」とだけ言い残し、きれいな長靴で泥を避けながら去っていった。


 ◇◆◇


 初日は、余裕のための余裕を作る日になった。資材置き場が呼吸を始めると、現場の声の高さが一段落ち着く。仮溝ができると、砂の山の足元がさらさらと乾き、石灰は白い乳のようにゆっくりと落ち着いた。御用溝の古い枝流はやはり生きていて、仮溝に水が集まる。リオはそこへ小さな「水吐き」を打ち、土の中の息を逃した。


 二日目、墨縄が滑り、基礎の底面が現れる。古い瓦片や砕けた陶片が出てきた。昔の外縁はここだったのかもしれない。石は大きさがそろい、端部は角を落とした。楔石を噛ませ、目地に石灰をたっぷりと。サノ親方の木槌が、一定のリズムで地面を伝う。


 三日目。昼前に雲が出た。湿原で慣れた鼻が、草の匂いの向こうにぬるい風を嗅ぎ取る。リオは空を見上げる。


「降ります」


 言った時にはもう、粒の大きい雨が落ち始めていた。仮溝は鳴き、御用溝は表情を変える。工たちが杭を抱え、土嚢を肩に走る。控え壁の位置に、まだ石が入っていない。


「親方、控え壁の根、先に打ちましょう! 石はあっちの七寸を優先。目地は厚めで、水吐きの位置に葦の束を」


「おう!」


 土が重くなる。足袋に泥が吸い付き、声が雨に消える。そこへ、真新しい外套を頭にかざしたラズリ子爵が駆け込んできた。


「クラット君! 門の飾りが倒れそうだ! 人が集まるから先に支えを――」


「控え壁が先です!」


「見栄えが――」


「倒れたら見栄えどころじゃない!」


 言い切る前に、御用溝の古い枝流が怒ったように膨らみ、仮の飾り門の片足がずぶりと沈んだ。周りにいた者たちが悲鳴を上げる。


「綱! 綱を二本! 右へ引け! 左は浮かすな、浮かしたら倒れる!」


 リオの声に、周囲の体が一斉に動いた。控え壁の根に石が入ると、雨の重みを受け止める芯ができる。葦束の水吐きが音を変え、仮溝が水を飲み込む。土嚢の列が蛇のようにうねり、御用溝の水が別の細い道へ誘われる。


 飾り門は傾いたまま止まった。ラズリ子爵はへたり込み、外套の帽子の羽根が情けなくしおれる。リオは息を吐き、子爵の前にしゃがみ込んだ。


「子爵。余裕がなかったのは、壁だけじゃありません。人の通り道も、綱の本数も、言葉の順番も。余白がない段取りは、雨一つで詰みます」


 子爵はしばらく口を開けたまま、雨の向こうを見つめていた。やがて小さく咳払いをして、かすれた声で言う。


「……すまない。わたしは紙の幅ばかり見ていた」


「紙の幅は、泥の幅に広げてからが本当です」


「以後、判断はきみに委ねる。書面も出そう。――ヴォーク子爵、現場委任状をクラット準男爵に」


 文官が駆け寄り、慌てて筆を走らせた。サノ親方が目尻をぬぐい、雨は小止みになっていく。控え壁の列はまっすぐに立ち、巡察路の余白は雨水を受け止めている。最小限の「弱さ」が、全体を強くしていた。


 ◇◆◇


 雨上がりの空気は軽く、石灰の白が明るい。四日目には基礎が寝て、五日目に二段目が上がる。リオは墨縄を張り直し、巡察路の幅に白線を引いた。木札に「人二人が並んでも通れること」と書いて杭に結ぶ。石工のマリクが笑う。


「そんな札、初めて見たな」


「札がなくても通れるように、余裕を書いておくんです」


 御用溝に小さな橋台を備え、木の仮橋を掛ける。仮橋の幅も、車がすれ違える余裕をとった。道すがら、子どもが二人、手を繋いで渡っていく。リオはにやりとした。


「総括閣下。飾り門は、控え壁が全て入ってからにしましょう。代わりに、ここに控え樫を一本植えませんか。根が水を縫って、土に筋をつけます」


「木を……城壁の脇に?」


「はい。風除けにも、人の目印にもなります。飾りの前に、呼吸を置きましょう」


 ラズリ子爵は少し考えてから、珍しく早く頷いた。


「よいな。見栄えより、呼吸だ」


 その日の午後、職人たちが笑いながら土を起こし、若い樫を一本据えた。巡察路の白線に柔らかな影が落ちる。子爵が小声でこぼす。


「余裕という言葉、嫌いだったが……悪くないな」


「悪くないどころか、味です」


 夕刻、城壁の新しいラインが低く伸び、控え壁が規則正しく影を落とす。巡察路に立つと、外の畑へ風が抜け、内の家並みへ人の声が戻ってくる。石が積まれたばかりの匂いは白く、土の匂いは丸い。リオは遠くに湿原の光を見た。


 ミーナが小走りでやってきて、包みを差し出す。


「差し入れ。お昼の続き。……って、リオ、また泥だらけ」


「泥の方が元気なんだよ」


 包みの中には、握り飯と梅の香り。石の上に腰を下ろし、三人で頬張る。ラズリ子爵はおそるおそる握り飯にかぶりつき、目を丸くした。


「……うまい。余裕があると、米はこんなにうまいのか」


「それは梅の力です」


 三人で笑う。風が軽く、巡察路が静かに光る。リオは立ち上がり、白線の端を足でなぞった。


「次は門扉の吊り元を、この余裕側に。支点の逃げが取れるように、金具の穴を一つ増やしましょう。磨り合わせの時間を段取りに足します」


「任せる」


 ラズリ子爵の声は、最初の見栄えへの固執が嘘のように柔らかい。現場の文官が走り、札が増え、段取りの欄に余裕が幾つも書き加えられる。余白は、さっきまでの空白とは違って、意味のある空きになっていく。


 ◇◆◇


 一週間後、城壁はひとまず町の外周に新しい弧を描いた。仮の巡察路は固まり、控え壁は雨に耐え、御用溝は静かに笑う。飾り門は最後に据えられ、樫の若木が脇で揺れた。人二人分の幅には、親子の手と、荷車の車輪と、兵の足が一度に収まる。ぎゅうぎゅうではなく、すかすかでもない、吸って吐ける幅。


「完成検査、通りました」


 工匠院の印を押した文が、リオの手に渡る。ラズリ子爵はいつになく晴れやかな顔で頷いた。


「クラット準男爵。きみの余裕は、城にも人にも効いた。勉強になったよ」


「こちらこそ、飾り門は勉強になりました。見せるものの前に、息を置く」


「うむ。次は息の長い仕事をしよう。たとえば――」


 と、そこでサノ親方が笑いながら割り込む。


「次は腹の長い仕事だ。飯だ飯!」


 笑い声が巡察路を走り、樫の葉が揺れる。リオは空を仰いだ。コーラ湿原の方角に、夕焼けが薄く残っている。


(余裕をもって。泥にも、人にも、段取りにも)


 紙の線と泥の線、その間に息を入れる。その息こそが、壁や畑や街を長持ちさせる。リオはそう思った。


 王都ルベリオンの城壁は今日、ほんの少し外へ膨らんだ。余裕をもって。次に雨が来ても、次に人が増えても、受け止められるように。準男爵の肩に乗る泥は相変わらず重いが、その重みには、ちゃんと置き場ができていた。


「とても面白い」★四つか五つを押してね!

「普通かなぁ?」★三つを押してね!

「あまりかな?」★一つか二つを押してね!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ