月夜のアンソロジー
月がおどろおどろしく光る春の夜、私は短編集と白い猫を連れて川辺を歩いた。街はとうに煌めきを失って、さながら鬱蒼とした深い森のように、しんと静まり返っている。心地よい風が流れる。短編集がぱらぱらとめくれた。
ーー前略ーー
『ここは満ち引きのない海でございます』
白髭の爺が言った。憂いに沈む灰色の声だった。
『僕は死んだのか』と訊くと、
『確答しがたい問いでございますな……』
老人は困ったように白髭を撫でる。
『生とはいわば、光差す闇の切れ間。しかし、光は影と表裏一体なるもの。ここは影のごとき世界といいましょうか……』
ーー後略ーー
白い猫が、んみあ、と鳴いた。私は寂れた鉄橋の下を歩いていた。濡れた新聞紙のにおいが満ちている。あちこちに煙草の吸殻が落ちている。川辺はこの上なく清廉で、不潔で、心地よくて、薄気味悪い。つま先で石を蹴ると、からころと愉快な音がなった。また穏やかな風が吹いて、短編集がぱらぱらとめくれた。
ーー前略ーー
高い高い杉の木の幹を登り終えると、てっぺんに美しい百合の花が咲いていた。地の底から見上げた一筋の閃きは、なるほどこの百合の花であったのだ。僕はいつのまにか白い髭を蓄えていた。その白い髭を撫でて、僕は透き通る百合の花弁に唇を重ねた。
ーー後略ーー
鉄橋の下を抜けると、街は白く湿って、夢うつつのようであった。霧の中に、朧夜桜が見える。冷たい涙が頬を伝った。白い猫はもう眠っていた。




