病は気から
僕は今日、戦場に赴く事となった。
「病は気から」ということわざがあるが、あれは本当だ。人間のメンタルというのはコンディションに直結している。いつも悩みの無い、嬉しい、楽しい気持ちでいると、脳細胞がうんぬんかんぬんで長生きなのだそうだ。その上、笑うと免疫が強くなるらしい。そして何より、自分自身が証明している。「なんか調子が悪い」と感じた時は、あえて違うことを考えて気持ちを落ち着かせる。すると、気付いた時には良くなっているものだ。これで僕は今まで健康に生きてくることができた。これがかえって災いしたのだろう。
これから、国のために、命を賭して戦うのだ。これまで生きてきて、自分が戦うことや、それで命を奪う事など考えてきたこともなかった。これでは、今まで健康で生きてきたことなど無意味ではないか。戦うためにこの身体で生まれ、生きてきたわけではないのだ。ああ、戦場に出たらもう帰っては来れないのだろう。これから残される妻は、娘はどうなるのか心配でならない。人混みの隙間から彼女らがわずかに見えた。支給された薄い防護服に冷たい空気が入ってくる。
「おいお前、どうした?」
「はっ、はいぃっ!」
突然声をかけられて変な声を出してしまった。気合の足りない兵士とでも思われてしまっただろうか。
「シャキッとしなさい。君はこれからこの国を護るのだぞ」
形だけ姿勢は正したが、「シャキッと」しているかと言われると微妙である。行き場の無い気持ちを何とかして腹から押し出す。
「はぁ…」
「なんだお前、陰気くせぇな。ため息吐くんじゃねぇ、不幸が感染る」
今度は反対側から文句だ。半分八つ当たりみたいな怒りをぶつけられてしまったが、言い返す気力もない。おそらく彼もため息を吐きたい気持ちを抑えているのだろう。
しかし、それはあまり良くないのではないか。経験則だが、ため息を吐くと気持ちが楽になる。気分の切り替えができるのだ。できれば我慢はしたくない。
とはいえど、これ以上険悪な雰囲気にしたくないので我慢する。一応、これから戦場に赴く仲間なのだ。ため息を我慢することに対してため息が出そうで危なかった。
「これより、諸君には国を護るため…」
何やら偉い人の演説が始まった。僕らを激励するためのものなのだろうが、僕を含むそれどころではない人々の頭には入ってきていない。少しだけでも送り出しに来てくれている家族の顔を見ておこうと首を伸ばしている。不幸にも僕は列の中央で周りの背も高く、広く見渡すことができない。
結局、隙間から見えた一瞬が最後となってしまった。こんな不幸があるだろうか?最後に家族と話もできず死んでいくなんて。さらには敵国の何の罪もない家族だってこれから奪うことになる。それも数えきれないほど。自分の家庭と重ね合わせ、幸せな家族団欒を想像してしまった。
「お、おいっ!しっかりしろ!」
気付けば僕は倒れていた。遠くざわめきが聞こえる。
「顔色が相当悪いぞ…。うわ、すごい熱だ」
「病を感染されても困る、一旦隔離だ」
初めての病だった。いや、病に罹ったことはあるが、ここまで重篤な症状になったのは初めてだった。感染症ではなかったものの、僕は今回の出撃には出られないという事で、不幸中の幸い、いや、不幸中の不幸による幸いで戦いから逃れることができた。回復は当分先になるようなので、勝ちだろうが負けだろうがこのまま戦争が終わってくれれば、僕は家族と残りの人生を歩める。
「ご自宅からお電話です」
看護婦が線をいっぱいに伸ばして受話器を持ってくる。僕にそれを渡した後、彼女は睨むような目つきで去っていった。非国民とでも思っているのだろうか。なんとでも思うがいい。僕には関係のない事だ。
「もしもし」
「あなた、具合は?大丈夫?」
妻の声だ。心配させたのは悪いが、電話ごしでもまたこの声を聞くことができる。これ以上幸せなことがあるだろうか。夜を照らす大きな月を眺めつつ返事をする。
「だいぶ良くはなったが、元気に動き回るにはまだ時間がかかりそうだ。心配かけて悪いね」
「…私、嬉しいんです。あなたが戦に出て帰って来なかったらと思うだけで、寂しくて寂しくて…」
涙声になっていくのが聞こえる。僕は少し安堵した。妻も戦争に行けなかった僕を責めないか心配だったのだ。
それから、夜遅くまで話し続けた。病室もガラガラで、迷惑もなかったため、心置きなく話せた。
「本当に僕は幸せ者だよ」
「帰ってくる日を待ってるわ」
互いにそう言って受話器を置きに立った。もうふらつかないで自分で立ち歩きできる。今日はよく眠れそうだ。
今朝、僕の体調は急激に回復していた。回復してしまっていた。