名古屋城の研究
学校の帰り道、今日は気分がいい。夏休みの自由研究を無事提出し、先生方や生徒の皆さんから高評価を受けたんだ。テーマは『名古屋城の縄張』。特別に一週間程図書室に展示されることになったくらい。級友たちからも好評で、特にあのこがとても褒めてくれた。あんた案外やるじゃない、感心々々、だって。でもその後すぐに小さな声で、でもお兄さんにこっそり手伝ってもらったんじゃないの?と言ってきた。お兄ちゃんはこの界隈では案外有名なんだ。僕は別段隠す気もないからこちらも小さな声で、勿論そうだと答え、更に、手伝ってもらったと言うより九割がたお兄ちゃんだ、と言った。あのこは大きな口で、はっはっはと笑い、正直なのね、あんたはいい男だ、でもこれは秘密にしといてあげる、とまた僕の背中をポンポンと叩いた。しょうもないことだけど、二人だけの秘密が出来たのはうれしいことだ。多分、変に格好をつけるより良かったのかも知れない。
ただ、今回の自由研究は確かにお兄ちゃんの強力な援助を受けた、けれど僕だって相応の努力はしたんだ。だから別に卑下する必要はない。そうなんだ、お兄ちゃんは僕が今度のことで救援をお願いしたら快く応じてくれた、そして土日二日間の時間を割いて自由研究製作に当たってくれた、しかも当然の如く全く手を抜くことなく、徹底的に―――となればその製作過程の状況がいかに過酷なものであったのかは容易に想像がつこうというものだ。そして実際、想像した通りだった、いやそれ以上だったかもしれない。
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当日の土曜日、七時頃僕はお兄ちゃんに起こされた。ちょっと早すぎるんじゃないかと思ったけど、お兄ちゃんは、一昨日の夜は名古屋城に関する勉強で遅くなり、昨日の夜はアルバイトで午前様だったはず、だから今日の未明か下手したら明け方ごろにアルバイトから帰って来たはず、なんだ。流石にこの僕が不平を言うわけにはいかない。
そこで僕はすぐに起き出して、いそいそと出かける準備をした。今回の自由研究はきっと沢山の本を用意して、若しくは図書館にでも行ってやるもんだと思っていたんだけど、お兄ちゃんは、何言っとる、テーマが名古屋城っつうなら現地を歩かなかんに決まっとるだろぉぉ、と低い抑揚のない調子で言ってきた。これは、絶対そうしなければならない、という意味なんだ。だから仕方がない。他の家族がまだ寝ているなか、そのまま僕らは出かけて行った。
そしてそのまま池下駅へ、と思ったらお兄ちゃんは水道みちの方へ入って行く。何でそっちに向かうのかと聞いたら、朝飯食わなかんだろ、ゆっくり千種駅まで歩いてってホームできしめん食ってこ、なんか今朝はきしめんの気分だで、とのこと。それには異論はない。そこでそのままのんびり歩いて今池を通り過ぎて千種駅に行った。切符を買って駅構内に入る。奇妙なことにお兄ちゃんは鶴舞行きを買っていた。僕はてっきりJRで大曽根まで行ってそこから名城線で市役所駅へ、というコースを想像していたのでおかしいなと思ったけれど、この時は食欲の方が優っていたからその件は後回しにしてしまった。
券売機で、二人ともかき揚げきしめんに卵をトッピングした券を買って店内へ、そしたら店のおばちゃんが、いらっしゃい、おや今日は二人で、弟さん?まあ可愛い子だがね、あんたに似んで良かったわ、と親し気に話してくる。あんたに似んでは余分だわ、とか言いながら、お兄ちゃんも立ち食いのカウンターに手を置いてくつろいでいる。何かお兄ちゃん、常連さんみたいだ。それからすぐにきしめんが出てきて、僕はちょっと背伸びをしながらカウンターに置いて食べ、お兄ちゃんはどんぶりを持ち上げてそのまま平らげた。
ご馳走さま、と店を出てすぐに来た電車に乗った。乗ったはいいけどやっぱり金山方面行きだった。車内でお兄ちゃんに、どういう経路でお城まで行くのかと聞くと、鶴舞で地下鉄に乗り換えて丸の内まで行くと言う。驚いて、市役所駅ではないのかと聞くと、ほんなんお前、三の丸に入ってまうがね、と怪訝な顔で言う。ますます驚いて、それでいいんじゃないの、天守閣に一番近いんだしと言ったら、お兄ちゃん今度はあきれ顔で、自由研究のテーマは名古屋城なんだろぉ、お前が言ったことだがね、とさも当たり前のように言う。お兄ちゃんによると、お城というのはその縄張全体、名古屋城で言ったら外堀の空堀と水堀で囲まれた主に本丸、二の丸、三の丸を全て合わせたものであり、天守閣はおろか本丸単体だって城の一部分に過ぎない、だから『先ずは地下鉄丸の内から城の東南の縁っぺたに行って、そっから縄張をぐるっと一周せなかんに決まっとるだろぉ』ということらしい。僕は少しくらっとした。言い忘れていたけれど、今日も快晴だ、雲一つない。
実は遠足気分だった僕は、だから幾分憂鬱になった。またあの真夏の行軍をしなければならないなんて。でも仕方がない。鶴舞駅に着くころには気分を切り替えていた。電車を降りると、高架駅だったから階段で地上に下りて更に地下鉄駅まで下りて行った。そしてそこから四駅目の丸の内駅へ。駅からは徒歩、一応残暑ということになるんだろうけど、盛夏のように暑い。勿論僕は麦藁帽は被っていた。お兄ちゃんは、鳶のあんちゃんがよくやっているように長めのタオルで頭を包み、でもこれをお兄ちゃんがやると鳶というよりベドウィンの戦士みたいだった。
自由研究フィールドワークのスタート地点までは三百メートルほどだった。そこは堀川に架かる景雲橋の東で、景雲橋小園という公園がありその北には大きな窪地とその向こうには巨大な土手がそびえている。これが外堀でここから東の方に真直ぐ延びているそうだ。お兄ちゃんによると千五百メートルくらいらしいんだけど、こんな言い方いかにも元水泳部だよね。それからお兄ちゃんが、この外堀には昔瀬戸線の線路が敷かれとってここが終着駅だった、この先にも当時の駅跡がある、けどが今回のテーマからは外れとるで忘れてもらってもええ、ただここは大事な地点だで写真撮っとけよ、と言うので僕は早速この大きな土塁を西から東へ向けて一枚、写しておいた。
そしていよいよ出発となる。幸い僕らが歩く外堀通りは名古屋高速の高架下にあり、しかも東西のこの道路の北側の歩道を歩くものだから丁度日陰になっていて暑さがしのげた。だから左手に巨大土塁を見ながら元気に進んで行った。ただ肝心の土塁は、底の方は丈の高い雑草が密生しているし土手部分は大きな樹々で覆われているし、ジャングルみたいになってしまっていてよく分からない。だから、県図書館の辺りとか護国神社へ行ける橋の向こうとかに時折顔をのぞかせる石垣を見かけると、その都度シャッターを押した。お兄ちゃんは、よしよし、要所々々をちゃんと捉えとる、と褒めてくれた。僕は調子に乗って大津橋にあった例の旧瀬戸線駅跡もしっかり写真に収めた。
それからお兄ちゃんによれば、今歩いて来た周辺では五月六月、ヒメボタルが見られるそうだ。主に空堀の中で生息しているらしい。お堀電車が走っている頃からいたようだ。最近になって本格的な保護活動が始まったとのことで、お兄ちゃんは今年早速観察に来たらしい。何で誘ってくれなかったのかと追求したら、ちゃんと誘ったったわ、お前面倒くさいからいいとか言っとったがね、とのこと、申し訳ないけど全然覚えていなかった。来年には絶対来ることにしよう。
そうやって元気に歩いて行くと、市政資料館の近くの交差点で土塁がいきなり直角に北へ折れ曲がっているようなところに出た。ここは雑草や樹木が比較的少なくなっていて、外堀が方向転換している様子がよく見渡せた。お兄ちゃんが、さっき話した瀬戸電な、ここでカーブして北進しとったそうだ、えらい急なカーブでな、半径六十メートルだったそうだわ、と教えてくれる。きっと僕が大津橋の駅跡を撮影してたからだろう。僕は、六十メートルも半径があるならそんなに急じゃないような気がする、と言ったら、車の感覚じゃないで、けどが、お前も丸の内に来るときに地下鉄でこれに近い体験をしとるんだぞ、東別院と上前津の区間だわ、思い出してみやぁせ、車体はちょこっと傾くし、外はでかい金属音がギュンギュン鳴っとったがや、あそこもなかなかの急カーブだでね、とのことだった。確かにその通り。あれが列車の急カーブか。そこでここの景色もしっかりカメラに収めた。
そこからは外堀の東側を北へと歩く。名古屋高速の庇護はなくなり頭上後方からは直射日光、厳しいフィールドワークとなった。しかも道の両側には家屋が建ち並び左側にあるはずの土塁が全然見えない。ただ、所々建物がなく駐車場とかになっている空間があって、あれがきっと土塁なんだろうなというような森がそこから望まれる。仕方がないのでそういうところの写真を撮った。そうやって市政資料館を過ぎ、名古屋拘置所の辺りまで来た。(勿論、名古屋拘置所なんて僕は知らなかった。お兄ちゃんが教えてくれたんだ。どんな漢字なのかとかその施設の仕事内容とかを詳しく話してくれた。でもそんなの子どもにわざわざ教える必要なんてないんではなかろうか)そこには大きな変形五叉路の交差点、その向こうに名鉄の東大手駅の看板、だけ、駅は地下にあるからね。左の方は広い道路で視界が開けている。土塁や石垣、遠くには市役所の建物上部のとんがっている部分がちらりと見えた。そこいらはもう市役所駅だからお城に近付くことになる。そこで僕はお兄ちゃんにここから左に折れて行くコースを提案した。けれど即座に却下された。ほんなことしたら東大手門跡の橋渡ってすぐ三の丸だわ、おまけにそこからちょこっと行ったらもう東鉄門でよ、入ったらたちまち二の丸だて、あかん、だそうな。外堀巡りはまだまだ続く。
この交差点でそこから見える石垣や土塁を撮影して、終わると直ぐに東大手駅の方に渡ってさらに北へと進む。その道の左手には建造物がなく、土塁の様子がよく分かった。その代わり日光は容赦なく降り注ぐ。それにも負けず僕はこの道から見える景色を観察しつつ歩いた。暫くすると前方右手に、地面から線路が生え出ているのが見えた。瀬戸線だ。地下から上って来る区間、その上ご苦労様にも地上に出て来るだけじゃなくてその先が高架になっている。あの電車、これだけ上るなんて難儀なことだ、というようことを独言したら、お兄ちゃんが、ほんなことないて、後ろ見てみやぁ、と言う。振り返りかえってみると、これは何としたことか、背後はなだらかな上り坂になっていて東大手駅付近とこことではかなりの高低差がありそうだ。それにしてもこれまでの道が下りだったとは、左手の土手に注意が行っていて気が付かなかったらしい。でもこっちがこれだけ低くなっているとすれば、あの電車も心配するほど難儀はしていないんだろう。結構なことだ。それはともかくとして、この高低差は大事なところだろう。僕は背後の坂の写真を撮っておいた。
そこでお兄ちゃんが、ここで東の土塁は仕舞いだわ、こっから曲がるで、と言いながら左の細い道へと入って行く。僕も東の土塁の北端の様子をカメラに収めるとお兄ちゃんを追いかけた。暫らく住宅街を歩いて行くと、大きな鉄筋コンクリートの共同住宅が目の前に現れた。その敷地沿いに北へ東へ進んでいるといきなりお兄ちゃんが、ここにな、と話し始める。この立て看に書いたるように、御土居下同心屋敷というのがあったらしいで、その同心の仕事はお城に万が一のことがあったらお殿さんを逃がすというもんだったみたいだわ、つまりお城が敵に攻められて落城してまうことになったら、藩主は絶対助けなかんちゅうことでな、お殿さんは二の丸と本丸搦手馬出の間にある空堀に埋門を通って下りて行く、すると北側の堀に小舟が用意したってな、それで水堀を渡って鶉口――当時この辺一帯をそう呼んどったらしいわ――へ行ってほいでのこの屋敷まで来るんだそうだ、そっからはこの同心達がお殿さんを清水、大曽根から今の春日井方面、そうして木曽路へと落ち延びさせるという寸法だわ、まあ参考までに、とのことだった。僕は個人的に何かにつけて“脱出もの”が好きなので興味がわき、この立て看も撮影した。
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