短歌の選定で、何をえらぶーー「。」問題、再び
万智ちゃんを先生と呼ぶ子らがいて神奈川県立橋本高校
初めて、俵万智さんの短歌に触れたのがこの作品だ。高校のときの現国の先生が教えてくれたものだ。「校正者のざれごと――固有名詞にまつわるエトセトラ」で書いた、ちょっと変わった読みをする私の本名をすんなりと読んでくれた先生だ。ふだんはあいそのない(そして授業もつまらない……すみません)彼が、
「私ね、俵万智さんのサインをもらいに橋本高校まで行ったんですよ」
と授業中に嬉しそうに話していたのをよく覚えている。
問題集の執筆の仕事が来て、短歌のページを担当することになった。流用部分以外に3ページほど新規で作成する。全部で30首ほど新しく選定する必要があった。ひとまず図書館で何冊か本を借り、家に帰ってざっと目を通す。
短歌の単元で子どもたちに出題する内容としては、句切れや体言止め、比喩、倒置法など。こういった表現技法をバランスよく学べるように、それらが使われている歌を選んでいく。中学生が学ぶのにふさわしい内容というのももちろん加味して考える。
図書館から借りてきた本は、定番の古典と、現代作家のものが数冊。まずは古典から。
花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
百人一首でもよく知られる、小野小町の詠んだ歌。花の移ろいと自分の身を重ね合わせたとされる。なぜこの歌が目に留まったかというと、私の愛読書である氷室冴子さんの『なんて素敵にジャパネスク』の中のこんな一節を思い出したからだ。
『小野小町とかいうオバサンは、こういう雨を眺めながら、「花の色は移りにけりな いたづらに」とかなんとか、自分がオバンになってくることを恨みたらしく、和歌に詠んだ』
ここまでバッサリ切ってくれるといっそのこと清々しい。「オバン」はすでに死語だろうか。これは若者の共感を得るのは難しいかなと思い、問題にするのはやめておいた。次の候補を探す。現代作家のものの中にあったのが、次の歌。
自転車のカゴからわんとはみ出してなにかうれしいセロリの葉っぱ
俵万智さんの『サラダ記念日』所収の歌だ。明るくて軽やかで、なんだか元気が出る感じ。短歌というと何やら難しく考えてしまいそうだが、こんな歌なら身近に感じられる。実際、『サラダ記念日』の読者には中学生や高校生も多かったという。これは問題に採用することにした。
俵万智さんといえば、少し前にこんな歌を発表して話題になっていた。
優しさにひとつ気がつく ×でなく〇で必ず終わる日本語
LINEの「マルハラ」に対して一石を投じた歌だ。「マルハラ」とは「マルハラスメント」の略で、例えば「承知しました。」のようにLINEのメッセージの最後に句点(。)がついていると、若者には怒っているように感じられてしまうことをいう。LINEで一度にいくつもの文章を送ることを「おばさん構文」などというそうだが、文の最後に「。」がついただけでそんなふうに怖がられてしまうなんて、少し寂しい気もする。俵万智さんのこの歌は、言葉を業としている人のセンスの良さが感じられる。
ここで、以前「校正者のざれごと――私が本を読まないもうひとつの理由」の中でふれた「。」問題についてのその後を書きたいと思う。
以前書いた内容というのは、村上春樹さんの『1973年のピンボール』と『羊をめぐる冒険(下)』を読んでみたら、前者は会話文の「 」の最後に「。」がついていたが、後者はついていなかった、というもの。最近の本では「 」の中の最後の句点はとることが多い。このときはこの2冊しか手元になかったのだが、ほかの本がどうなっていたのかが気になって、先日実家の屋根裏部屋から村上春樹さんの文庫本を何冊かさがし出してきた(真夏の屋根裏部屋は地獄だった。5分もいればサウナ状態)。
結果は次のようになった(すべて講談社文庫)。
『風の歌を聴け』(1982年) 句点あり
『1973年のピンボール』(1983年) 句点あり
『羊をめぐる冒険(下)』(1985年) 句点なし
『夢で会いましょう』(糸井重里さんとの共著・1986年) 句点なし
『カンガルー日和』(1986年) 句点なし
やはり、年代によって変わっているのかもしれない。年代の古い2冊は句点がついていた。ほかの作家も含めた時代の流れだったのか、村上春樹さん本人のこだわりだったのか。
文章を書くときのこだわりというのは人それぞれあると思う。私自身、ここに文章を書くときにはいくつかのこだわりがある。そのひとつは、書くときは40字×30行の縦組みのフォーマットを使って書き、2ページまでに収めること。すると、文字数は最大で2400字になる。でもどうしても改行の際に何文字分かはアキができるので、だいたい2200字前後の文章になる。これ以上書くと冗長な文になってしまいそうな気がするのだ。なので、はみだした分はどこかを削って最終的に2ページ分に収めるようにする。
ネット上で読む文章は行のアキが多い。適度のアキがあるほうが文章は読みやすいと思う。でも私は自分自身の妙なこだわりのせいで、行をあけると文字数が少なくなってしまうのであけずに書いている。何だかぎっしり文字が詰まっていて息苦しい。どうしようもないこだわりだ。
短歌というのは五・七・五・七・七という文字数の制約があり、その中で表現される。きっと、書きたいと思うたくさんのことを削って削って削って、本当に残ったものを形にしているんだろう。私のこだわる2400字よりももっと少ないたった31文字のなかでこんなふうに表現できるのはすごいと思う。
思い出の一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ
これも俵万智さんの歌。夏の終わり、夕日の差し込む部屋の押し入れの前で、ふと楽しかった夏の日を思いかえす瞬間のような優しさを感じる。
今回私は、自らこだわりを捨て、行のアキを作り、3ページ目を書いている。どうしてだろう。夏休みだからかな。まあ、世間一般は夏休みでも、締め切りに追われる日々はなんら変わらないのだけれど。