第3話 城壁拡張は余裕をもって
コーラ湿原の仮締切は二重になり、排水路の木樋は低く鳴いた。水位は日ごとに指一本ずつ下がり、土の匂いに米の未来が混じり始める。穀政院の役人は満足げに頷き、紙の上の線は城下の外周にも伸びていった――ただし工事の遅れている箇所もあった。
王都ルベリオンの南東城壁拡張工事である。
「クラット準男爵、南東の城壁拡張現場の応援に回ってくれぬか」
工匠院の使いが、木札の図を抱えてやってきた。城壁拡張線は市場の外れをかすめ、古い御用溝を斜めに横切っている。紙の上では、すべてが真っ直ぐで、ぴったりだ。
「任せてください」
リオは湿原の段取りをサノ親方に預け、石工隊と合流して南外縁へ向かった。乾きかけの土を踏むと、遠くに仮門が見える。旗がひらひらし、華やかな声が近づいた。
「きみが噂の準男爵かね」
羽根付きの帽子、磨き上げた長靴。笑顔だけは立派な男が、両手を大きく広げた。
「ラズリ・ヴォーク子爵だ。城壁拡張総括を拝命している」
周囲を見れば、積み石は大きさが揃っておらず、砂置き場は雨除けもなくて湿り気を帯び、石灰桶のふたは開けっ放し。石工と土工と木工が同じ列で指示を待ち、車は狭い仮道で向かい合ってにらみ合っている。
「総括閣下、資材置き場の位置が重なっています。あれでは車が回れません」
「いやいや、ぴったり詰めるのが美しいのだよ、クラット君。余裕は怠けの別名だ。壁も工程も、ぎゅっとやるのが肝心だ」
言い切る声だけは威勢がいい。リオは内心でため息をつき、足元の土を一掬いした。湿り気。表土は乾いているが、その下は粘って重い。地中に古い水の道がある。
「子爵。御用溝がここで古い枝流に分かれてます。基礎の下を水が横切る形になります。控え壁を一本増やして、幅も人ひとり分、内側に巡察路の余裕を取りましょう。石は粗くも良いので大きさを揃え、石灰は今日は寝かせ直し――」
「待った。壁に余裕? 巡察路? 紙の幅は決まっている。わたしは図面どおりに進めたい。第一、壁に穴だの路だの、弱くなるではないか」
「弱くするためではなく、強くするための余裕です。水の逃げ道と、人の逃げ道。それがないと、崩れるときは一気です」
「うむ……あとで検討しよう。とりあえず、この門型の飾りからだ。見栄えが大事だ」
飾り門。リオは胸の奥がもやっとした。見栄えに意味がないわけではない。でも、見せるものは根っこがあってこそだ。
「サノ親方、仮の資材置き場を西に移して、回転の余白を作る。砂は天幕の下へ。石灰は水を足して蓋を。石は七寸と九寸を仕分け。墨縄を張って、御用溝に平行な排水仮溝を一本」
「うけた」
親方たちは目配せ一つで散り、怒鳴り合っていた車方がほっと息をついた。リオは子爵へ向き直る。
「お許しを。飾りは後回しに。基礎が寝るまで三日、その間に控え壁の位置だけ打ちます」
「……三日? そんなに寝かせるのか」
「寝かせたぶん、後が楽になります」
不満げな顔。だが子爵は人前では大声を出さない術を心得ているようで、「任せよう」とだけ言い残し、きれいな長靴で泥を避けながら去っていった。
◇◆◇
初日は、余裕のための余裕を作る日になった。資材置き場が呼吸を始めると、現場の声の高さが一段落ち着く。仮溝ができると、砂の山の足元がさらさらと乾き、石灰は白い乳のようにゆっくりと落ち着いた。御用溝の古い枝流はやはり生きていて、仮溝に水が集まる。リオはそこへ小さな「水吐き」を打ち、土の中の息を逃した。
二日目、墨縄が滑り、基礎の底面が現れる。古い瓦片や砕けた陶片が出てきた。昔の外縁はここだったのかもしれない。石は大きさがそろい、端部は角を落とした。楔石を噛ませ、目地に石灰をたっぷりと。サノ親方の木槌が、一定のリズムで地面を伝う。
三日目。昼前に雲が出た。湿原で慣れた鼻が、草の匂いの向こうにぬるい風を嗅ぎ取る。リオは空を見上げる。
「降ります」
言った時にはもう、粒の大きい雨が落ち始めていた。仮溝は鳴き、御用溝は表情を変える。工たちが杭を抱え、土嚢を肩に走る。控え壁の位置に、まだ石が入っていない。
「親方、控え壁の根、先に打ちましょう! 石はあっちの七寸を優先。目地は厚めで、水吐きの位置に葦の束を」
「おう!」
土が重くなる。足袋に泥が吸い付き、声が雨に消える。そこへ、真新しい外套を頭にかざしたラズリ子爵が駆け込んできた。
「クラット君! 門の飾りが倒れそうだ! 人が集まるから先に支えを――」
「控え壁が先です!」
「見栄えが――」
「倒れたら見栄えどころじゃない!」
言い切る前に、御用溝の古い枝流が怒ったように膨らみ、仮の飾り門の片足がずぶりと沈んだ。周りにいた者たちが悲鳴を上げる。
「綱! 綱を二本! 右へ引け! 左は浮かすな、浮かしたら倒れる!」
リオの声に、周囲の体が一斉に動いた。控え壁の根に石が入ると、雨の重みを受け止める芯ができる。葦束の水吐きが音を変え、仮溝が水を飲み込む。土嚢の列が蛇のようにうねり、御用溝の水が別の細い道へ誘われる。
飾り門は傾いたまま止まった。ラズリ子爵はへたり込み、外套の帽子の羽根が情けなくしおれる。リオは息を吐き、子爵の前にしゃがみ込んだ。
「子爵。余裕がなかったのは、壁だけじゃありません。人の通り道も、綱の本数も、言葉の順番も。余白がない段取りは、雨一つで詰みます」
子爵はしばらく口を開けたまま、雨の向こうを見つめていた。やがて小さく咳払いをして、かすれた声で言う。
「……すまない。わたしは紙の幅ばかり見ていた」
「紙の幅は、泥の幅に広げてからが本当です」
「以後、判断はきみに委ねる。書面も出そう。――ヴォーク子爵、現場委任状をクラット準男爵に」
文官が駆け寄り、慌てて筆を走らせた。サノ親方が目尻をぬぐい、雨は小止みになっていく。控え壁の列はまっすぐに立ち、巡察路の余白は雨水を受け止めている。最小限の「弱さ」が、全体を強くしていた。
◇◆◇
雨上がりの空気は軽く、石灰の白が明るい。四日目には基礎が寝て、五日目に二段目が上がる。リオは墨縄を張り直し、巡察路の幅に白線を引いた。木札に「人二人が並んでも通れること」と書いて杭に結ぶ。石工のマリクが笑う。
「そんな札、初めて見たな」
「札がなくても通れるように、余裕を書いておくんです」
御用溝に小さな橋台を備え、木の仮橋を掛ける。仮橋の幅も、車がすれ違える余裕をとった。道すがら、子どもが二人、手を繋いで渡っていく。リオはにやりとした。
「総括閣下。飾り門は、控え壁が全て入ってからにしましょう。代わりに、ここに控え樫を一本植えませんか。根が水を縫って、土に筋をつけます」
「木を……城壁の脇に?」
「はい。風除けにも、人の目印にもなります。飾りの前に、呼吸を置きましょう」
ラズリ子爵は少し考えてから、珍しく早く頷いた。
「よいな。見栄えより、呼吸だ」
その日の午後、職人たちが笑いながら土を起こし、若い樫を一本据えた。巡察路の白線に柔らかな影が落ちる。子爵が小声でこぼす。
「余裕という言葉、嫌いだったが……悪くないな」
「悪くないどころか、味です」
夕刻、城壁の新しいラインが低く伸び、控え壁が規則正しく影を落とす。巡察路に立つと、外の畑へ風が抜け、内の家並みへ人の声が戻ってくる。石が積まれたばかりの匂いは白く、土の匂いは丸い。リオは遠くに湿原の光を見た。
ミーナが小走りでやってきて、包みを差し出す。
「差し入れ。お昼の続き。……って、リオ、また泥だらけ」
「泥の方が元気なんだよ」
包みの中には、握り飯と梅の香り。石の上に腰を下ろし、三人で頬張る。ラズリ子爵はおそるおそる握り飯にかぶりつき、目を丸くした。
「……うまい。余裕があると、米はこんなにうまいのか」
「それは梅の力です」
三人で笑う。風が軽く、巡察路が静かに光る。リオは立ち上がり、白線の端を足でなぞった。
「次は門扉の吊り元を、この余裕側に。支点の逃げが取れるように、金具の穴を一つ増やしましょう。磨り合わせの時間を段取りに足します」
「任せる」
ラズリ子爵の声は、最初の見栄えへの固執が嘘のように柔らかい。現場の文官が走り、札が増え、段取りの欄に余裕が幾つも書き加えられる。余白は、さっきまでの空白とは違って、意味のある空きになっていく。
◇◆◇
一週間後、城壁はひとまず町の外周に新しい弧を描いた。仮の巡察路は固まり、控え壁は雨に耐え、御用溝は静かに笑う。飾り門は最後に据えられ、樫の若木が脇で揺れた。人二人分の幅には、親子の手と、荷車の車輪と、兵の足が一度に収まる。ぎゅうぎゅうではなく、すかすかでもない、吸って吐ける幅。
「完成検査、通りました」
工匠院の印を押した文が、リオの手に渡る。ラズリ子爵はいつになく晴れやかな顔で頷いた。
「クラット準男爵。きみの余裕は、城にも人にも効いた。勉強になったよ」
「こちらこそ、飾り門は勉強になりました。見せるものの前に、息を置く」
「うむ。次は息の長い仕事をしよう。たとえば――」
と、そこでサノ親方が笑いながら割り込む。
「次は腹の長い仕事だ。飯だ飯!」
笑い声が巡察路を走り、樫の葉が揺れる。リオは空を仰いだ。コーラ湿原の方角に、夕焼けが薄く残っている。
(余裕をもって。泥にも、人にも、段取りにも)
紙の線と泥の線、その間に息を入れる。その息こそが、壁や畑や街を長持ちさせる。リオはそう思った。
王都ルベリオンの城壁は今日、ほんの少し外へ膨らんだ。余裕をもって。次に雨が来ても、次に人が増えても、受け止められるように。準男爵の肩に乗る泥は相変わらず重いが、その重みには、ちゃんと置き場ができていた。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!