資源が有ることで 1939年 ノモではなくフィン
トンデモ設定とトンデモ変化が基本です。
黄金をばらまいた成果が意外なトンデモ変化を。
日本は第二次ロンドン軍縮会議の批准と実行をしたが、その後の国際連盟脱退と期間をおいてだが続いて第二次ロンドン軍縮会議も脱退した。
これで重要な国際関係のうち重要な二つが減った。
個別に各国との交渉を行うが効率は国際連盟加入時に較べると落ちたのは当然だった。
それでも、面倒な条件を受け入れてでも経済援助条約を結ぼうという国はあった。
面倒な条件とは、
1.日本と対等条件であること
2.人種差別撤廃 努力義務
3.普通選挙制度 努力目標
主にこの3点であった。
1は同意できる国も多いが、2と3が問題だった。他の細々とした条件は交渉でなんとかなる普通の案件だった。
最初に条約を結んだのは、フィンランドとデンマークだった。
隠れてはいるが重要な項目に、締結国に有る日本の財産が外国勢力に侵された場合には武力行使も辞さないという項目があった。発動する条件もなかなか厳しいし、交渉国は距離的に遠すぎてせいぜい武器援助くらいだろうと考えている。それでも十分すぎた。そのくらいに脅威となる国があった。
次にイタリアだった。意外すぎる。エチオピア侵攻で弱さを露呈したイタリアだが、国際連盟の制裁に実効性が不足していることも有りのうのうとしていた。
しかし、ファシスト党の足下が弱かった。ファシスト党もナチス党も経済的混乱を背景の一つに勢力を強めたのだが、経済的混乱が隆起によってそれほどでもない規模に抑えられたために今ひとつ支持層も厚くない。国内第1党は確保しているものの、絶対的かというとそうでもない。
人的損害の多さに国内から批判を浴びたムッソリーニ総統は、ついにエチオピア撤退を決めざるを得なかった。
だが、最悪期は脱したが依然として景気は良くない。ならばどうするか。そこに、日本との経済援助条約が見えた。
これだ。1は、いい。2は、努力義務として受け入れよう。時間が掛かるのは仕方ないだろう。3はバチカンのせいにしておけば良い。
フィンランドはソ連の脅威にさらされており、切実に援助を欲していた。経済だけではなく軍事方面でも。
日本との条約はとても都合が良かった。良く分からないが日本もソ連と国境線を接しているらしい。軍事圧力を日本が少しでも受け持ってくれればな。
日本が開始した援助には金銭だけではなく、物資も入っていた。兵器まで。
1939年。ソ連が国境線を越えてきた。日本の動きは遅い。まだ日本の資産が不当に犯されたという事実が無かった。
そんな日本政府の動きをふがいないと、急遽一部の有志(強制)が立ち上がり(強制)義勇軍を結成。フィンランドへと向かった。
一部の有志(強制)は軍刑務所に収監されている将兵と、刑務所まではいかないが営倉送りの多い不良兵たちである。帰還した暁には罪一等を減ずるという言葉で。他の有志(強制)も半数ほどいた。
本当の有志は少ない。
他の有志(強制)の目的は新兵器を実戦に投入することだった。九七式中戦車と九七式戦闘機がそれだ。
部隊の歩兵銃も試製九九式小銃の先行量産型が配備された。反動がきついと小柄な兵からは不評である。
試作機関銃が有るが作動が不安定なので九二式重機関銃を持っていく。
この部隊から国産化されたサルファ剤が各員に支給され携行義務が課せられた。
義勇兵部隊は一般商船8隻に分乗してフィンランドに着いた。日本商船であるため海上護衛戦隊がフィンランド領海外まで全航路護衛に付いた。海上護衛戦隊も戦場の雰囲気を感じたか、動きが硬い。無事フィンランドに到着し荷を降ろすと一目散で帰って行く。
他国は完全にどこかで投入する準備済みだったなとは思うが自国でも在ることなので特に言うことは無かった。ソ連のみが自己を棚に上げて文句を言う。
現地到着は1940年1月中旬だった。日中平均気温マイナス10度はきつい。旭川や樺太南部で開発試験を受けた耐寒装備でもきつい。特に暖かい地方の将兵からすればここが地獄の二丁目かと感じた。一丁目は兵営である。
問題は数多く発生した。
まずエンジンが始動不能である。全車では無い。商船から提供される豊富な電力で、甲板の上に乗っていた車両は荷揚げ前に暖気運転を済ませてある。問題は下の車両だった。排気ガスの滞留が酷く、暖気運転が中止された。
岸壁に降ろしても動けない車両は戦車・トラック問わず、動ける車両で牽引して場所を空けた。九七戦は手で押して場所を空けた。港湾の直線部から飛び立とうと考えていたがエンジンが始動不能では。
士官や下士官が声を上げるが、それで掛かれば苦労しない。
協力に来ているフィンランド軍将兵はヤレヤレという顔で見ている。
結局全て移動が完了したのは翌日だった。
義勇軍の出出しは躓いたが、その後の活躍は素晴らしかった。九七戦は。戦車兵や歩兵が寒さに対応した頃には戦争が終わっていた。飛行兵は真冬の上空で寒気に曝されることもあり経験がある分マシだった。あまり出来が良くないが電熱服という強い味方もある。風防で強い風が直接当たらないのも良かった。
九七戦はポリカルポフI-16を空戦で寄せ付けずI-15も圧倒した。機数では勝てないが局所的な制空権を持つことが可能だった。
九七式中戦車チハは、エンジンが寒冷に弱い(始動できない)以外は寒い事だけが問題で、ソ連軍主力のBT-5やBT-7を圧倒した。KV-1がごく少数投入されたときには至近距離まで近寄らないと四七ミリ戦車砲では装甲を貫通できず、数台やられた後は出会ったら逃げるよう指導された。
後方には、より強力な戦車が求められた。この戦車ではあの化け物に勝てないと。
九九式小銃はさすがに何の問題も起こさず、使用するガンオイルが寒冷に合っていないことを指摘されただけだった。九二式重機関銃も同様で、ガンオイルはフィンランド軍から寒冷用を入手した。
結局フィンランドは負けたが、日本は戦訓を得る事が出来た。特に冬季戦の戦訓は樺太が主戦場になりそうなソ連相手には重要だった。
次回更新 11月10日 05:00
ノモは・・ンハンですよね。
満州が無いので冬戦争で代用。
チハは日本の技術が世界水準に近づいている事によって史実九七式中戦車改に近い内容となっています。主砲も歩兵支援重視では無く対装甲車両を意識されています。
九七戦の外観は引込脚以外あまり変わりませんが、日本の世界水準から遅れていた部分が世界水準に近づいています。最高速度も時速500キロ近いのでは。
サルファ剤は日本に無かったのですよね。有るとばかり思っていました。