第1話 リオ、手柄をあげる
春の土埃がまだ冷たい街道を、ちょっと頼りない参勤交代の行列が進んでいた。旗には紅玉をかたどった紋章。ここはグラナート王国、地方貴族が一定の期間、首都で政務を担う不思議と実務的な制度――参勤交代が根づいた国である。
制度には妙な抜け穴があった。行列の人数は「二十名以上」と厳しく決まっているのに、「身内か家臣でなければならない」とは書かれていない。つまり、足りないぶんは雇えばいい。季節の農繁期に畑の手伝いを集めるように、参勤交代にもバイトがいるのだ。
そのバイトの一人が、ハタチそこそこの青年、リオだった。生まれは河沿いの小村。腕っぷしより足の速さと度胸で食ってきた。日当は銀貨一枚、飯つき、馬も交代で乗れる。破格の条件に飛びついたのは、姉の嫁入り資金を貯めたかったからだ。さすが貴族、金払いがいい。
行列の主は、青い外套が似合う地方の小領主、オルド・セルヴィア男爵。穏やかな目元に、芯の強さが宿っている。奥方はレーナ。気丈で気さくな女性で、娘のミーナは十六、栗色の髪を風に揺らし、見物の子どもたちに手を振っていた。
リオは一番うしろの荷馬車で、樽と水袋の見張り。たいていは退屈で、たまに荷台から落ちそうになる樽を支えるだけ。だがこの日は、地の底のどこかで何かが目覚めたらしい。
あたりに焦げた匂いが混ざった。風がぬるい。鳥が鳴きやんだ。
「ねえ、いま……地面、揺れた?」
ミーナの声が震えると同時に、先頭の騎手が悲鳴を上げた。土の割れ目から、黒い影がぬるりとせり上がる。鱗は煤け、目は炭火のように赤い。太い胴が路面をうねり、口の奥に橙の光が芽吹いた。
「ファイアースネークだ!」
誰かが叫ぶ。火を吐く大蛇。山の火口近くに棲むはずの魔物が、なぜ街道に――誰も答えられない。考える暇もなく、炎が咆哮とともに吐き出された。
空気が爆ぜ、先頭の旗が一瞬で燃え上がる。馬が暴れ、布と縄が燃え、叫び声が連なった。盾を上げる衛兵たちも、熱風に押し返される。炎は蛇の舌みたいに伸びて、列を舐めた。
リオは荷台から飛び降り、樽の影に身を伏せた。熱い。喉が焼けるようだ。視界の端で、ミーナが奥方に抱きついている。男爵は剣を抜いたが、馬が怖じて前へ出られない。
ファイアースネークが狙いを変える。ぎょろりと首を巡らせ、もっとも豪奢な幌馬車――つまり男爵一家の馬車へ、まっすぐに。口の奥の火が、さらに明るく、強く。
(やばい。あれが直撃したら、みんな……)
リオは樽の並びに目を走らせた。水樽。水袋。干し肉の袋。頭が勝手に計算する。火、空気、水。熱。逃げ場のない幌。喉の奥に火袋があるなら、そこに――。
考えるより先に、跳び出していた。手は馴染んだ革袋の口紐を引きちぎり、片手でくるりと回して重さをのせる。農村で石を追い払うときと同じだ。狙いは、開きかけた顎の暗い井戸。
「こっち向け、でっかい蛇!」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。ファイアースネークの目が閃き、火が喉元に集まる。いまだ――腕がしなる。革袋が弧を描き、光の穴に吸い込まれた。
次の瞬間、蛇の喉で火と水が出会った。
ボン、と世界が一歩よろめいたような鈍い破裂音。続けざまに、圧縮された蒸気が吠える。蛇の頑丈な鱗でも、内側からの圧力には耐えられない。口から白い霧柱が噴き上がり、顎が悲鳴のように弾けた。
吹き飛ぶファイアースネークの頭。巨体がどさりと路面に崩れ、尾が痙攣して土を叩いた。熱風が途切れ、風景の色が戻る。焦げた布の匂いの中で、誰かが泣き、誰かが笑い、誰かがそこらの土にへたり込んだ。
「おお、おぬし、やったな!」
真っ先に駆け寄ってきたのは、オルド男爵だった。外套は焦げ、頬には煤がついているが、目は驚きと喜びに満ちていた。奥方とミーナも続く。ミーナは目を丸くして、リオの手を両手で握った。
「いまの、見た? く、口の中に……」
「たまたまです。……いや、少しだけ考えましたけど」
膝が笑っているのをごまかすように、リオは苦笑した。指先は熱く、革の感触がまだ残っている。周囲では衛兵たちが火の始末に走り、蛇の残骸を警戒して槍を突き立てた。
「なぜ魔物がこんな場所に……」と奥方が呟くと、男爵は首を振った。
「地脈が狂っているのか、誰かが呼び寄せたのか……いずれにせよ、命が助かったのだ。おぬしのおかげでな」
男爵は一拍置き、炎で煤けた行列をぐるりと見回した。規則は規則、参勤交代は続けねばならない。だが、ただ続けるだけでは済まされない出来事を、今この若者がひっくり返した。
「よし、おぬしを下級貴族として取り立てるよう働きかける!」
静まり返っていた空気が、また別の意味で揺れた。バイト仲間が口を開け、衛兵たちが目を剥き、荷馬車の御者が口笛を飲み込む。ミーナが「え?」と可愛らしく首を傾げ、奥方がふふ、と笑った。
「えっ、えええ~っ! おっ、俺が貴族っすか~っ!?」
リオは素っ頓狂な声を上げ、慌てて姿勢を正した。だが直後に「っす」を飲み込んで、ぎこちなく胸に手を当てる。
「……い、いや。光栄に存じます、男爵さま」
「堅苦しいのは首都で学べばよい。名も要るな。身分の名。リオ、おぬしの村の名は?」
「クラット……川の曲がりのところの、クラットです」
「ならば、クラットの名を家名にせよ。リオ・クラット。グラナート王国の下級貴族として、参勤交代の義務も権利も与える」
ミーナがぱちぱちと手を叩いた。バイト仲間もつられて、気恥ずかしそうに拍手する。「すげえ」「出世頭だ」「酒だ酒だ」と口々に叫ぶ声に、リオは耳の裏まで熱くなるのを感じる。
そのとき、蛇の屍の向こうで、白い蒸気がまだ細く立ちのぼっていた。リオはふと、それを見て背筋を冷やす。火と水は、たまたま相打ちになったのではない。あの喉奥には火袋があり、空気の流れがある。水はそれを塞ぎ、圧を生んだ。つまり、知恵で勝ったのだ。
(バイトで雇われて、荷台で居眠りしてるだけの俺が、知恵で……)
胸の奥に、小さな灯がともる。誇りというやつかもしれない。顔を上げると、ミーナがまっすぐこちらを見ていた。驚きが混じった尊敬と、ほんのわずかな心配の色。
「怪我は、ない?」
「ちょっと、喉が焼けたくらいです。水、少しもらえますか」
「はい」
差し出された水袋は、さっきのものと同じ革の匂いがした。リオは喉を湿らせ、深呼吸を一つ。遠くの空に、薄い灰色の雲がかかっている。地脈の乱れは、これで終わりではないのかもしれない。
男爵は手早く隊列を組み直し、傷ついた者を中央に、家族を守る盾を厚くした。燃え残った旗の代わりに、隊の先頭で槍を高く掲げる。行列は、また動き出す。
「リオ・クラット」
呼ばれて振り向くと、男爵が近づいてきた。煤の中で笑うと、白い歯がやけに明るい。
「首都に着いたら、礼服を誂えねばならん。礼法も学ぶ。剣も、読み書きも。忙しくなるぞ」
「え、えっと……日当は、どうなるんでしょう」
思わず口をついた現実的な問いに、男爵は一瞬きょとんとし、すぐに腹の底から笑った。
「心配するな。貴族の俸は、日当で数えぬ。だが、働きぶりは日々見られる。今日、おぬしは十分に見せたがな」
「は、はい」
「それと……」
男爵は少し声を落とした。
「なぜ魔物が現れたのか、私も気になっている。首都で報告し、術士に調べさせよう。おぬしの見立ても聞かせてくれ。『喉奥の火袋を水で塞ぐ』――あれは偶然ではない。そういう嗅覚は、政務にも通じる」
リオは背筋を伸ばした。肩にのしかかる荷は軽くない。けれど、荷を担ぐ足取りは、なぜか軽い。荷台で眠るだけのバイトから、列の中央へ。名前を呼ばれ、責任という見えない外套を渡された。
行列は焼け跡を越え、小川の橋を渡る。水の匂いが新しく、草の色が鮮やかに見えた。ミーナが少し後ろから歩き、時折振り返っては、リオと目を合わせる。照れくさくて、彼は空を見上げた。
首都までは、あと三日の道のり。礼法も政治も知らない青年が、ふいに貴族としての名を得て、見たことのない扉へ向かって歩き出す。怖さもある。けれど、それ以上に、胸を押すなにかがあった。
「よし、やるか」
誰にともなく呟くと、風が返事のように頬を撫でた。荷馬車の鈴がちりんと鳴り、遠くで雲がほどける。焦げ跡も、痛みも、今日のうちに数え、明日には先へ進むのだ。
こうして、一躍ヒーローになる兄ちゃんだった。
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