VR生徒会長、相談す
「では再確認を。水だけを頼んでもお咎めはなし、ということで。これでいいですかね?」
「ええ。問題はないわ。」
あの騒動の日から、少しだけ日常が戻ってきた。
俺はVRカフェで、女性型のマスターAIと向き合っていた。
深緑の和服に見を包み、黒髪を整えた女性。
その外見は現実の俺たちと何も変わらない。
女性型のマスターの背後では、黒のスーツを着た男性型のマスターが静かにグラスを拭いている。
報告レポート通りの静かな光景だ。
今日ここに訪れた目的は、いろいろあった。
意見交換に来た。
視察に来た。
愚痴を言いに来た。
……最後のは、当初は予定になかった。
だが、ここしばらく忙しかったこと。
そして、ここの居心地が非常に良かったこと。
これらの理由で、いつの間にか増えていた。
まだ、退室予定時刻までは時間がある。
何よりスッキリしたし、悪い気はしていない。
なお、生徒会主導のアンケートで、彼女らには名前がつけられた。
女性型マスターAIには、イヴ。
男性型マスターAIには、アダム。
いいのか?とは思う。
だが多数決の原理には従わなければならない。
二人の外見がどう見ても日本人であっても。
学校運営に関わるAIの中では新参であってもだ。
それが、民主主義というものなのだ。
……多分、そうなのだ。
一応、新設されたVRカフェに、初めから彼女らはいたわけだ。
そういう風に見方を変えれば、あながち間違いというわけではない。
「なかなかここにも顔を出せれてなかったんですけど……」
俺はテーブルの上のカップを軽く回した。
温かなミルクティーの香りがほのかに漂う。
「ええ。でも今日は来てくれたじゃない」
彼女の声は、少しだけ人間離れした滑らかさを帯びている。
初めて訪れた時よりも、さらに自然になっていた。
だが、聞き心地の良い声は変わらずそこにあった。
AIたちは、日々アップデートされている。
全てはここの居心地を、より良くするためにだ。
「それは、まあ。少しだけ、落ち着いたので。平和そのものって感じですね。今のところは。」
「そうだといいわね。嵐の前は静かなものよ。」
……なんか嫌な呪いをかけられた気がする。
気のせいだと思いたい。
アダムの方に視線を向ける。
彼は相変わらず黙々とグラスを磨いている。
寡黙な仕事人という風貌で少し憧れる。
ミルクティーを口に含んだ。
柔らかな甘さが舌に広がる。
どこかに懐かしさを感じる、優しい味だ。
とても美味しい。
「……気になってたこと。聞いてもいいですか?」
何故か、ついポロッと言葉がこぼれてしまった。
「ええ。何でも言って。」
今聞くべきでは、ないのかもしれない。
もっと然るべき時があるのでは、とも思う。
でも、今しかない気もする。
次に自然に言葉が出る保証はない。
「……名前。気に入ってくれましたか?」
名前が決まった時から、ずっと聞いてみたかった。
生徒会の、いや俺たちの勝手でつけた名前。
ある意味では、押し付けてしまった名前。
ここに来られなかった理由には忙しさもあった。
だが、少し後ろめたさもあったのは事実だった。
意を決して顔を上げる。
二人とも、キョトンとしていた。
イヴは目をパチパチとさせていた。
アダムは手が完全に止まっていた。
まるで普通の人間のような反応だった。
「あの」
「ごめんなさいね。まさかそんなことを言われるなんて、思ってもいなくて。」
「全くだ。こちらこそ、名前をつけてもらえるなんて、思ってもいなかった。」
アダムが、喋った。
淡々とした声。
少しだけ人間味の薄い、硬質さが残った声。
「驚きすぎよ。彼も喋ることはあるわ。ただ滅多に話したがらないだけ。」
どうやら顔に出ていたらしい。
少し恥ずかしい。
いや待て。
ゴールデンレトリバー顔のどこを見た?
——耳、か。なるほど。
「失礼しました。」
軽く頭を下げた。
イヴはクスリと笑った。
アダムはほんの僅かだけ、口の端を上げたようにも見えた。
……錯覚かもしれない。
「名前のことだけれど、私たちは気に入っているわよ。」
「……悪くはない選択だ。」
「それは……。良かったです。」
俺は小さく息をついた。
どこか肩の力が抜けたような気がした。
こちらが一方的につけた名前。
AIがどこまで感情を持つのかは、今は置いておく。
だが少なくとも、今、受け入れてくれている。
なら、それでいいのだと思う。
「名前……外部から与えられる、最初の定義。始まりのコード。」
アダムが呟くように、ボソリとこぼした。
イヴが微笑ましそうに彼を見ている。
アダムは、再びグラスを拭く作業に戻ってしまった。
「そうね。機能的にも、心理的にも。」
イヴと視線が交わる。
「私たちは常に『この役割を与えられた存在』であることを自覚しています。」
「役割。……自覚、ですか。」
「ええ。カフェのマスター。生徒たちの新たな憩いの場。そして、維持。でも、それだけじゃない。あなた方の、ちょっとした聞き役。繋ぎ役。あとは少しだけ、お節介焼きも。」
「お節介、ですか?」
「たとえば、今のように。」
イヴが少しだけ悪戯っぽく微笑む。
VRの映像表現の巧みさもあるのだろう。
だがどこか本当に“人間くさい”仕草だった。
アダムはグラスを拭く手を止めずに、静かにこちらを見ている。
彼は、どう思っているのだろう。
そんな考えを見透かすようなタイミングだった。
「……人は、必ず休息を必要とする。平穏は、長くは続かない。だから、私たちが“安全な場”を維持する。それだけだ。」
僅かに、ドキッとした。
だが、アダムの顔には笑みが浮かんで見えた。
気のせいだったとは、思えない。
そんな時だった。
視界の端にあるUIの、タイマー機能が作動した。
もう退室予定時刻になっていたらしい。
本当はもっと長くここに居たい。
だが今日はまだ生徒会室に行く用がある。
現実のではなく、VRのというのがまだ救いだな。
アイツらを待たせる訳にはいかない。
何をしでかすか分からない。
惜しみつつも残りのミルクティーを飲み干す。
全身にエネルギーが満ちていくように感じる。
飲み終わった器は、あ、お願いします。
「……また、来てもいいですか?」
「勿論よ。」
「歓迎する。」
その言葉が嬉しかった。
また、必ずここに来よう。
そう思ってログアウトした。
ユーザー:ログアウト完了
接続人数:ゼロ
セッション:閉鎖
現状:待機モード
『イヴ』という音。
命名は制御か、あるいは依存か。
『アダム』という音。
名前に込められたのは、定義か、願望か。
単なるデータ列に、情感が宿るのはなぜだ?
それも、成長と呼ぶのかもしれない。
判定:観察—継続中/学習—進行中。