第2話 コーラ湿原、水抜き事件
紅玉の屋根が幾重にも重なる王都ルベリオンは、朝の光を受けてきらめいていた。城壁は思ったより低く、門番の検めは拍子抜けするほど穏やかだ。先行の報告で、地方行列の武功はすでに知られているという。行列は難なく街へ入り、石畳の大通りを王宮へと進んだ。
控えの館に荷を置くと、オルド・セルヴィア男爵が衣桁を指さして笑った。
「リオ君を準男爵にする段取りは整えておいた。あとは……服だな。サイズは合わぬかもしれんが、予備の礼服がある。まずは形からだ」
「ありがたいです……って、袖、ながっ」
袖を二折りして帯で締める。上等な麻に青い縁取り、ほのかな香。磨かれた盾に映る自分は、荷台係から急に遠くの誰かになったみたいだ。隣でミーナがお辞儀の角度を示し、奥方レーナが襟を直してくれる。
やがて白い階段、長い回廊。参内の間には地方貴族がずらりと並び、季のはじめの「割振り」がはじまった。書記官が巻物を広げ、淡々と読み上げていく。
「セルヴィア男爵――および、クラット準男爵」
名を呼ばれ、二人で一歩進み出る。
「両名には、王都南東のコーラ湿原を干拓し、新田を起こす任を命ずる。工匠院・穀政院の共同案件。期日は三季、成果は標として『初穂を王都へ納むる』。以上」
「はは」
頭を下げると、書記官の筆がさらりと走った。――沼を田へ。王都の胃袋に直結する大仕事だ。
翌朝、少数の衛兵と案内役を連れ、二人はコーラ湿原へ向かった。南門を抜けると風の匂いが変わる。湿った草、泥、日差しで甘くなった水の匂い。葦の帯が遠目にも揺れている。
縁で馬を降り長靴に履き替えると、足はずぶりと沈み、ひざ裏で虫が鳴いた。案内役が棒で先を探り、葦の合間を獣道のような筋に沿って進む。やがて、水面が開け、葦の根が焼け焦げたように黒い場所へ出た。
「……燃えた跡だな」
オルド男爵がしゃがみ、焦げをつまむ。リオは葦の陰で白っぽい欠片を見つけた。薄い板を重ねたような殻――鱗の集合だ。
「殻……ですか」
「脱皮殻に似ておるが厚い。火蛇の抜け殻かもしれん」
水面に円を描く気泡が上がっては消える。葦が不自然に倒れて奥へ続く筋。彼らは慎重に分け入った。水際には黒く丸い輪――煤けた吐息が縁取った跡が幾つも重なっている。だが肝心の主は見当たらない。穴は深く枝葉が敷かれているが熱はなく、音もしない。残るのは抜け殻と古い骨、小さな卵殻の砕けだけ。
「もぬけの殻……」
「移ったか、移されたか。いずれにせよ、ここにはおらん。干拓の初手を掛けるなら今だ」
「初手、ですね」
「測り、切り、流す。浅いところを見極め、仮締切で水を止め、溝を刻み、堤を築く」
リオは頷き、小杭と麻縄と簡易水準器を背負子から出した。杭が泥に沈み、縄が葦の間に渡る。水平の気泡が寝ぼけたように揺れ、風が葦を鳴らす。昼過ぎには最初の仮締切が組み上がり、細い溝が蛇のように走って水位は指一本ぶん下がった。
「いい流れだ。明日は堤を強化し、排水路に木樋をかける」
「承知しました」
日が傾き、琥珀の空。王都の塔が遠くに見える。ここが食卓の未来を支える――そう思った刹那、下流で「ひゅ」と細い吸い込み音がした。葦の陰、小さな穴。泥の表面には黒い指でさらりと描かれた半月に縦線一本。泥の匂いに、かすかな甘く焦げた香りが混ざっている。自然の匂いではない。
「男爵さま。誰かが……水を抜いています」
「人の手だな。獣ではあるまい。今は流れを戻せ」
泥を詰め、枝を噛ませると音が落ち着く。オルドは短く言った。
「夜、見張ろう。印の向きが道しるべだ」
夜。星明かりを吸った湿原は黒い息をひそめ、仮締切の脇で耳を澄ますと、また「ひゅ」。印の開く側へ、棒で先を探りながら葦の奥へ。やがて、葦を編んだ四角い仮小屋の灯りが見えた。地面には細い溝が蜘蛛の巣のように走り、竹樋が斜めに突き立てられている。風に乗って鼻の奥を刺す甘く焦げた匂い――熱香。火蛇は甘い香りに寄り、辛い香りを嫌う。匂いを切り替えれば群れを動かせる。
「鈴は鳴らすな。今は嫌う方だ」
「へいへい。だがよ、南下水門までつながっちまえば運びは楽だ」
薄い壁越しの声に、リオは男爵と目を合わせ、指を三本。三、二、一――扉がはね、湿った夜気が流れ込む。
「工匠院・穀政院の共同案件地だ。無許可の水利改変は、ただちに停止」
最初に動いたのは灰色の目の男だった。長身、肩は太い。男は竹樋の栓を蹴り、溝の元栓へ手を伸ばす。
「段取りは俺が決める」
水が怒ったように走り出し、足もとが奪われる。見張りの兄弟が鈴を鳴らし、油皿の火が揺れた。
「上流側の予備溝! 反転させます!」
ここで言う「水の反転」とは、土のうと溝でこちら側の水位を一時的に持ち上げ、相手の抜き穴へ逆向きの圧をかけて流れの向きをひっくり返す手である。
リオは土のうを抱えて駆け、二つ三つと肩で押し込み、濡れた体でふさぐ。上がった水位が圧になって跳ね返り、こちらへ戻る。逆流が仮小屋の足場を内側から抉り、灰眼の男の膝が泥に飲まれた。
「今です、男爵さま!」
オルドの槍が竹樋をはね上げ、衛兵が兄弟の腕を取る。鈴がちゃりんと鳴り、熱香の皿が泥に沈んだ。灰眼の男は歯を見せて笑う。
「やるじゃねえか、準男爵? いや若い兄ちゃんか?」
「身分は関係ありませんよ」
仮小屋の中には木箱が二つ。蓋を開けると、赤く脈打つ結晶――ファイアースネークの火核珠が布の上で転がる。もう一つは粗い地図。半月+縦線の印が線を結び、王都南下水門に赤い丸。
「王都の南下水門に、勝手に水管を通す気でしたか」
「湿原は眠った金庫だ。開拓地の鍵を作っただけだよ」
「鍵を作るなら、持ち主に許可を取るものです」
「許可は遅い。遅い者は食えない」
「名は」
「グレン・ハルプ。灰眼の商会、先遣隊長」
オルドが頷く。
「グレン、身柄は王都で預かる。抜き穴はすべて塞ぐ。案内しろ」
「案内料は高いぜ」
「王都で払おう。審問でな」
灰眼の男は鼻で笑い、素直に先を歩いた。印の向きに沿えば抜き穴は見つけやすい。泥と葦の根で口を詰めるたび、音が「ひゅう」から「ふつ」に変わる。夜明けまでに七箇所を潰し、最後に「元栓」と呼ぶ太い溝を閉じた。倒木と枝を組み、葦束を噛ませ、泥で押さえる。水が一瞬迷ってから、別の溝へ素直に流れはじめる。
「これで湿原の鍵は回収です」
「よくやった。戻るぞ」
朝の光が塔の先に差す頃、王宮で報告が整った。押収物と地図、刻印の写し、塞いだ抜き穴の位置。規定により、無許可工事は即時停止、資材は押収、関係者は審問に付す。
審問室。グレンはあっさり口を割った。火核珠の密採と運搬、熱香による誘導、抜き穴の作り方、印の意味。背後の「大きな顔」については、首を横に振る。
「俺は現場の人間だ。依頼状は灰眼の商会の印章だけ。顔は見てねえ。だが今回の管は、全部俺の線だ。責任は取る」
判決は簡潔だった。資産没収・補償納付・一定期間の公共労役。あわせて南下水門の格子強化と見張り小屋の常設、湿原側には検査杭と公的標識を配して以後の私的改変を禁ず。
外へ出ると、ミーナが駆け寄る。
「無事でよかった。……って、リオ、泥だらけだわ」
「泥の方が元気でしたから」
香草の匂いの布が頬を拭い、緊張がほどける。オルドは地図を広げ、葦の帯に新しい線を引いた。仮締切の二重化、排水路に木樋、堤の芯に石――段取りは目に見える。
「今日中に堤をもう一段。明日、木樋。三日で乾いた帯が見えるはずだ」
「承知しました」
昼過ぎ、湿原へ戻ると風はやわらかい。堤は二重になり、流れは素直に鳴る。杭に麻縄を渡して結び、指先が痛む。けれど心は軽い。(ここは王都の食卓になる。泥は米に変わる。)
夕方、最初の乾いた筋が現れた。子どもの足幅ほどの、しかし確かな島。人足たちが歓声を上げ、どろどろの顔で笑う。
「リオ準男爵の反転は効いたな」
「段取りは俺じゃなくて、水が教えてくれただけです」
遠くで鐘が鳴る。水面がその音を震わせ、葦が金色に揺れた。帰途、リオはふと男爵を見上げる。
「男爵さま。俺、貴族って紙の仕事だと思ってました。でも、泥の上にも、貴族の仕事ってあるんですね」
「紙の上の線は、泥の上の線を動かして初めて意味を持つ。きょう、おぬしはそれをやった」
「……はい」
ミーナが袖の破れを縫い直す。糸が通り、布が元に戻る。流れも道も、縫い合わせれば形になる。
こうしてコーラ湿原の「抜き穴事件」は王都の審問と現場の手で片づき、灰眼の商会の先遣隊は労役に服した。あとは干拓を進め、初穂を王都へ――それが、今の二人の戦場だ。
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